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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 じっさいには商品価値の実現には困難がともなう。平たくいえば、商品は生産者の思惑どおり売れないことが多いということだ。このことをマルクスは『資本論』で、「まことの恋がなめらかに進んだためしはない」と表現している。
 価値のなかに、価値自体を否定する可能性が含まれている。その否定性をハーヴェイは「反価値」と名づけている。資本を投入して商品をつくったのに、それが流通過程でまったく売れないという可能性はないわけではない。資本にとって、そうした「反価値」の恐怖は克服されねばならない。
「反価値」はどこにでもひそんでいる。材料不足や工場の事故、労働者によるストライキ、サボタージュ、流通のトラブル、支払いの遅れ、さらに不景気や恐慌。それらはすべて価値の実現を阻む「反価値」だ。
 商品の困難は、かならず資本を減価させる。資本の運動を遅滞なく進行させることが資本の使命だとすれば、その使命を実現させるために資本はあらゆる努力を払う。何よりも商品の価値をねらいどおりに実現させること、つまり投資以上の貨幣を回収することに全精力をそそぎこむ。
 市場で「反価値」がはたらいて、価値が実現できないときには、その理由はいったいどこにあるのだろう。売りだされた商品にたいして、だれも欲求や必要、欲望を感じないなら、その商品には(社会的な)価値がないというべきだ。また、商品が買われるためには、買い手がそれを買えるだけのじゅうぶんな貨幣をもっていなければならない。このふたつの条件がはたらいて、はじめて商品の価値は価値として評価され、実現されることになる。
 市場に存在するのは売り手と買い手である。資本家と労働者という社会関係は二の次になり、買い手こそが主役になる。消費者が集団化する場合には、消費者による不買運動さえおこりうる。資本家はこうした脅威が生じないよう万全の注意を払わなければならない。市場こそが商品の戦場なのだ。
「反価値」のもうひとつの大きな要素が負債経済だ、とハーヴェイはいう。
現在、資本主義を維持するには、債務が欠かせなくなっている。たとえば、機械には多くの資本が投入されるが、ある程度の使用期間がすぎると、機械の更新も必要になってくる。そのころには新しい機械もできていて、古い機械を使いつづけていては、激しい競争の時代に遅れてしまう。
 とはいえ、新しい機械を購入するために貨幣を貯蓄するのは、貨幣の死蔵ともいえる。そこで、信用制度(銀行)が救いの手を差し伸べてくれる。新しい機械を買うときに銀行からお金を借りればいいのだ。そして、機械の耐用期間が終わるまで分割払いで債務を返済すればいい。
 銀行から貸し出されるこうした融資は、総計すると巨額にのぼる。こうした債務は、マルクスの用語でいうと、利子生み資本にほかならない。それは貨幣に巨大な流動性をもたらす。
 信用制度は資本の流通の内部で形成される。債務とは、未来に実現される価値にたいする請求権といってよいが、ある意味、それは「反価値」でもある。債務は資本を動かす梃子(レバー)でもあるが、同時に資本を束縛する重荷ともなる。
 信用制度は資本の集中(大企業化)をもたらすいっぽうで、国家による保護を不可避とする。国家と企業は、いわば負債金融によって発展し、維持されている。そのたががはずれるときに生じるのが債務危機だ。
 資本が滞りなく運動するためには、活発な信用制度と開かれた貨幣市場がなくてはならない。いや、むしろ金融制度(負債)が価値の生産を後押ししているといえるだろう。
 現在、利子生み資本は巨大化している。古代ギリシアでは、借金の返済ができないと、多くの債務懲役や債務奴隷が発生した。そうした危険性はいまも変わらない、とハーヴェイはいう。富裕層は金融操作をつうじてますます豊かになり、そのいっぽうで債務の返済を迫られる貧困層はますます貧しくなるという現象が生じている。
「反価値」が巨大な姿をあらわすのは恐慌の時期である。そこでは大規模な「減価」が生じる。価値は実現されないまま、ケインズのいう「流動性の罠」によって反価値だけが膨らみ、そして崩れ去る。
 信用制度が終わりなき資本蓄積を推し進める力のひとつであることをマルクスも認めていた。だが、それは両刃の剣でもあった。
『資本論』には次のような箇所がある。

〈信用制度は生産力の物質的発展を加速し世界市場の創出をうながす。……それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発である恐慌を促進し、それとともに古い生産様式の解体の諸要素を促進する。〉

 金融業者は「詐欺師と予言者」の性格を兼ね備えているというのがマルクスの見立てだった。
現在のマネーゲームにたいするハーヴェイの見方はきびしい。そこからは何か新しい生産様式が出現する兆しもみられないし、ただありあまったカネで株や為替の操作がされているだけのようにみえるというのだ。
 バブルはいつか破裂し、悲しい終末を迎える。
 だが、たとえそれが恐慌をもたらしたとしても、恐慌は資本主義の終焉を意味するわけではなく、むしろ資本主義を再編成するお膳立てをつくるにすぎない、とハーヴェイは述べている。
 マルクス自身、「恐慌は、常に、ただ既存の諸矛盾の一時的な暴力的解決でしかなく、攪乱された均衡を一瞬回復する暴力的爆発でしかない」と考えていた。
 じっさい、恐慌は金融業者にかならずしも破滅的な影響をもたらすわけではなかった。恐慌によって価格は下落し、価値は減価されるかもしれない。だが、使用価値(たとえば土地不動産)はそのまま残る。金融業者はそうした使用価値を回収し、それを売却して利益を得ることができる。
「恐慌とは実のところ、価値生産と価値実現に関わるすべての人々に絶望を感じさせるとともに、反価値勢力[金融業者]にとっては勝利の瞬間でもある」と、ハーヴェイは記している。
 ここでハーヴェイは、流通過程において価値は生まれないとマルクスが考えていたことにあらためて注意をうながしている。流通過程(運輸費を除く)と国家行政にかかわる費用は、生産過程で生じた価値からの控除ととらえられていた。商品がかたちづくられるのは、あくまでも生産過程においてだからである。とはいえ、流通過程におけるコスト削減が、資本により大きな剰余価値を残すことはまちがいない。
マルクスにいわせれば、流通での仕事や官僚による統制、警察活動などは、たとえ必要な労働であっても不生産労働ということになる。したがって、不生産労働の部分が増えて、生産労働の部分が減るにつれて、経済は停滞すると考えられる。
 この章の最後に、ハーヴェイは反価値の政治力学について述べている。資本主義には資本の足をひっぱるさまざまな反価値が想定できる。とはいえ、究極の反価値が反資本主義運動であることはまちがいない。
 たとえば、商品世界の周縁に反資本主義的な生活共同体をつくることもそのひとつだろう。先住民の社会秩序はそうした生活共同体のヒントを与えてくれる。だが、そうした共同体は、商品世界によって都合よく利用されてしまう危険性(たとえば安価な雑用係というような)もはらんでいると指摘することもハーヴェイは忘れていない。
 資本は運動し、拡大しつづけるなかで、さまざまな対抗政治をつくりだしている。労働者は資本家によって雇用され、生産に従事し、商品をつくりだす。ところが、次第に商品をつくりだしているのは自分たちだという自覚をもつようになるだろう。ここから疎外なき自由な活動への潜在的可能性が生まれる、とハーヴェイはいう。
 資本は常に労働力商品の「減価」を画策している。そのいっぽうで労働者の未来の生活展望は、いわば債務懲役によってますます縛られようとしている。
 とはいえ、資本の秩序は不安定であり、その限界がますます明らかになりつつある、とハーヴェイは考えている。

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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 商品の価値は貨幣によってあらわされるという。それなら、貨幣はあくまでも商品の従者にすぎないはずだ。だが、その従者であるはずの貨幣がまるで主人のようにわがもの顔にふるまっているのはなぜか。
 ハーヴェイは本書の第3章で、そうした貨幣の謎に迫ろうとしている。
 価値とは目に見えないものだ。商品の価値、つまり値打ちは貨幣であらわすほかない。マルクスは価値の表象が貨幣なのだという。
 商品に歴史があるように、貨幣にも歴史がある。たとえば、宝貝が貨幣として用いられた時代がある。それがいつしか金貨や銀貨が用いられ、紙幣があらわれ、最近は電子マネーや仮想通貨までが登場するようになった。
 資本は貨幣から商品、そしてまた貨幣へと変身を重ねていくが、資本にとっての最大の困難は、たえざる変身の過程、すなわち資本の流通過程が妨げられることだ。
そこで資本の運動の連続性を確保するために、信用の役割が大きくなってくる。信用と貨幣、価値は連動している。信用もまた貨幣によって表現される。信用とは一定の時間の先に実現(返却)を約束された貨幣であり、その裏づけとなるのが商品の実現されるであろう価値にほかならない。
 現前する貨幣だけではなく、将来実現が約束される貨幣(信用)を組みこむことによって、資本はようやく運動の連続性を確保することができるようになった。だが、それは資本が信用に組みこまれることでもある。資本は信用に束縛される。ますます貨幣への物神崇拝が強まる。貨幣はあたかも社会的権力であるかのように意識されるようになる。
 近代以前、人びとは土地に縛られていた。それにたいし、近代の資本主義時代において、人びとが縛られているのは貨幣である。もし共産主義時代がくるとするなら、それは貨幣に縛られない時代になるはずだ。それがマルクスのえがく遠い未来図だった。
 それはともかくとして、19世紀半ばには、貨幣をめぐってプルードンとマルクスをめぐって、激烈な論争が交わされた。働いても働いても労働者は貧しく、資本家はぬくぬくと豊かな生活を送っているのはなぜか。
 プルードンは労働者が労働時間分の賃金をもらっていないことが原因だと考えた。そのためには貨幣を改革して、労働者に労働時間票を発行するか、働いた時間を示す鋳貨で賃金の支払いをおこなわなうようにすべきだ。さらに労働者に無償信用供与をおこない、相互信用制度も創設して、助けあいの社会をつくらねばならない。
 マルクスはこうしたプルードンの考え方に反発する。価値の根拠となるのは社会的労働時間であって、労働時間そのものではない。どの労働者にも働いた時間分だけ支給するという労働時間票などは荒唐無稽である。しかも、資本家と労働者という生産関係をそのままにして、労働時間分の賃金をよこせという発想は、現在の階級関係をそのまま容認するものだ。めざすべきは、生産手段を共同で保有する協同社会(アソシエーション)でなければならない。
 マルクスは『経済学批判要綱』のなかで、プルードン派のダリモンの所説を批判している。貨幣を改良するだけでは、現在の生産関係と分配関係を変革することはできない、とマルクスは断言する。
だが、それにつづいて、こんなふうにも述べている。
 金属貨幣、紙幣、手形や小切手、さらには社会主義的に構想された労働時間貨幣などと、貨幣にはさまざまな形態がありうる。そして、じっさい、ある貨幣形態がほかに比べて、より扱いやすく、より不便が少ない場合もあるだろう。つまり、ふだんの買い物には紙幣が便利であり、国内の決済には手形が便利だというように。ただし、労働時間貨幣が通用するかどうかはわからない。
 ハーヴェイも「貨幣形態の技術とその活用は、資本の歴史をつうじて何度か大きく変わっている」と指摘する。そして、現在はネットバンキングやビットコインなどみても、「貨幣形態のおける革命が進行中かもしれない」と述べている。
 マルクス自身も、貨幣形態の変遷とそれが社会におよぼす影響に気づいていた。
 資本主義時代がはじまると、価値の表現は金銀の貨幣が最適とみなされるようになった。当初、金や銀といった貴金属はそれ自体が商品だったといってよい。そして、金や銀などの貨幣は、次第に個人の富と権力を測る尺度となり、欲望の究極目的となっていく。
 社会的分業と交換が増大し複雑化すると、貨幣の力も大きくなってくる。交換の道具として導入されたはずの貨幣が、ますます超越的な力をふるうようになるのだ。マルクス自身、貨幣は価値尺度、貯蔵手段、価格の度量標準、流通手段であるだけでなく、計算貨幣や信用貨幣として、ついには資本を算出する一つの生産手段として機能するようになる、と述べている。
 やがて、鋳造の仕事は国家の手に帰する(それは伝統を引き継いだものだ)。金銀は鋳貨となり、いわば「国民的制服」となる、とマルクスはいう。だが、その国民的制服は世界市場では脱ぎ捨てられなければならない。鋳貨は一般に国内でしか通用しないからだ。そのことは「商品の国内的または国民的部分とその一般的な世界市場部門との分離」をもたらす。
 さらに重要なのは次の点だ。国家が貨幣の発行権をもつようになると、貨幣は金や銀といった金属的基盤をもたなくても、行きつくところ「象徴的表象」であればいいことになっていくのだ。
 貨幣が金属的基盤を完全に捨て去るのは1970年代はじめにブレトンウッズ体制が崩壊し、金ドル兌換が停止され、世界が変動為替制に移行してからだ、とハーヴェイはいう。マルクスの時代には、貨幣はまだ金属的基盤に縛られていた。
 マルクス自身は『資本論』第3巻で、こう書いている。

〈貨幣制度[重金主義]は本質的にカトリック的であり、信用制度[信用主義]は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金(きん)を忌み嫌う」。紙幣としては、商品の貨幣的定在は純粋に社会的な定在をもっている。救済をもたらすのは信仰である。商品の内在的精霊たる貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序にたいする信仰、自己増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰である。しかし、プロテスタンティズムがカトリック教の基礎から解放されていないように、信用制度も貨幣制度の基礎から解放されていない。〉

 いかにもマルクスらしい言い回し。商品の価値実現への渇仰が、いまだに金属基盤から離れられない貨幣の解放を求める。それを後押しするのが信用主義の広がりである。ところが、信用が揺らげば、たちまち貨幣への回帰(貨幣の回収)がはじまる。
 信用がゆらぐのは、流通過程における商品価値の実現があやぶまれ、資本の回収が危機に瀕しているときである。それは恐慌時だ。資本主義的生産は、「この金属的制限を絶えず廃棄しようと努めながら、また絶えず繰り返しこの制限に頭をぶつける」ことを避けられない、とマルクスはいう。
 ところが、1970年代になって貨幣の金属的基盤が放棄され、貨幣が象徴的表象として国家と中央銀行によって管理されるようになると、マルクスの想定していた制限は乗り越えられてしまった、とハーヴェイはいう。
 かずかずの利子生み資本(たとえば公開株や投資信託、社債)が、終わりなき資本蓄積を促す原動力となる。銀行などの金融機関は土地不動産投機に資金と投資をふりむける。労働者の消費はクレジットカードによって増大する。自分の家や自動車を買うため、多額のローンを組む労働者も増えてくるだろう。資本主義は膨張していくが、その膨張を金融面で支えるのが国家だ。
 貨幣ならぬマネーが独り歩きするようになる。株式市場では価値増殖活動を大幅に上回る株式が高値で取引される。外国為替市場でも巨額の取引がおこなわれる。「価値創造とは無関係な単なる投機的あぶくや取引上の空騒ぎがどれだけの規模となるかは見極めがたいものがある」と、ハーヴェイは書いている。
 金融システムに集まった過剰資金は、資本の再投資を活発にする。金融システムは流動資産の巨大な貯水池となり、いわば企業の共同資本をかたちづくり、信用創造にもとづくテコの原理(レバレッジ)によって貨幣資本に流れこんでいく。
 そうしたなかから、特異な資産家(投資家)階級、すなわち金融貴族が生まれてくる、とハーヴェイはいう。金融貴族は個人である場合も団体や機関である場合もある。いずれにせよ、かれらは自己の貨幣資本利益率を必死に追い求めて、投資運用をおこなうようになる。
そうした金融貴族は19世紀にも存在した。マルクスにいわせれば、かれらは経済社会の吸血鬼のようなものだ。
 投資家の存在は、不安定な市場における投機活動をもたらすだけではなかった。20世紀にはいって、企業における所有と経営の分離を促進した面もある。マルクス自身は、金融貴族が「他人の貨幣にたいする絶対的支配力」をもつようになったことが重要だと考えていた。
 現在では、債権債務制度をつうじて組織化された少数の金融貴族による経済支配がさらに進んだ。金融貴族たちは経済社会全体にカネもうけ第一主義の思想を埋め込んでいく。その結果がどうなるかをハーヴェイは問おうとしている。
 長くなったので、きょうはこのあたりで。

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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(2) [商品世界論ノート]

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『経済的理性の狂気』第1章では、資本とは何かが大まかに説明された。資本とは、原料と機械と労働力を用いて商品をつくりつづけていく力だといってよい。資本はお金にはじまってお金に終わる。〈経済権力〉と名づけてもいいだろう。世界を変えるのは商品そのものである。だが、その背後には商品をつくり、商品を動かし、商品を売りだす経済権力としての資本が控えている。近代の経済史は、経済権力としての資本(そして、それを束ねる国家)の興亡史としてとらえることができる。
 その資本をマルクスは『資本論』でどのようにとらえていたかを概観するのが、第2章のテーマである。ここではマルクスの達成した業績と達成できなかった課題が示されることになる。
『資本論』は全部で3巻からなる。マルクスは資本が正常に機能することを前提として、「運動する価値」としての資本の膨張を論じている。
 第1巻で論じられるのは価値の増殖過程、つまり商品の生産過程である。これにたいし、第2巻では価値の実現過程、言いかえれば商品の流通過程が論じられ、第3巻では価値の分配過程、とりわけ利潤の分配が論じられる。こうして資本は生産、流通、分配の過程を終えて、ふたたび同じ過程をくり返していくことになる。
 だが、ものごとは、そうはうまくはいかない。資本はみずからを実現する過程で、さまざまな矛盾をかかえてしまうからである。
『資本論』全3巻のうちで、マルクスがみずから出版にこぎつけることができたのは第1巻だけである(1867年)。あとの2巻はマルクスの膨大なノートをエンゲルスが編集するかたちで、第2巻が1885年に、第3巻が1894年に発刊された。さらに残された学説批判の部分は、カウツキーによってまとめられ、1905年に『剰余価値学説史』として刊行されることになる。
 ハーヴェイが全3巻からなるマルクス『資本論』の体系をどのようにとらえているかを、以下、ごく簡単に紹介してみたい。
 最初にこう書いている。

〈私の推測では、『資本論』におけるマルクスの根本的な真意は、当時の政治経済学者たちが推奨していた自由市場資本主義というユートピア的見解を脱構築することにあった。彼が示したかったのは、スミスその他の人々が想定したのに反して、市場の自由が万人にとって有益なものにはならないということであり、しかも、それは資産のある資本家階級には莫大な富をもたらし、大衆には貧困という反ユートピアをもたらす、ということである。〉

 マルクスは近代(マルクスに言わせれば近代の悲惨)の源ともいえる資本の謎を謎を探るために、資本の動きを構造的にとらえようとしたとまとめることができる。
 とりわけマルクスが重視したのは、資本が商品を生産する過程では、かならず剰余価値が生みだされているということだった。その剰余価値は生きた労働力によってつくりだされるのであって、市場が剰余価値を生みだすのではない、とマルクスは考えた。労働者は必要労働時間以上にはたらいて、労働力の価値以上の価値を生みだすのである。
 ただし、ここで念のためにつけ加えておくと、ぼく自身は(おそらくハーヴェイの理解ともちがって)マルクスの仮定にはきわめてトリッキーな前提が含まれていると考えている。マルクスは商品をつくるのは労働者だと考えているが、これはとうぜんのようにみえて、じゅうぶん疑う余地がある。なぜなら、労働者は商品をつくっているのではなく、つくらされているのだからである。雇用された労働者は、つくられる商品の所有者ではない。したがって、労働者は搾取されているとは単純にはいえないのだ。無論、そのことは賃金は低くてとうぜんという意味ではないし、低すぎる賃金はそれこそ搾取というべきである。
 とはいえ、商品の剰余価値が流通過程においてではなく生産過程で生みだされていることはまちがいない。流通過程は商品を生みだしているわけではないからである。俗なことばでいえば、もうけのでない商品をつくって売ろうとする企業は成り立ちようがないのだ。
 マルクスのモデルによれば、資本家は剰余価値を徹底して追求する。それは資本の蓄積を推し進め、市場占有率を高めるためだ。生産効率を挙げるためには、新たな技術が導入されなければならない。それにより半失業者と失業者からなる産業予備軍が形成され、賃金はさらに低下する。いっぽうで、資本の蓄積はさらに進む。マルクスはそんなふうに考えた。
『資本論』第2巻では、流通過程における価値の実現が論じられる。商品が売りに出される(したがって商品の所有権が購入者に移転される)にあたって、頭のなかの計算でしかなかった価値(剰余価値を含む)は、いよいよ実現されて、貨幣へと転化するのだ。
 マルクスはその過程が順調に想定どおり進行すると想定している。ここでは需要と供給が一致することが前提となっており、そこから再生産表式が導きだされる。
 基本となっているのは産業資本である。資本は生産資本、商品資本、貨幣資本へと次々変身していくが、産業資本家はそれを統率するとみられている。だが資本が巨大化すればするほど、その統率はより困難になる。
 マルクスは、技術革新や組織革新の問題を後回しにしているが、資本のつくりだす商品が、それぞれ固有の生産期間や流通期間をもつことは指摘されている。イノベーションの目的は生産期間や流通期間を短縮、加速することによって、より多くの利潤を確保することである。生産の加速はより多くの固定資本を必要とするが、ここでは銀行をはじめとする信用制度が大きな役割をはたすことになる。
 ハーヴェイによれば、マルクスは第2巻で「能率を向上させ絶えず加速させようとする強力な動機が、資本の流通に存在する」ことを強調しているという。それはそうだろう。市場こそが、じっさいに商品どうしが競い合う格闘場なのであって、そこで勝ち抜き、みずからの価値を実現するには、商品自身の力を高めなくてはならないからである。
 さらに、マルクスは市場における価値の実現を困難にする要因をすでに指摘していたとも論じている。それは有効需要の不足である。経済を安定させるのが労働者の有効需要であるにもかかわらず、資本のたえざる合理化努力は、労働者の有効需要をけずる方向にはたらいてしまうのだ。その矛盾が市場に不安定要素をもたらし、経済の長期停滞をもたらす一因となる、とハーヴェイは論じている。
『資本論』第3巻のテーマは価値と剰余価値の分配である。ここでは、すでに流通過程において、無事、商品の価値が実現され、価値が貨幣に転化されたことが前提とされている。資本の規模が変わらなければ、商品の売り上げは、当初スタートした分と同じ金額が、材料費や労賃などにあてられて、新たな商品生産過程に投じられるだろう。
 だが、剰余価値として得られた分はどうなるのだろう。このとき市場で実現された剰余価値は、当初、生産過程で計算上想定された剰余価値とは異なっている。市場での競争が、いわば利潤率を均等化し、時に低下させて、剰余価値の実現を歪めてしまうのである。
 さらに産業資本家は、商品の生産過程で銀行などの金融機関や土地所有者に頼らなければならず、商品の流通過程においても、商人資本家に頼らなければならない。すると、産業資本家の手元に残る剰余価値は、商人や銀行、土地所有者などに剰余価値の一部を引き渡したあとの残りということになる。
 とりわけ大きいのが商人(商業)の役割である。市場での商品の販売には時間がかかるため、産業資本家はただちに商品を商人に引き渡して、商品の販売をゆだねる。商人は、市場への輸送活動などは別として、新たな価値を生みだすわけではない。「価値実現や価値の貨幣化を、より効率的に、より迅速に、より安全に行なう見返りとして、産業資本によって事前に生産されていた価値の一部を領有するのである」と、ハーヴェイは論じている。
 イギリスでは土地の囲い込みと私有化によって、大量の賃金労働者が生みだされた。土地はそれ自体が価値をもっているが、『資本論』では資本家が剰余価値のなかから地代を支払うことが想定されている。
 さらに資本主義の発展にとっては、銀行と金融機関が大きな役割をもつ。原材料の仕入れや長期にわたる生産期間、あるいは機械の投入など、資本家は常に多額の資金を必要とし、それを自己資金だけでまかなうのはほとんど不可能である。また、貯えた余剰資金をどこかに預けておく必要もある。こうしたことから信用・金融制度がいっそうの高度化を求められるようになるのだ。
 銀行と金融機関は貨幣を通じて、資本の生産活動に関与する。資本の生産活動には、多様な時間性が作用するが、その基準となるのが時間とともに変動する利子率である。これによって貨幣に価格がつけられることになる。
 ハーヴェイはこう書いている。

〈銀行と金融機関は、商品としての貨幣を取り扱うのであって、価値生産を取り扱うわけではない。それらは貨幣利益率が高いところなら、どこにでも貸し付けるのであって、生産的活動に従事していないところでも構わない。〉

 こうして銀行は産業資本にかぎらず、土地不動産会社や商人資本家、国家、さらには消費者にも貸し付けをおこなうことになる。その貸付額は、預金として保有する資産額の何倍、何十倍にもおよび、時に恐慌となって、債務の破裂をもたらすことがある。
 さらに銀行・金融機関からもたらされる剰余資金、すなわち利子生み資本の存在も無視できない。それらは投機家(資本家を含む)などに貸し出される貨幣商品となる。資本家が投機家に変貌すると、貨幣所有者と生産者が区別され、企業における所有と経営の分離をもたらすることになるだろう。それによって「株主は、貨幣資本の投資運用益を要求するのにたいし、経営者は、生産機能の積極的組織化をつうじて自分の取り分を請求する」ようになる、とハーヴェイは解説する。
利子生み資本の存在は、たとえば住宅ローンや投資信託などのように、マルクスの時代よりも現代のほうが、より大きな、そして時に深刻な問題を投げかけるようになっている。
 マルクスの目標は資本を総体性としてえがくことだった、とハーヴェイはいう。資本は次々と商品をくりだし、以前の商品を排除したり、更新したり、置換したりしながら、まるで有機的な総体(人格をもつ「法人」)として進化していく。
 とはいえ、マルクスの『資本論』は、ついに全体的理論としては完成しなかった、とハーヴェイは明言している。研究テーマとしては、ほかに競争や国家(税)、世界市場、恐慌なども挙げられながら、それらは遂に深く追求されることがなかったという。
 資本は「運動する価値」の蓄積する永続的な全体として可視化することができる。じっさい、ハーヴェイはそれをチャート化している。だが、進化しつづける資本は自然破壊を含め、常になんらかの軋轢を引き起こし、世界じゅうで悲劇や闘争を招きつづけることになる。
 ハーヴェイは未完の『資本論』を導き手としながら、「経済的理性の狂気」に満ちた現在の経済社会を読み解こうとしている。
 つづきはまた。

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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 デヴィッド・ハーヴェイは多作である。専門は経済地理学だというが、マルクスの『資本論』を再評価し、現在の経済社会に大きな疑問を投げかけたことでも知られる。拙ブログでも、これまでかれの『資本の〈謎〉』、『〈資本論〉入門』、『〈資本論〉第2巻・第3巻入門』を紹介してきた。
 今回取りあげるのは、かれが82歳のときに出版した『経済的理性の狂気』である。本書も『資本論』にもとづいて現代経済社会を批判しているといってよいが、その緻密な論理をたどるのは、ぼくにはいささか荷が重い。あまり深入りせず、できるだけ軽く紹介するにとどめたい。毎回読めるのはわずかのページにすぎないだろうが、ぼくの頭ではついていけない懸念もある。
 それにしても、ハーヴェイの切れ味はなかなかのものだ。日本では、マルクス・ルネサンスといえば、斎藤幸平の名前が挙がるが、ぼくにはデヴィッド・ハーヴェイやナオミ・クライン、トマ・ピケティのほうが、より本格的な気がする。
 なにはともあれ最初から少しずつ読んでみよう。
「マルクスは第一級の理論家、研究者、思想家であるだけでなく、活動家であり論客であった」とハーヴェイは書いている。
 これにはほとんどだれも異論がないだろう。だが、マルクスはけっして過去の理論家ではない。「資本」を研究し尽くしたマルクスは、資本がますます重要性を帯びる21世紀のいまも大きな「問い」を投げかけているのだ。

〈マルクスは、資本の運動法則とその内的諸矛盾、その根底的な非合理性について予見に満ちた解釈を示したが、これは、現代経済学の皮相なマクロ経済諸理論よりも、はるかに鋭敏で洞察力のある説明であることがわかっている。……その洞察は取り組まれるに値するし、まったくしかるべき真剣さをもって批判的に研究されるだけの価値がある。〉

 ハーヴェイはマルクスの『資本論』が、いまでも真剣かつ批判的な研究に値すると書いている。
 そもそもマルクスの資本概念と資本の運動法則とは、いったいいかなるものだったのか。
 マルクスの功績は、「運動する価値」として資本をとらえたことにある、とハーヴェイはいう。
 資本の運動の流れは、簡単にいうとこうだ。

(1)資本は生産手段(原料や半製品、機械、道具、設備その他)と労働力を市場から調達する。
(2)資本は調達した生産手段と労働力によって、商品を生産する。
(3)資本によってつくられた商品には、最初に前貸しされたものより多くの価値(剰余価値=儲け分)が含まれている。
(4)資本はその商品を販売して、貨幣を回収するが、そこには利益も含まれている。
(5)資本はその貨幣をふたたび資本として、また商品をつくるという過程を繰り返す。

 これが資本の循環である。資本は貨幣としてはじまり、商品にかたちを変え、それがふたたび貨幣となって戻ってくる。すると、その一部が賃金や利子、地代、税金、利潤などに分配されたあと、また商品をつくる過程が繰り返される。ただ、それが単なる循環と異なるのは、資本の流れが「絶えず拡大するスパイラル運動」となることだ。しかも、資本は少しもじっとしておらず、たえず「変身」をくり返していることがわかるだろう。
 資本は「運動する価値」だという。ここで引っかかるのは「価値」という用語だろう。「価値」とはいったい何か。価値は目に見えない。じっさいそこにあるのは、原料やはたらく人や機械、さらにはできあがった商品、そして商品を売ったお金などである。だが、そのなかには絶えず変身しながらも、一貫して保持され、実現される力の作用がある。それが価値だといってよい。
 価値とは値打ちである。あの材料には値打ちがある。あの男には値打ちがある。あの商品には値打ちがある。お金には値打ちがあるという言い方はふつうになされるだろう。しかし、その値打ちはいったいどこから生まれてくるのだろう。材料がそのまま放置され、男がちっとも働かず、商品がまったく売れず、お金があっても買えるものがなければ、それらにはまったく価値がない。価値は動き関係することによってしか生じない、目に見えない何かだということができる。
 さて、のっけからややこしいことになってきたけれど、価値は経済社会を成り立たせている根源的要素とみることができる。マルクスは価値の根拠を「社会的必要労働時間」ととらえた。とはいえ、ここに労働至上主義的な色彩を感じる必要はないだろう。
 人がはたらかなければ、経済社会は成り立たない。経済社会が成り立つのは、人がはたらいているからである。資源にしても、材料にしても、機械にしても、貨幣にしても、人が存在していなければ、それらはそれ自体、何の価値もない。価値をつくりだすのは人である。資源にしても、原料にしても、労働力にしても、機械にしても、商品にしても、お金にしても、人がそこに価値をみいださなければ、そこに価値はない。人は価値あるものを生みだし(あるいは見いだし)、その価値あるものを使い、用い、味わい、消費することによって経済社会を営んでいる。マルクスはその価値が人のはたらきによってしかつくられないことを、あらためて確認したといえるだろう。
 近代を動かしてきたのは「資本主義」だと言われれば、そのことにだれもが反対しないだろう。しかし、なぜそれは資本「主義」なのだろうか。端的にいうと、「資本主義」とは、国家が推進する資本のイデオロギーにほかならない。マルクスは『資本論』において、国家を抜きにした純粋資本の論理を追求した。だが、近代のはじめから、資本は国家の支援を受けていたといってよいのではないだろうか。
 資本には「近代」をつくりだす力があった。ハーヴェイは資本を「運動する価値」と理解し、それがなぜ「推進力」をもっているのかを説明しようとしている。
 資本が「運動する価値」であるのは、それが貨幣から商品、そしてまた貨幣へとたえず変身を繰り返し、やむことなくみずからを再生し、しかもその再生によって強化、拡大されていくという「推進力」をもつからである。
 資本の拡大は資本を擁する一企業にとどまらない。資本はたえず変身しながら、無数の新たな分身をつくり、社会全体(ならびに国家)を巻きこみ、社会そのものを変えていく。資本のつくりだす先兵は商品にほかならないが、そのかずかずの商品こそが、その同行者である貨幣とともに、人の生活や生き方、時間と空間、環境などをはじめとして、社会そのもの、さらには国家のかたちまでを変えていくのである。
 マルクスははじまったばかりの近代において、資本の尽きることのない推進力に直面し、その脅威と困難を克服する方向を探ろうとして、『資本論』を書いた。『資本論』は未完のままに終わり、「資本の時代」を克服するという課題もまだ達成されていない。強権的な政治によって、「資本主義」をねじ伏せようとした「社会主義」のこころみは、資本の返り討ちにあってしまった。それでもマルクスの課題は、いまも残されたままだ。ハーヴェイはおそらくそんなふうに考えている。
 本書の第1章では、資本が変身を繰り返し、拡大しつづけることが大きなテーマになっている。
 資本はまず貨幣(資金)として登場する。その貨幣は生産手段(原材料や半製品、機械、道具、工場、設備など)と労働力に姿を変え、貨幣としては消滅する。この段階では資本は生産手段と労働力に変身している。
 次に資本は生産手段と労働力を使って、商品を生産する。重要なことはこの商品に剰余価値が含まれていることである。資本はもうからない商品はつくらない。そのもうけがどこからでてくるかというと、労働力によってでしかない。この段階では資本は商品に変身している。
 そして、資本が変身した商品は、市場に回され、販売されて、貨幣となって戻ってくる。このとき資本によってつくられた商品は消費財(賃金財)とはかぎらない。奢侈財や生産手段でもありうる。だが、いずれにしても、市場に流れることによって、資本は商品から、ふたたび貨幣へと変身するのである。
 無事、貨幣へと環流した資本は、その一部を労働力と生産手段の購入に回し、ふたたび商品の生産に着手する。だが、商品の販売によって獲得された貨幣にはすでに剰余価値が含まれていた。その剰余価値は、税金や利子、賃貸料、使用料、地代、利潤、さらには賃金や生産手段の追加分などに回される。ここで重要なのは、環流した貨幣が資本の分身として、社会全体にちらばっていくことである。
 以上はごくごく簡略化した資本のモデルにすぎない。だが、経済的理性はなぜ狂気へと変わっていくのか。ようやく第1章がはじまったばかりである。

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産業革命──ヒックス『経済史の理論』を読む(8) [商品世界論ノート]

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 19世紀末に産業革命がはじまる前段階の経済を、ヒックスは農業経済プラス商人=職人経済ととらえている。農業はすでに市場化しており、都市にはプロレタリアート(過剰労働力)があふれていた。
 市場向けの商品をつくる職人は同時に商人でもある。職人と商人のちがいは、「純粋の商人の場合は買い入れるものと売るものとが物理的に同一の形態であるが、職人は買ったものを形を変えて売っている」ところが異なるにすぎない。したがって、「経済的には手工業と商業とはまったく一致している」とヒックスはいう。
 そこに「産業革命」がやってくる。産業革命は「近代工業の勃興」を意味するけれども、それは商人=職人経済とは根本的に異なっていた。そのちがいを、ヒックスは「固定資本」の巨大化に求めている。もちろん、商人も店舗や倉庫、事務所、運輸手段などの固定資本をもっているけれども、商人の資本の大部分は大量の商品からなる「流動資本」、言い換えれば「回転資本」である。これにたいし、企業家の資本で中心を占めるのは、固定資本、すなわち機械装置そのものだ、とヒックスはいう。
 産業革命がおこったとき、ヨーロッパは商人経済のピークに達していた。交易網は国内だけではなく非ヨーロッパ地域にまで広がっていた。だが、多くの利益を生む商品はなくなっていたのだ。例外は、アフリカ−アメリカ間の奴隷交易や、インド−中国間のアヘン貿易くらいだった。そのため「交易が不断に成長し続けるためには、ヨーロッパは自ら輸出品を生み出さなければならなかった」。ヒックスはそこに産業革命にいたるひとつの動機を求めている。
 さらに、産業革命を促した要素として挙げられるのが、金融の発展と利子率の低下だった。多額の資本を固定資本(機械装置)として据え置くためには、みずから巨額の資金をもっているならともかく、たいていは銀行や商人から資金を借り入れなければならなかっただろう。イギリスではそうした余裕資金が存在し、それが利子率の低下をもたらしていた。
 そこに、産業革命の肝心の要因がつけ加わる。産業革命とは近代工業の勃興にほかならないが、それは「単なる新しい動力源の発見の所産ではなく科学の所産なのである」とヒックスはいう。つまり新たなエネルギー源と科学的発明が結合することによって産業革命が誕生するのだ。
 その代表ともいえる装置が蒸気機関だった。蒸気機関は炭坑の排水、紡績、織機などに用いられたほか、機関車や蒸気船を生みだすことになる。
 工作機械の発明も忘れてはならない。工作機械は金属や木材、石材の加工に用いられたが、それは人間の手によるよりはるかに精密に、かつ早く作業をおこなうことを可能にした。
 産業革命を代表する機械としては、繊維機械が挙げられるだろう。だが、それは古い産業の延長であって、その規模はさほど大きくなかったという。
 ヒックスは科学の役割を強調する。

〈科学は技術者に刺激を与え、新しい動力源を開発し、その力を通じて人間の手にまさる精密さをつくり出し、機械コストを低下させて機械利用の範囲を拡げる。このような科学の影響こそが、広大な変容を生み出す真の革新、真の革命なのである。なぜなら、科学の影響は繰返しあらわれ、いわば無限に反復されるからである。〉

 こうして産業革命がはじまり、科学技術が進歩するなか、新たな資源の開発によって、次々と新たな商品が生み出されるようになる。だが、産業革命が進展するとき、労働市場はいったいどうなるのか。
 産業革命にもとづく工業化によって、どの国でも実質賃金が上昇したことは事実である。工業化により生産力が増大し、その成果は国民全体に配分された。だが、問題は、工業化の進展よりも実質賃金の上昇が遅れたことだ、とヒックスは指摘する。
 その要因としては、当時の労働市場に過剰ともいえる豊富な労働供給があって、そのため過剰労働力がなくなるまで、多くの時間がかかったということが考えられる。過剰労働力がなくならないかぎり、実質賃金はさほど上昇しない。
 もう一つ考えられるのは、機械が労働にとって代わったために、熟練労働者が職を失ったということだ。長期的にみれば、経済成長率の上昇は、労働需要の増大をもたらすはずだ。しかし、短期的には、労働節約的な発明によって、経済全般にわたって、労働需要の拡大が鈍化した可能性がある。ここからはマルクスのいう労働者の窮乏化理論が導きだされるだろう。
 だが、機械化はかならずしも労働者の窮乏化をもたらさなかった。次々と固定資本、言い換えれば機械設備が更新されていくと、機械設備そのものが低廉化するだけではなく、生み出される商品自体も安くなっていく。いっそうの技術進歩が生産力の増大をもたらす。こうした現象は一企業にとどまるわけではなく、全企業、さらには全産業におよんでいくだろう。そのことが労働需要に有利な効果をもたらす。過剰労働力が吸収されると、実質賃金は上昇していく。こうして産業革命が全体に普及していくと、労働市場が活発化し、賃金の上昇がもたらされることになる。
 産業化にともない、新しい労働者階級が生まれつつあった。労働者は臨時雇いではなくなり、その雇用は一段と恒常的になった。
 近代工業は固定資本の使用に依存するが、耐久設備が継続的に使用されるとすれば、「それを運転するために、多少とも永続的な組織として労働力を必要とする」ようになると、ヒックスは記している。そうしたなかで、工業労働者は徐々に大きな「集団」となり、やがて「組合」や「政党」を結成していく。賃金の上昇は、労働者の組織化と無関係ではなかった。

 最後にヒックスがつけ加えるのは「国家」の役割である。
いつか国家はなくなるかもしれないが、少なくとも現時点では国家はまだなくてはならない存在だと書いている。
 19世紀の「自由貿易」の時代には、発展する国が次第に増加することが期待されていた。それ以前の17、18世紀は「重商主義」の時代だった。重商主義は経済を国益の手段とすることをめざしたが、それは失敗し、自由貿易の時代へと移っていったのだ。
 第1次世界大戦後になって、「行政革命」がおこる。国家は官僚制をつくりあげ、従来まったく手の届かなかった「福祉」に手をつけるとともに、国益のために貿易や経済活動全般を規制することができるようになった。
 自由貿易時代に商人経済を発展させるもう一つの手段が植民地主義だったことは否定できない。だが、植民地主義は被支配地域のナショナリズムと、国内のリベラリズムによって、次第に否定されていった。
 自由貿易はどこにでも利益をもたらすわけではなかった。産業革命によって、イギリスの手織工はその職を奪われたものの、苦難の末、国内で再雇用の機会を見いだすことができた。これにたいし、インドの職工は職を奪われたあと、仕事がないまま長期間の打撃をこうむることになった。
 保護主義が復活する可能性は常にある。国家による保護は、ある程度打撃を軽減するかもしれないが、それは経済成長の促進を阻害し、国民経済全体に利益をもたらさない。「動機がなんであろうと、保護主義は一つの障害である」とヒックスは断言する。
 行政革命が政府を強化し、国民へのサービスを充実させてきたことはまちがいないが、それが逆効果をもたらす場合も存在する。保護主義もそのひとつだ。経済の逼迫は、インフレーションや国際収支の赤字、貨幣と為替の混乱などのかたちであらわれるけれども、それは貨幣政策などの技術的調整によっては解決できず、単にそのかたちを変えるだけにすぎない。重要なのは、川の流れの変化をつかむことだとヒックスは述べて、それを本書の結論としている。

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労働市場の形成──ヒックス『経済史の理論』を読む(7) [商品世界論ノート]

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 ヒックスは最初に「仕事」と「労働」を区別している。農民や役人、職人、商人、地主などは、それぞれの「仕事」をもっているが、労働者はそうではない。これにたいし、労働者の特徴は「誰かのために働く」ということだという。労働者は主にたいして「従者」の関係にある。
こうした主従関係は古代から存在した。
 古くから労働は交易の対象(すなわち商品)であり、そこにはふたつのタイプがあった。労働者がすっかりそのまま売られるのが奴隷制、用役(マルクスの概念でいえば労働力)のみが賃貸されるのが賃金支払制だ。
 ヒックスは奴隷制を論じるところからはじめている。
 古代から奴隷は、戦争捕虜や奴隷狩りの産物だった。奴隷はしばしば家内労働や家族の従者として用いられ、家族の一員として厚遇されることもなかったわけではない。しかし、概して奴隷の身分は低く、その主人によって自由に売買される存在だった。
 奴隷はまた店舗や仕事場で使用された。この場合、奴隷の待遇は、主人との関係性によって決まり、責任を与えられることもあれば、牛馬のように酷使されることもあった。運がよければ、事業をまかされ、解放奴隷となった者もいる。
 しかし、奴隷制の暗い面が噴きだすのは、もっぱら大規模に奴隷が使用された場合だ、とヒックスはいう。プランテーションやガレー船、鉱山で使用された場合は、奴隷には苛酷な運命が待っていた。
 近代のプランテーションでは、西インド諸島の砂糖農場やアメリカの綿花農場がよく知られている。南アメリカの鉱山では多くの奴隷がこきつかわれていた。
 ヒックスはこう書いている。

〈奴隷労働をもち、かなり大規模な企業を経営している奴隷所有者にとっては、奴隷は生産用具であって、他の一切の生産用具と同じやり方で奴隷所有者の計算の中にはいってくる。すなわち、近代の製造業者の機械に対する見方と同じである。〉

 奴隷が低廉なときには、奴隷は集団的に大量使用され、死ぬまで酷使され、市場で買い替えられた。ところが奴隷が高価になると、主人にとっては奴隷をだいじに扱うことが得策となり、奴隷の子どもを育てて、次世代の奴隷にすることも有用な選択肢となっていく。
 19世紀はじめに奴隷貿易は廃止された。その理由は、アフリカでの奴隷狩りがあまりにも残酷であるとともに、大西洋航路で失われる奴隷の数があまりにも多かったからである。だが、奴隷貿易が廃止されたあとも、奴隷制そのものは長いあいだ廃止されなかった。
 奴隷貿易の廃止により、奴隷の待遇は農奴並みに向上した。だが、奴隷制が存在するかぎり、奴隷は売られたり、別の地に移されることを免れなかった。家族がばらばらにされることも多かった。
 いっぽう「自由」労働市場も奴隷制が廃止される以前から存在した。人道的な問題は別として、効率面からみると、奴隷労働と自由労働とではさほど差があるわけではない。自由労働が奴隷労働にとって代わった理由は、自由労働のほうが低廉になったからにほかならない、とヒックスは断言する。
 奴隷労働には短期的維持費だけでなく長期的維持費もかかる。これにたいし自由労働の場合は、雇用契約期間が終了すれば、賃金を支払う必要がない。しかし、自由労働の供給が少なければ、賃金は上昇するだろう。したがって、次のようなことがいえる。

〈もし奴隷労働が豊富であれば、それは自由労働を駆逐することになり、逆に自由労働が比較的豊富であれば、それは奴隷を駆逐することとなる。両者は労働の供給源としては互いに競合的であって、両方ともに用いられるときには、一方の利用可能性が他方の価値(賃金ないし資本価値)に影響を与える。〉

 これが奴隷労働と自由労働との経済的選択の論理である。
 歴史的にみれば、ギリシア人やローマ人は戦争捕虜を奴隷としていた。カエサルやアウグストゥスの時代になると、奴隷労働は少なくなり、労働力は大部分が自由労働になった。中世になると、奴隷はさらに希少になり、自由労働制度が確立される。ふたたび奴隷制が活発になるのは、15世紀になってアフリカ航路が開かれてからである。
 西ヨーロッパでは中世以来、自由労働が基本となっていたが、都市の発達が農村人口を引き寄せたことはまちがいない。11世紀から13世紀にかけ西ヨーロッパでは急速な人口増加が生じ、農民の一部が働き口を求めて都市に流入した。
 かれらは商人階級になることをめざすが、昇進をはたせる人はごくまれで、たいていは臨時雇いや半雇いとなり、半ば労働者、半ば乞食の境遇に甘んじ、家庭をもつこともままならなかった。だからといって、もはや農村に戻ることもできない。すると都市は労働不足ではなく、労働過剰の状態におちいる。
 植民地時代のアメリカの場合は例外である。農業用の土地はふんだんにあった。そのため都市ではたらく労働者には高い賃金を払わなければならなかった。そうでなければ、たちまちかれらは都市を離れ、開拓農民として生きる道を選ぶからである。
 こうした特殊事情により、アメリカでは奴隷制度が自由労働制度よりも低廉となり、土地を開くにあたってはアフリカから大量の奴隷がつれてこられたのである。近代になって、奴隷制がふたたびあらわれたのは「ヨーロッパには奴隷に対する需要はなかったが、アメリカにはあった」からだ、とヒックスは記している。
 だが、いまは近代の産業革命以前にもう一度戻ってみよう。そのころ、西ヨーロッパの労働事情はどうだったのだろう。
 理屈上でいえば、産業革命以前でも手工業を含めた商業の発展は、労働需要を増やしたはずである。農村から人口が流入しても、都市では過剰労働が吸収され、労働不足となって、賃金が上昇していく局面がおとずれてもおかしくない。だが、そうした現象は生じなかった。
「当時の経済においては農業部門がきわめて広大な部分を占めていたために、商業に雇用される機会は、それが増大しているときですら依然として規模は小さかった」と、ヒックスは指摘する。
 ところで、一概に都市の労働力といっても、それは同質ではありえない。労働力の質が高く、希少であればあるほど賃金も高くなる。そして、より質の高い労働力をもつ労働者は安定した雇用と生活の保障を求めるようになるだろう。逆に都市プロレタリアートと呼ばれる低い等級の場合は、生活の保障もないし、賃金も低い。
 低級労働から高級労働まで、自由労働は等級別に構成されている、とヒックスはいう。低級労働から高級労働への移動は容易ではない。それを可能にするのは訓練と教育である。だが、それには費用をともなう。
 そうした費用が払えない場合の訓練・教育法としては徒弟制度が存在した。親方に束縛される徒弟は、奴隷の身分とさほど変わりない。かれらは厳しい徒弟期間をすごさなければならない。
 したがって、近代的な労働市場が生まれるのは「産業革命」をまたなければならない、とヒックスは論じている。

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農業の市場化──ヒックス『経済史の理論』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 ヒックスはこんなふうに書いている。
 土地・労働という生産要素、農業・工業という生産形態は、いつの時代にも生産に不可欠なものだ。しかし、それらは当初、市場に包摂されているわけではなかった。市場と金融はあくまでも商人経済の産物だった。土地と労働、農業と工業が市場化(さらには金融化)され、土地市場、労働市場、農業市場、工業市場が生まれると、近代が誕生し、いわば「商品世界」が形成される。
 そうした全体の流れを頭にいれておくとして、今回のテーマは農業の市場化である。
 近代以前の農業は領主−農民体制のもとに成り立っていた。領主は土地を支配し、農民は土地を耕しているが、領主と農民は互いに相手を必要としていた。たとえ農民にかかる負担が大きかったとしても、農民はその見返りとして何かを得ていたのだ、とヒックスはいう。
 その何かとは端的にいえば保護である。農民は村落をつくり、労働を投入して作物をつくるまで、多くの時間を必要とする。しかし、自己の労働の果実を、侵略者や盗賊から守るのは容易ではなかった。これにたいし領主が農民に与えるのは、家臣団による軍事的保護である。
 さらに地域内や隣接地域とのさまざまな紛争も解決されなければならなかった。領主はいわば防衛と司法の役割をはたしていた。その見返りとして、農民は領主に貢租を納めたというわけだ。
 問題は、こうした領主−農民体制に市場がどのようにして入りこんでいったのかだ。その第一歩は農民と行商人との交易だろう。もっと重要なのは領主自身の交易だ。領主と農民は、この地には産しない商品を求めて、行商人との交易をはじめる。
 交易は貨幣があればより便利だろう。領主も農民が貢租を物納でなく貨幣で収めてくれれば手間が省ける。貢租を貨幣で収めるためには、農民が農産物を商人に売って、貨幣を手に入れなくてはならない。そして、その一部を手元に残し、残りを領主に収めるかたちにすればよい。
 農産物が売られるようになると、農業市場が生まれる。しかし、そのうち、農民の貢租に頼るのではなく、耕作地の一部を自分のものとし、直轄地をつくろうという領主がでてくるかもしれない。すると領主はこの直轄地に農民を集め、市場向けの商品をつくらせるようになる。ここでは農民はより身の安全を保障されるものの、領主に直属する「農奴」となっていく。
 それでも領主−農民体制はまだ崩れていない。同じ領地のなかでも領主直轄地ではない農地を耕す農民も多い。農民は市場と関係をもつようになっても、土地と密接に結びついている。
 この時点ではそもそも土地所有権は確立していない。領主も土地に権利をもっており、農民も土地に権利をもっているのだ。
 国王の命令によって領主が変わる場合もあるかもしれない。しかし、その土地は売買されるわけではない。
 領主が商人からより多くの金を借りたい場合はどうだろう。土地の権利は慣習的なもので、もともと担保価値は低い。それでも無理やり土地を担保にして借入をおこなおうとするなら、領主は一定の土地にたいするみずからの財産権を主張する必要に迫られる。
 担保は所有権の移転、すなわち事実上の売却へとつながる。だが、領主が一部の土地を売却し、土地の所有者が変わったとしても、だれかがそこを耕作しなければならない。農産物を生みださない土地は価値がないからである。
 新たに土地財産を手に入れた者は、農民と契約して貨幣地代を受けとる。それに違反する場合は農民に立ち退きを迫らなければならない。だが、そうした取り決めは紛争のもとともなる。
 新たな土地所有者は、農民に年限を決めて土地を貸すこともできる。ここでは借地農業経営が成立する。
 14世紀のヨーロッパでは、黒死病の流行により人口が減少した。それにともない、農民が離散する。こうして、地代の減少と賃金の上昇が生じると、多くの領主が財政困難のため、農地を手放すようになった。その農地を買い取ったのは、農民であり、これにより自由農民制への移行がはじまる。
 いっぽう、貴族からの借地による直接農場経営が、賃金労働者を雇い入れるかたちで、より合理的におこなわれるようになる。
 そのどちらもが、旧来の領主−農民体制を崩していくことになる、とヒックスはとらえている。
 だが、東ヨーロッパでは人口の減少が、これとは逆の事態を招いた。すなわち農民の土地へのしばりつけが強制的におこなわれたのだ。ここでは農民はふたたび「農奴」化されることになる。しかも、この抑圧体制は長きにわたって維持された。
 ここでヒックスは農業の市場化が同時に法と秩序の浸透をともなっていたことを指摘する。すると、これまで農民を保護していた領主の役割を「国家」が引き継ぐことになる。
 権力が領主から国家に移るさいには革命が生じることがある。革命が生じなくても、権力の移行によって貴族は飾り物と化し、自分たちの所有地から生計を支えるだけの収入を得るだけの存在になっていく。
いずれにせよ、近代においては実質的に国家が領主にとって代わるという事態が生じるのだ、とヒックスはいう。
 だからといって、国家と領主の役割が変わるわけではない。国家は農地改革をおこなうことによって、農民に農地の所有権をもたせる場合もあるし、逆に国営農場制度をつくり、その農地に農民を帰属させる場合もある。だが、いずれにせよ国家は農地の保護者として、租税を請求する権利をもつようになる。
 農業は自然の影響に左右されるため、農業経営者による決定が重要な役割をもっている。ただし、国営農場の場合は、どのような作物をつくるか、それをどのように販売するかの決定は、現場の経営者によってではなく、もっと上でなされる。それが往々にして大きな齟齬をきたす。
 借地農は自作農と同じく、独立農場経営者とみなされる。しかし、同じ借地農でも、プランテーションの場合は、その意思決定は所有者との契約に縛られることになる。
 独立農場経営者は、市場向けの農産品を生産し、それをできるだけ多く売らなければならない。地代や租税、負債など対外的な支払もあるからだ。独立農場経営者の経営規模は概して小さい。そのことは資本の不足につながる。
 土地の改良や農業機械への投資は多額の費用を要する。農産物の産出量はかならずしも安定しているとはいえない。自然災害による悪影響も考えられる。市場価格も変動しがちだ。こうした事態に備えるためにも、資本が必要になってくるのだが、資金を借り入れようとしても、土地は不確実な担保にしかならないため、しばしば高利貸に頼ることになり、これまで農民は大きな債務負担をかかえることが多かった。そうした農民の窮状を救おうとしたのが農業信用組合や土地銀行だ。
 いっぽうで、地主が資本を十分にもっているなら、地主が自分の小作人を助けるというケースも考えられた、とヒックスはいう。これはとりわけイギリスの大地主の場合だ。かれらは大きな土地にたいし、資本を長期投資し、生産性を改善する技術を導入することによって、農業からの収益を確保しようとした。
 だが、その場合ももはや領主―農民の関係は存在しない。農業経営者のために資本の供給を保証するのは国家である、とヒックスはいう。
 さらにこう指摘している。

〈今世紀に非常に多くの国々の農業を変えた技術改良によって、農業に従事する人々の割合が減少しつつあることは周知のことがらである。かつてはすべての経済的職業のなかで首位であったものが、いまや他の職業と同様に、一つの「産業」にすぎなくなろうとしている。これらの技術改良がもたらしたもう一つの帰結は、一人の農業経営者がうまく管理できる(少なくとも算出量で計った)単位の規模が著しく大きくなったことである。……さらにもう一つの帰結は、大きな農地の管理が昔に比べて容易になったので、従属農場経営が相対的に有利になったことである。〉

 市場化は農業を大きく変えていった。市場化の進展は領主支配を崩し、それに代わって、国家が大きな役割をはたすようになる。それとともに、農業はひとつの「産業」になっていく。こうした過程をヒックスはえがいたといえるだろう。

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国家の財政基盤──ヒックス『経済史の理論』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 第6章「国家の財政」を読んでみる。
 ここでは都市国家を引き継いだ近世(ヒックスのことばでいえば「中期の局面」)の領域国家としての「君主国家」が、常に財政危機に悩まされ、それを克服する過程で近代の「国民国家」へと変成していく内的必然性が論じられている。
 近世の君主国家は常に貨幣不足を経験していた、とヒックスはいう。このことは王が困窮していたことを意味している。そのため、王は身近なところから財産を没収しようとして、たびたび内乱を招いた。
 王が困窮していた原因は、租税収入が慢性的に不足していたからである。王の財政は農業に依拠していたが、近世にはいると商業が国富の大きな部分を占めるようになる。ところが、王は商人階級の富を完全に捕捉することができなかったため、商人階級への有効な課税ができなかったのだ、とヒックスはいう。
 たとえば、商品の取引にたいしては、二、三の港で関税を徴収することができた。だが、それは全体のごく一部を把捉したにすぎず、しかも徴収に手間もかかった。かといって、直接税として所得税をとることもむずかしかった。効率のよい所得税のための条件ができたのは、ごく最近のことで、近世においてはまだ所得という概念すら普及していない、とヒックスは記している。
 商人の利潤を把握して、それに課税する仕組みもできていなかった。それがようやくできるようになるのは、ひとつに有限責任会社、すなわち株式会社が登場してからである。株式会社には利潤を確定し、そこから配当金を支払う義務がある。利潤が確定されると、課税が可能になる。
 所得税がないときは財産税に頼らなければならないが、そもそも財産の大きさを評価するには煩雑な作業を必要とした。そのため、それは(たとえば日本における検地にしても)頻繁にはなされず、過去の評価に頼らざるを得なかったため、いくらでも課税を逃れる抜け道があった。
 そのため、近世の政府は必要とする税収を確保することが、きわめて困難だった、とヒックスはいう。徴収は手間がかかるだけでなく、きわめて不公平だった。しかも支配者が新しい税を課そうとすると、「暴君」への反乱を招く恐れすらあった。アメリカ独立戦争のきっかけとなったボストン茶会事件(1773年)もそのひとつだったといえるだろう。
 とはいえ、政府の支出はたえず増大していく傾向にある。とりわけ戦争のような非常事態が生じたさいには、王は臨時的な支出を工面しなければならなかった。そのために取られた方策が借入にほかならない。
 借入はいわば国家にたいする無担保融資である。だが、近世の国家には概して信用がなかった。返済期限がきても王が返済を拒否することはじゅうぶんに考えられ、じっさい王はしばしば借金返済をボイコットした。
 すると、次に考えられるのは、国家にたいする担保貸付である。実際に、戴冠式用の宝石類や土地財産(王領地)、あるいは徴税請負権が「質」に取られることもあったという。さらに国家への貸付にたいしては、債権者の将来の課税を免除するという特権を付与する場合もあった。
 その結果、貧者は依然として税を支払い、富者は大部分の税を免れるという状況を招くことになる。フランスの君主制が崩壊した背景には、こうした財政の末期的症状がみられた、とヒックスは指摘する。
 だが、国家の財政を満たすほかの手段は考えられなかったのだろうか。王は貨幣の鋳造権をもっていたのだから、それを活用して、貨幣供給を操作することもできたはずだ。じっさい王はそれを試みた。
 貨幣の供給は、金・銀貨の時代には貨幣鋳造所に送られてくる金属の供給に依存していた。近世のヨーロッパでは、すでに王は収入の大部分を貨幣で受けとるようになっていた。その貨幣を王は鋳造所に回し、さらに卑金属を混ぜて改鋳し、貨幣の量を増やすことができた。
 金属の最大の供給源は商人だった。交易をおこなう商人のもとには貨幣だけではなく金や銀そのものが集まっている。商人たちは摩耗した鋳貨や金銀の地金を王の貨幣鋳造所にもっていき、手数料や税を払って新しい貨幣を受けとった。政府はそれによって収入を得たが、そのさいあまりに貨幣の品質を落とすならば、商人による金属の供給そのものが途絶えてしまう恐れがあった。
 それは主に国際的に通用する大「通貨」、すなわち正貨について言えることである。だが、国内だけで通用する地方通貨に関しては、それを「法貨」とすることで、かなりの悪鋳が可能だった。そのため、政府は非常事態にさいしては、補助財源を確保するために、地方通貨の操作をおこなったという。
 だが、大量の悪鋳がおこなわれれば、貨幣供給量が増え、物価が上がり、インフレーションが生じる。それによって政府の収入も増えたことはまちがいないが、インフレーションは政府収入の実質的価値を減少させたから、インフレ政策は結局のところ、政府を弱体化させることになった。
 つまり、政府が支出増に対応するには、商人からの借入も貨幣の改鋳も抜本的な対策になりえなかったということだ。
 近世の国家にくらべると、近代の国家ははるかに強力な財政基盤をもつようになった、とヒックスはいう。どうしてか。
 ひとつは政府が政府の借入を短期間ではなく、長期間のものとし、年利を保証することによってである。これにより、比較的信用の高い借入制度(国債発行)が導入されるようになった。
 より重要なのが銀行制度の発展である。銀行はこれまでも商人間の金融を仲介する役割をはたしていたが、それがより信用度の低い国家への貸付をおこなうようになると、逆に国家は銀行を保護せざるをえなくなる。最終的には中央銀行の設立へと向かっていくことになるだろう。
 銀行は預金を受け入れるとともに、小切手や手形を発行するようになる。これによって銀行は実質的に貨幣(紙幣)を生みだすことができるようになった。
 ヒックスはこう書いている。

〈重要なのは、貨幣創出の経路が銀行によって提供されていることである。「国家」が自分自身の通貨で表わされている負債の支払を履行しないという危険はもはやなくなる。「国家」はいつでも銀行制度を通じて借入を行なうことが可能となったからである。〉

 中央銀行による紙幣の発行は、金融の幅を広げるとともに、国家による貨幣供給の統制を可能にした。それにより国家は「貨幣に対する支配力」をもつことになり、政府の財政基盤はより強化されるようになった。
 だが、もうひとつ肝心なことが残っている。それは国家が課税力を著しく強化したことである。いまや国家は所得税、利潤税、販売税、それに相続税、固定資産税などの財産税をも収入源とするようになっているが、それらはすべて金融の発展、すなわち貨幣による評価が可能になったからこそである。
 財政基盤の強化は、強力な行政を生みだす。大規模でこまかい行政は、金を投じないかぎり実現できない。ヒックスは「産業革命」になぞらえて、これを近代における「行政革命」と名づけている。
 歴史的にみれば、もともと商人経済は政治的権威から逃避する傾向をもっていた。しかし、近代の特徴は、国家が商人経済を基盤としながら、商人経済を統制することができるようになったことだ、とヒックスは論じている。

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貨幣の力──ヒックス『経済史の理論』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 都市国家の時代はゆっくりと終わりに向かい、代わってスペイン、オランダ、フランス、イギリスなど、領域国家の時代がはじまる。
 しかし、都市国家を動かしていた商人経済はすっかり解体されたわけではない。ある意味ではそれはたしかに解体だった。ヴェネツィアはゴーストタウンになってしまう。だが、領域国家は商人経済を吸収することを忘れなかった。いまや商人経済を保護し、商業センターを発展させるのは「国家」の役割になる。その局面をヒックスは「中期の局面」と名づけている。
 ヒックスのいう「中期の局面」を、われわれは「近世」と呼んでもいいだろう。
「中期の局面」の特徴は、商人共同体の内部に限られていた商人経済が、いわば周辺にはみだしていくところに求められる、とヒックスは書いている。「従前の非商業的な周辺部分はさまざまな側面において、市場に対して開放的となる」
 すなわち領域国家が商人経済を取り込むことによって、国家のなかに市場が浸透していくことになる。やがて、国家が外部に拡張していくにつれて、市場も外部に広がっていくことになるだろう。
 ヒックスは近代(産業革命)以前の「中期の局面」(近世といってもよい)における市場の浸透を4つの分野にわたって考察する。すなわち貨幣(金融)、財政(国家)、農業、労働の4つの分野だ。これらの4つの分野はもちろん相互にからんでいるが、これをあえて4つに分けることによって、市場が浸透するプロセスがより明らかになってくる、とヒックスは考えている。
 これをいっぺんに説明するのは骨が折れる。そこで、きょうはテーマを貨幣(金融)にかぎって、第5章の「貨幣・法・信用」を読んでみることにする。
 貨幣はだいたいが鋳造された金属片で、国家によってつくられたもののように思われている。それはけっしてまちがいではないが、貨幣は鋳造貨幣がつくられる前から存在した。貨幣はそもそもが商人経済の創出物で、国家はそれを継承したにすぎない、とヒックスはいう。
 たとえば村落に商人がいるとしよう。かれはいつでも商品を仲介できるように交換性のある財貨を保存しなければならなかった。そして、保蔵と隠匿が容易で、しかも損耗しにくい財貨といえば、けっきょくは金や銀などの貴金属に落ち着くというわけだ。
 貴金属が「価値保蔵」機能をもつと、それは次第に均質化されて、「価値尺度」や「支払手段」としても利用されるようになる。国家が介入してくるのはこの時点だ。
 国家は貨幣鋳造所をつくり、金属貨幣に王の刻印を押すようになる。それによって、貨幣には保証が与えられ、より受けとりやすいものになった。最初、リュディアやイオニア(ともに小アジア)でつくられた鋳貨はたちまちのうちにギリシア世界に広がっていった。
 初期の金属貨幣は比較的大型のもので、これは貨幣が価値保蔵物だったことを示している。ところが紀元前5世紀ごろに支払手段として小型貨幣がつくられるようになり、さらに代用貨幣として青銅貨幣が登場すると、貨幣はより使用しやすくなった。ギリシアは次第に貨幣経済社会へと移行する。
 金属貨幣はギリシア世界の外部にも広がっていく。ペルシアからインド、バルカン諸国、さらにローマへと。ケルト人も貨幣を鋳造するようになった。商業が衰退すると、一時的に貨幣が使われなくなることもあったが、「商業活動が行われるかぎり、どこにおいても貨幣は恒常的に使用されてきた」と、ヒックスはいう。
 そして、貨幣は中世都市国家後の「中期の局面」(近世)においても継承された。王は貨幣を放棄しなかった。貨幣の鋳造によって、直接、間接に利益を得ることができたためでもある。加えて、貨幣を媒介とする交易は王にも多くの財貨をもたらしていた。
 都市国家のもうひとつの遺産が「法」だった、とヒックスは説明する。それは中国や日本におけるような商業を規制する法ではなく、むしろ商業を促進し、商人の権利を守る都市国家の法にほかならなかった。
 ローマ法は古代ギリシアでつくられた「商人法」を受け入れ、発展させた。ローマ帝国は貨幣による評価と支払いに依存していた。ローマ帝国が滅亡したあと、貨幣経済は収縮するが、完全に消えることはなく、やがて新しい都市国家の興隆がふたたび貨幣経済を盛り返し、同時に「商人法」も維持されることになる。
 都市国家が衰退し、「中期の局面」すなわち近世の領域国家の時代にいたっても、貨幣制度と法律制度は継承され、発展することになる。
 こうして貨幣と「商人法」を論じたあと、ヒックスが強調するのが、都市国家時代につくられた「信用」制度の継承である。
ルネサンス時代、貨幣は信用および金融と結びつき、その性格を変えようとしていた。
 古代ギリシア人とローマ人は利子を取ることに良心のとがを感じなかったが、キリスト教は利子をとることを罪悪と考えていた。しかし、いかなる時代も商業取引がおのずから金融取引に発展していくことは避けられなかった。
 当初、商品の取引は「代理人」に委託されていた。貨幣が普及するようになると、現物を委託するよりも、貨幣を貸し付けるほうが取引としてはずっと楽になる。
 貨幣の貸付によって債務者は負担を負う。債権者に元金を返済するだけではなく、利子も支払わなければならないからである。債権者は債務不履行の危険度が大きければ大きいほど、高い利子を求める。これはとうぜんのことだった。
 ギリシア・ローマ時代には、借金を払えない債務者は、制裁を受け、しばしば「債務奴隷」の地位におとされていた。だが、こうした残酷な制度に代わって、次第に貸付にたいして担保を求める慣習が定着するようになる。この場合、債務者は債権者にたいし、負債以上の価値を持つ物件を預託し、借金返済後にその物件を返却してもらうことになる。
 しかし、担保物件つきの貸付が成立する場合はごく限られている。そこで、物件を預託しなくても、抵当権を設定するだけで借り入れができる方式が生まれる。この場合は、貸付の担保は債権者の手にわたらず、債務者の手元に残され、債務不履行の場合にかぎって、債権者が担保を手に入れることになる。
 担保貸付にたいして無担保貸付も存在した。無担保貸付は貸し手にとって危険度が高いため、ふつうは高利がともなう。しかし、商人仲間のあいだでは、借り手の信用に応じて、質物や担保をとらずに、低い利子で貸付がなされる場合もあった。商人経済の発展にとっては、こうした信用にもとづく低利子の融資が大きな役割を果たした、とヒックスは指摘する。
 だが、信用を確保するには、相手の経営状態を知っているだけではじゅうぶんではない。そこで信用を拡大するため、保証人や金融仲介人が求められるようになる。銀行が登場するのは、こうした金融仲介を専業とする者のなかからだ。そのころキリスト教においても、ある程度の利子を認める考え方が定着するようになっていた。
 危険分散を可能にするには、加えて保険の導入が求められた。中世に都市国家を営んでいたイタリア人は、保険契約に精通していたことで知られる。14世紀にはすでに海上保険が存在していたし、万一の事態に備えるためのさまざまな方策も考え抜かれていた。
「中期の局面」としての近世は、こうした金融制度や保険制度を都市国家の経験から受け継ぐことになる。さらに加えて、証券市場や有限責任会社(株式会社)制度が確立されるようになると、「中期の局面」は終了し、「近代の局面」の展開がはじまる、というのがヒックスの基本的な見取図だといってよい。
 だが、先走るのはやめておこう。近代を語るには、その前提として、貨幣(金融)に加えて、国家(財政)や農業、労働の分野への「市場の浸透」を論じなくてはならないからである。

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都市国家をめぐって──ヒックス『経済史の理論』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 ここで都市国家の経済理論を述べてみたい、とヒックスはいう。モデルとされているのは、古代のアテナイだけではなく、中世のヴェネツィアやフィレンツェ、ジェノヴァなどだといってよい。
 都市国家の中核は、対外商業に従事する商人の団体である。商人たちは都市国家の外にある地域と取引をし、商人経済が都市国家を支えている。その意味で、都市国家はひとつの商業センターになっている。
 たとえばAという商品をもつA地域とBという商品をもつB地域があるとする。A地域は商品Bをほしがっており、B地域は商品Aをほしがっている。すると、都市国家の商人たちはA地域とB地域の仲立ちをすることによって利益を得、同時にA地域もB地域もみずからが持たない商品を手に入れることで潤うことになる。ただし商品A、商品Bが貢納によるものであるとすれば、利益を得るのは領民全体ではなく領主にとどまる可能性が強い。
 だが、通常、商業が拡大すると、その利幅は少なくなっていく。商人の利潤率は取引量に比して下落し、商業の拡大テンポも鈍っていく。そこで商人は新しい商品や新しい販路を求めて、商業の多様化をはかることを迫られる。
 一口に商業の多様化といっても、それは楽なことではない。そこで、都市国家が重要性を発揮することになる。都市国家は商人の取引に安全保障を与え、商業の多様化という困難な課題解決を後押しすることになる、とヒックスは書いている。
 商業が多様化するとしても、その拡大にはおのずから限界がある。だが、それにいたるまでに多くの余地が残されている。
 取引量が拡大するにつれて、組織が合理化され、その結果、取引費用が減少し、それによって商人の利益はむしろ増えるかもしれない。都市国家の拡大が全体の利益の拡大をもたらす可能性もある。商人数の増大は競争の激化をもたらすが、そのいっぽうで商業活動に一種の棲み分けをもたらし、商業をより効率的にすることも考えられる。
 商人経済の拡大と充実は危険の減少にもつながる。商業活動のありかたについての知識が深まり、無知に起因する損害を減らすからだ。取引が増えるにつれて、財産や契約を保護する制度も確立するようになり、さまざまな取り決めがなされるようになる。それが可能になるのは商業センターとしての都市国家が存在するからだ、とヒックスは断言する。
 また都市国家には海外に交易の根拠地を設け、植民地をつくるという強い誘因が存在することをヒックスは強調している。フェニキア人しかり、古代のギリシア人しかり、中世のイタリア人も地中海や黒海に植民都市をつくった。
 植民地がつくられるとなると、それは先住民や敵対者から守られなくてはならない。そのさい往々にして武力が発動されることになる。都市国家による植民地化は近代国家による植民地化とは大きく異なるが、それでも都市国家が植民地形成の初期モデルとなったことはまちがいない、とヒックスは考えている。
 都市国家は商業経済と植民地化によって、内的にも外的にも拡大していく。競争はより激化し、利潤率は下がっていくものの、組織はより効率的になるために、全体としての利益は拡大する方向にある。ただし、それを阻害するものがあるとすれば、地理上の新しい地域で、商品の新しい供給源が開発されたときである、とヒックスはいう(たとえばアメリカ新大陸の発見やインド航路の開発を考えてみよう)。
 だが、その前に商業の成長が限界に達する。

〈もし商人が既存の市場においてもっと効率的に営業するための新しい組織を発見することに失敗したり、新しい市場を発見したりすることに失敗すれば、価格がかれらにとって不利な方向に動いていくことに気付くだろう。というよりはむしろ、取引量を拡大しようとすれば、価格がかれらに不利な方向に動いていくという状況に達するであろう。〉

 もはや組織の効率化もできなくなり、新たな市場も開拓できなくなったときに、むりやり商品の販売量を増やそうとしても、値崩れをおこし、かえって利潤は減少してしまうという状況におちいってしまうのだ。
 それでも都市国家が依然として商業の拡大をめざすなら、都市国家どうしの戦争が勃発する。都市国家どうしの戦争がおこりやすいのは、「まさにこの時点、すなわち商業の成長が限界に近づきはじめる時」である、とヒックスはいう。古代ギリシアのペロポネソス戦争や、1400年ごろのジェノヴァとヴェネツィアの戦争の背景には、こうした商業的要因がひそんでいるという。
 しかし、都市国家どうしが協定を結んで、地域内で棲み分けるようになることも考えられないではない。すると、都市国家の指令のもとで、「商人は慣習的権利・義務の体系の中において、一つの地位を受け入れるようになっていく」。
 商業の拡大が停止したといっても、商業は衰退したわけではない。利潤水準は依然として高いが、利潤を拡大のために再投資しないことが、高利潤を維持するための条件となる。すると、市場の喧噪に代わって秩序がもたらされる時期がやってくる、とヒックスはいう。

〈拡大を特徴づけた活気は直ちには失われないであろうが、いずれ活気は商業の革新から去って他に向かわざるをえない。だが、安全の保障と富があるので、他の分野に転ずることが可能である。商業の拡大は知的刺激を与えていたが、それがもはや知的活力の対象となりえない時点にたちいたると、芸術は芸術のために、学問は学問のために追究することが可能となる。〉

 こうしてアテナイには芸術と学問が興隆し、フィレンツェやヴェネツィアにはルネサンスがもたらされた。「しかし、果実が熟れるときは常に秋なのである」。都市国家はその商業活力を失ったときに、最後の花を開いたあと、危機に陥っていくことになる。

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