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なぜ満州国だったのか [柳田国男の昭和]

《連載16》
 関東大震災の災禍が記憶の領域に押しやられようとしていた昭和のはじめ、東京は拡大し、モダン都市へと変身する最中だった。
 1930年代にはいると、新宿や池袋、渋谷はターミナルとしての役割を果たすようになり、郊外に住むサラリーマンが私鉄に乗って都心に出て仕事をする時代が始まっている。
 都心も大きく変わった。
 歴史学者の有馬学はこう書いている。

〈震災後の帝都復興事業は、都心、下町の都市改造を実現していた。それから昭和10年前後にかけての時期には、戦後高度成長が景観に大変貌を強いるまで、「大東京」のランドマークであり続けたような建築群が次々に姿を現している。国会議事堂や首相官邸、大蔵省、文部省にわずかな名残をとどめる諸官庁〔引用者注:旧文部省の建物は取り壊されたが〕、イギリス大使館などの外国公館、東京中央郵便局、日比谷公会堂、日本橋から銀座・有楽町にかけて誰でも思い浮かべる三越本店、白木屋、高島屋、服部時計店、三越銀座店、日劇、朝日新聞社、あるいは東京帝大、早稲田、明治をはじめとする大学・学校建築、同潤会アパート等々〉

 これらの建物は21世紀初めの現在、消滅したり超モダンに改造されたりしているものも多いが、「三丁目の夕日」世代には、いずれも懐かしい光景の一部としてすぐ頭のなかに思い浮かぶはずである。

 1933年(昭和8)、「大東京」は世界大恐慌をくぐり抜けようとしていた。満州事変後の高揚が、いっときの戦争ブームをあおっていた。
 5・15事件で犬養毅首相が暗殺されたあと、新首相の座には退役海軍大将で前朝鮮総督の斎藤実(まこと)が就任した。
 政党を無視した超然内閣というわけではない。首相指名権をもつ元老の西園寺公望は、軍からの反発を招きやすい政党内閣を避け、全党が協力する緊急避難内閣をつくることにした。とりあえず丸く収まる無難な人物を選んだわけである。
 蔵相に高橋是清、陸相に荒木貞夫という布陣は犬養政権時代と変わらない。政友会から3人、民政党から2人が閣僚ポストについた。
 高橋と荒木が留任したのは、当時最大の課題が不況からの脱出と満州事変後の処理に置かれていたからである。
 満州事変は関東軍の陰謀によって引き起こされたできごとにちがいないとはいえ、ここには、いまでもあまり語られないもう一つの側面があったと思われる。
 ナショナリズムの高揚を背景に、中国では国家統一に向けての気運がますます高まっていた。満州族の故地といっても、実際に当時満州に住んでいたのは95パーセント以上が「漢人」である。
 このまま推移すれば、日露戦争と第一次世界大戦でもぎとった日本の利権が、怒濤のような中国ナショナリズムの波にのみこまれてしまうのではないか。おそらく現地の関東軍がいだいたのは、そういう恐怖感だった。
 そうなる前に軍事行動を起こし、親日的な傀儡(かいらい)国家をつくるべきではないか。日本の利権が守れるだけではなく、日本にとってより都合のよい経済開発を進めることもできる。
 幸い、天津には最後の清朝皇帝、溥儀(ふぎ)が日本軍の保護下に置かれているから、かれを新国家の皇帝とすれば、満州に独立国家をつくっても諸外国から文句の出るはずがない。さらに地勢学上からいえば、新しい満州国が、ソ連と中国の防御壁となり、日本帝国を守る巨大な砦の役割を果たすことになるだろう。
 関東軍が満州国の建設を画策した背景には、そういうあせりにも認識が影を落としていたのではないだろうか。
 独立を宣言した満州国に対し、国際連盟はイギリスのリットン卿を団長とする調査団を現地に派遣し、その発端となった満州事変に関する調査をおこなった。だが、日本政府はその報告が出される前に、満州国を承認し、国際連盟脱退への道を歩み出す。
 帝国の夢が暴走しはじめていた。

 高橋是清は犬養内閣の蔵相就任直後、金本位制からの離脱を宣言し、以来、円安を放任する政策をとった。斎藤内閣時代に円相場は約1ドル=2円から約1ドル=4円へと暴落し、その結果、日本の輸出が急速に回復した。
 いっぽうで高橋はいわゆるケインズ政策を採用する。日銀引き受けによる赤字公債を発行し、増大した政府支出を軍事費と公共投資にあてた。ただし、これはあくまでも景気のカンフル剤で、高橋の頭には、どこかの時点で為替レートを安定させ、緊縮予算によって健全財政をはからねばならないという思いが潜んでいた。
 財政支出と輸出増によって、日本経済は急速に回復していた。戦争景気の側面は否定できない。この時代に急速に成長する鉄鋼、セメント、造船、機械工業の分野は、日本の重化学工業化を促した。日本がヒトラー・ドイツに先駆けて戦争態勢に突入したことがこうした需要を生みだしていたのである。
 都市を中心に戦争景気が広がるなかで、農村の救済はなかなか進まなかった。5・15事件を引き起こした海軍青年将校らに意外にも世間の同情が集まったのは、かれらが決起の理由として、窮乏する農村の救済を訴えていたからである。
 斎藤内閣は積極的な農村救済策を打ち出した。産業組合(現在の農協)を支援し、負債整理組合をつくらせ、大規模な土木事業を起こすというのが、救済策の主な柱である。
 内務官僚出身で貴族院議員の後藤文夫が農林大臣に就任していた。そのとき農林次官を務めていた石黒忠篤(ただあつ)は、農村の「自力更生」運動を展開する。有馬学によれば、この運動は「産業組合にてこ入れしながら農村経済更正計画を樹立させ、負債整理、生産統制、経営改善を行っていこうとするもの」で、いわば戦後の農協活動の先駆けとなった。ただし、土地問題や小作問題の解決に踏みこんでいないという批判は当時からもあったという。
 石黒忠篤は柳田国男が農務官僚をしていたころの後輩で、国男とは終生つきあいがあった。石黒の政策は、柳田農政学と軌を一にしていたと言ってもいいほどである。のちに第2次近衛文麿内閣、鈴木貫太郎内閣で農林大臣、農商大臣に就任することになる。

[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]


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