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疎開読本を書く [柳田国男の昭和]

《連載118》
 東京は11月下旬以降、空襲にさらされることが多くなった。7月から8月にかけ、サイパン、テニアン、グアムが米軍の手に落ちたことにより、日本の「絶対的国防圏」は崩れていた。米軍はマリアナのこの3島に突貫工事でアスファルトの滑走路をつくり、10月半ばからボーイングB29を配備した。日本本土を空爆するためである。
 北九州への空爆はすでに6月半ばから始まっている。中国の成都から飛び立った米軍のB29が八幡製鉄所を襲ったのが最初だった。
 10月10日、沖縄本島や南西諸島は、米軍第3艦隊空母群から発進した艦載機により、無差別爆撃に見舞われる。これにより那覇は焦土と化した。
 10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島への上陸を開始する。24日から26日にかけ、レイテ沖海戦がおこなわれ、日本の連合艦隊は大きな損害を受けただけで、米軍の大規模な上陸を阻止できなかった。歴史家の黒羽清隆はレイテ沖海戦について、「事実上、これが連合艦隊最後の決戦であり、これで連合艦隊という組織体は滅亡した」と記している。
 12月下旬、マニラの第14方面軍司令官、山下奉文大将はレイテ島での作戦を中止し、残っている戦闘員に「自活自戦による永久抗戦継続」を命じた。決戦場とされていたレイテは見捨てられ、食糧と武器の補給を絶たれた日本軍は8万人の戦死者を出すことになる。
 国男が朝日新聞出版部の斎藤実に、疎開児童向けの読みものを書いてみたいとはたらきかけたのは、12月半ばのことである。朝日からは、すぐ快諾の返事があった。前月から書きはじめていた「先祖の話」を後回しにして、国男はさっそく仕事に取りかかることにした。
 朝日の雑誌「週刊少国民」用に、先日「母の手毬歌(てまりうた)」という原稿を書いて、手渡したところだった。これも疎開児童を意識して書いたものだから、単行本の巻頭を飾るのにふさわしい。
 成城学園初等学校で教師をしている柴田勝にも手伝ってもらって、小学校5、6年生向きの「疎開読本」をつくろうと思っていた。最初にアリジゴクの話を書いて、柴田に清書しながら読んでもらうと、「これでも5年生ならわかる」と言われて安心した。
 それからは一気呵成(かせい)に筆が進んだ。「親棄山(おやすてやま)」「マハツブの話」「三角は飛ぶ」「三度の食事」「棒の歴史」「千駄焚き」といった原稿が、年末から1月にかけ一挙にできあがる。ページ数の関係もあって、単行本にする際にアリジゴクの話や「千駄焚き」は落として、タイトルは『村と学童』とし、20枚程度の挿絵をいれることにした。「週刊朝日」の連載「村のすがた」で挿絵を担当している野口義恵が単行本の挿絵も描いてくれることになった。
 だが、この本の出版はタイミングを逸する。本の奥付は昭和20年9月発行となっているが、民俗学者の益田勝実、は実際に書店に並んだのは11月末だったのではないか、と推測している。
 いずれにせよ、実際に本が世に出たときには、戦争がすでに終わり、児童らは疎開地から戻り、焦土と化した都市の風景を目の当たりにしていたのである。

 国男の外孫、三原佐代が静岡に疎開したのは昭和19年8月のことだった。
 集団学童疎開の対象となった市と地域は、東京(都)、横浜、川崎、横須賀、名古屋、京都、大阪、神戸、尼ヶ崎、門司、小倉、戸畑、若松、八幡(最後の5市は現在の北九州市)、それに沖縄本島を含む南西諸島の主要な島である。その人数は、国民学校初等科3年以上6年までの児童、約45万〜50万人だったといわれる。
 子供たちは夏の炎天下、学校に集まり、先生に引率されて、長野県や静岡県、神奈川県をはじめとして全国各地の農村や温泉地へと旅だっていった。宿泊地となったのは、主に地元の寺院や旅館だった。食糧は慢性的に不足していた。しかし、さまざまな不安や軋轢を感じながらも、そこには都会では味わえない、自然の中での自由な生活があったことも事実である。
 東京の杉並第五国民学校から信州の上田市郊外に疎開した黒羽清隆は、一度だけ面会に来てくれた母親が、「重箱につめてきてくれたオハギの味だけは忘れない」と当時の思い出をつづっている。かれもまた、天子さまへの忠義と親孝行を忘れず、りっぱな少国民になると思っていたはずである。


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