SSブログ

戦後への思い──現代科学ということ [柳田国男の昭和]

《連載143》
 話があちこち飛びすぎてしまった。
 民俗学研究所が設立された経緯を記しておかねばならない。
 成城の柳田邸で、1934年(昭和9)から月2回開かれていた民俗学研究者の集まり「木曜会」が再開されたのは、終戦直後の1945年(昭和20)9月9日のことである。食糧事情も悪く、交通事情もままならないので、研究会は11月25日でいったん休会となり、翌年3月から再開された。木曜会といっても、毎月第2、第4日曜日が定例開催日で、ここで各自の研究発表や採集報告、意見交換がなされていた。
 これとは別に木曜会のメンバーが運営する「民間伝承の会」というのがある。その機関誌「民間伝承」は、戦時下の1944年(昭和19)8月号でいったん休刊を余儀なくされ、復刊にこぎつけたのは終戦をはさんで2年後の46年(昭和21)8月号からだった。
 その復刊号に、国男は「木曜会だより」という近況報告を寄せている。

〈民間伝承の再興に際しては、何よりも前に戦中戦後、諸君が学問の継続のために、どれくらい苦慮せられたかを聞くのが人情であるが、その答えは自分たちの場合から類推して、そう晴れやかなものでないことも想像せられ、それを尋ねるのが何となく気が重い。つまりは戦乱は日本民俗学にとって、どのみち幸福な刺激だったと言えないのである。しかしともかくも、われわれは生き残った。そうして新たに以前の会員に対する信頼が、少しも裏切られなかったことを経験する機会を得たのである。この喜びを再出発の勇気として、ここでひとつ働かなければならない〉

「ともかくも、われわれは生き残った」「ここでひとつ働かなければならない」というのは、まさに実感だった。木曜会と民間伝承の会は、ほぼ一体のものととらえられている。
 この近況報告のなかで、国男は採集記録の集積に一区切りがついたこと、これからはすでに集まっている資料を少しでも多く活用するよう心がけねばならぬと書いている。各自がさらに民俗資料の採集を進めていく場合にも、これまで蓄積されたデータをもとにしなければ、無駄な労力を使うことになってしまう。過去のデータを整理し、広く開示していくことが、大きな課題となっていた。まだはっきりと名称が決まっていたわけではないが、民俗学研究所は、その意味でも必要だったのである。
 さらに、もうひとつ大きな望みがあった。「十年以来の私たちの願いは、早く一方に純学問的な学報を、せめては年1回ずつでも出して行き、やがては日本民俗学会という名を名乗っても、少しも笑われない団体になることであった」と書いている。こういう思いもまた1947年(昭和22)3月の民俗学研究所設立とどこかで結びついていたのかもしれない。
 ただし、ややこしいのは、実際1949年(昭和24)4月に、国男を会長として日本民俗学会が発足し、民間伝承の会がこの学会へ事実上、吸収されていったことである。それについてはまた複雑な内実があるのだが、ここで説明するのはあまりにわずらわしい。いずれにせよ、とりあえずいまは、国男を中心とする内々の集まりである「木曜会」が「民俗学研究所」の母体となり、国男をトップにかつぐ外向きの「民間伝承の会」が「日本民俗学会」へ発展していったととらえておけばいいだろう。
 国男が民俗学研究所の設立を決意したのは、1946年暮れのことで、門下生でもある朝日新聞の牧田茂と毎日新聞の今野円助(円輔)の熱心な勧めがあったからだという。研究所の場所は、どたばたした末、けっきょく柳田邸とすることに落ちついた。
『柳田国男伝』によると、こんな事情もあった。

〈当時、GHQの占領政策の一つとして、米国人の住居に供するための洋館接収が行われていた。都内では山の上ホテルをはじめ、目ぼしい洋館はその対象になり、つぎつぎに米国人の住まいにあてられたのである。柳田邸は交通の便もよく、しかも当時としてはめずらしいセントラルヒーティングをそなえた立派な洋館であったため、接収される可能性は大であった。そこでその対策として、柳田は自宅の書斎を研究所として提供したというのである〉

 こうしていつのまにか柳田邸は民俗学研究所に変身してしまうのだが、発足の経緯は、いかにも戦後のどさくさにまぎれという感が強い。
 ところで民間伝承の会は、月刊の機関誌を出すほかに、もうひとつ一般向けの講座を開くという役割を担っていた。1946年9月28日から毎週土曜日3回にわたり靖国神社の旧国防館(靖国会館)講堂で、日本民俗学講座が開催されたのは、木曜会メンバーのかねてからの願いを久々に実現するためでもあった。
 講座の内容は「日本民俗学概論」(関敬吾)、「食習の変革」(池田弘子)、「日本家族制度」(橋浦泰雄)、「民俗学の参考文献」(大藤時彦)、「再建されるべき日本歴史」(和歌森太郎)、「民俗学の方法」(今野円助)、「婦人の地位」(瀬川清子)、「青年の社会」(牧田茂)などと多彩だった。
 国男が登場したのは2回目の10月5日で、「現代科学ということ」と題して講演をおこなっている。
 この講演で国男は、民俗学と史学が補完関係にあること、民俗学が普遍性、実証性、現代性という面において、現代科学へと発展していかねばならないと説いた。
 しかし、とりわけ強調したのは、民俗学の現代性ということである。戦前の軍国主義時代への痛切な反省をこめて国男はこう語っている。

〈はじめて私が東北大学の講義に、民俗学の現代性ということを唱導したときには、時代はわれわれの生活上の疑問を押さえつけ、極度にその提出を妨害している際であった。大きないくつかの国の問題には、あらかじめ堂々たる答えが準備せられ、人がどういうわけで殺し合わねばならぬか、なぜに父母妻子を家に残して、死にに行かねばならぬかというような、人生の最も重要な実際問題までが、もうわかりきっていることになっていた。……そういうまん中において、なお民俗学は現代の科学でなければならぬ、実際生活から出発して、必ずその答えを求めるのが究極の目的だとはばからず説いたのは勇敢だったとも言われようが、白状するならば私はやや遠回しに、むしろ現世とは縁の薄い方面から、問いはいつか答えになるものだという実例を引いていた。したがって気楽な学問もあるものだというような印象ばかり与えて、国の政治上のこれぞという効果は挙げえなかった。なんぼ年寄りでも、これは確かに臆病な態度であったが、しかし実際またあのころは今とちがって、ただ片よった解決ばかりあって、国民共同の大きな疑いというものは、まだいっこうに生まれていなかったのである〉

 国男はみずから勇気がなかったことを反省しているのである。
 いっぽう戦後になって、政治家やジャーナリストが手のひらを返すように、戦争責任は軍部にあったと非難するようになったが、その調子のよさにあきれたかのように、国男はこう話している。

〈仮に軍部の力の強大にすぎたことが、主要なる直接の原因であるとしても、それをかくあらしめたもう一つ前の原因、たとえば武力をもって国の勢力を大きくした前の三つの大戦〔日清、日露、第一次世界大戦〕、それを可能ならしめた経済上の条件、一方には農民を再び昔のように軍人に育て上げた兵農一致の制度、それを喜ばしい復古の兆候と考えていた国民の気風、それこそ封建の旧時代以来たいへんよいものとして求められていた少数有識者階級の指導力、それを否認しまたは抑制する代わりに自分たちだけが急いで被支配者階級から脱出して、権能ある地位に昇り進み、以前の仲間を引きずりまわそうとした努力、こういうものが私などの一生には、どこへ行っても目にあまるほど見られ、名ばかり機会均等でも、実は少数成功者のわがままをする社会になっていた。これがいつまでも国民全体の聡明の期しえられなかった根本の理由ではないのであろうか〉

 国男は日本に災厄をもたらしたのは、かつて美点でもあった国民の従順さ、事大主義、「判断を長者に一任する素朴さ」、そしてそれを傘にきた「少数成功者のわがまま」にあると考えていた。賢い少数者に国が引き回されてしまう危険性はいまもつづいていた。そして「少なくとも各人の自主自由なる判断が、いま少しは実地に働きうるようにしなければ、実は民主主義もむなしい名なのである」と断言してはばからなかった。
 現代性、つまり未来に向かっての学として、民俗学を位置づけようとするのが、単なる学者にはみられない国男の志向性だったといえるだろう。しかも、国民一人ひとりの問いから出発するのが、柳田民俗学の原点だった。
 講演は次のように締めくくられている。

〈学問には限らず、またもちろん民俗学に限ったことではないが、えらい人が生まれなければ大きい事業は興らないように、いままで思っていたのは迷信であった、ということが今度は経験せられるであろう。われわれは率直にわからぬことをわからぬと言い、また子供のような心をもって疑わしいことを尋ね、また答えてもらおうとすればよいのである。そういう一般の要望があれば、学者はみな刻苦精励し、学問は大いに起こらずにはいないであろう。……惑いを釈(と)いてくれるからこそ学問は尊き指導者なのである。知りたいと思うことを教えてもらって、はじめて先生はありがたいのである。それを今まではまるであべこべに、問いもせぬことばかりをまず答えられていた。そのために暗記と試験とが、やたらに若い者を苦しめていたのである。……学問文章というふたつは対立すべきもので、問いによって求める智恵を得るのが学問であった〉

 この講演を聴いていた東大の学生で、丸山真男に学んでいた、のちの政治学者、神島二郎は感動のあまり、すぐに柳田の門下にはいったという。
 いずれにせよ、戦後はまだ始まったばかりであり、すでに古稀を越えていた国男の闘いはこれからもつづくのである。

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0