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平川克美の『移行期的混乱』を読みながら、混乱してしまった [本]

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 きのうは終日、雨。けさも雨が降りつづいている。肌寒さをおぼえるほどだ。
 遅れ遅れになっている柳田国男伝のつづきを書こうと思い、『北小浦民俗誌』を読むが、さっぱり頭にはいってこない。北小浦のある佐渡に行ったことがないから無理もないのかもしれないが、要は一読しただけでは想念が熟さないのだ。もう少し早く読んでおけばよかったと思う。船橋の図書館に関連図書が2冊あるのを発見して、中央図書館で受け取れるよう予約する。
 そのあとで、平川克美の『移行期的混乱』を読みはじめた。駅前の旭屋でこの本を買ったのは、オビに書かれていた「有史以来の移行期的混乱を、これほど抑制の効いた文体で語れる知性に、ウチダから一票」という内田樹の大げさな推薦文に、ついふらふらとひかれてしまったからだ。
 そうか、いまは「有史以来の移行期的混乱」にあるんだ、だったら、その移行期とはどういうもので、それをどう抜けていったらいいのかを知りたいと思った。
 たとえばアジア・太平洋戦争や敗戦直後の様子を考えただけでも、「有史以来の移行期的混乱」というのは、いささかまゆつばの修辞である。それでも、日本の資本主義が大きな過渡期を迎えているという印象はぬぐいがたい。
 一読しかしていないので、ざっぱくな感想でしかないが、この人はまともなことを言っているという思いと、でもこれはちがうのではないかという思いがこもごもわいてきて、これはみんなで集まって、わいわい論議すべき本ではないかという気がしてきた。
 ぼくのなかで読後の混乱は収まっていないけれど、とりあえず一石を投じておくことにする。
 平川はこんなふうに書いている。

〈わたしは現在を大きな時代の転換期であると捉えるべきだと思っている。……金融崩壊は、いくつかある移行期的な混乱のなかの一つの兆候を示しているに過ぎない……。現在わたしたちが抱えている問題、つまり環境破壊、格差拡大、人口減少、長期的デフレーション、言葉遣いや価値観の変化などもまた、移行期的な混乱のそれぞれの局面であり、混乱の原因ではなく結果なのである〉

 これはなかなか説得力のある指摘である。
 これまで日本を支えてきたシステムが崩れつつあり、新たなシステムに移行する過程で、さまざまな混乱が生じているというのだ。
 新たなシステムがどういうものかは、具体的に示されていない。ただ、経済成長が終わり、人口が減少することだけは、はっきりしているという。これはそのとおりだと思う。
 ここで、著者は戦後の日本社会をふり返り、その歩みを(1)高度経済成長の時代(1956-73)、(2)一億総中流幻想の時代(1974-90)、(3)グローバリズムの時代(1991-2008)と分類する。
 そして、それぞれの時代の特徴を、高度成長期には日本人が「義」=みずからの誇りのためによく働き、一億総中流時代には「消費」にめざめ、グローバリズムの時代には金銭一元的な価値観に走ったととらえている。
 これもまた的確な把握といえるだろう。
 問題は「移行期的混乱」のさなかにあるいまだ。
 著者は「経済成長がもはや困難なところまで消費も生産も行き着く」時代がやってきたと判断している。この10年、日本の総人口の減少が予想され、高齢化が進むなかで、就業者人口の減少がつづいており、これで経済成長を維持するのは、とうてい無理だともいう。
 これではお先まっくらではないか、という意見に対して、著者はこう応える。

〈しかし、わたしは高度資本主義が行き着くところまで行った先に、待ち受ける社会に対して絶望よりは希望を抱いているひとりである。総人口の減少を食い止める方策は、さらなる経済成長ではない。あるいは経済成長を続けるための方策は、総人口の再増加でもない。それとは反対の経済成長なしでもやっていける社会を考想することである。その考想がひとびとに共有されたとき、人口動態もまた平衡を取り戻すはずである〉

 そろそろ経済成長がなくても、人口が減少しても、何とかうまくやっていける社会を〈考想〉すべきだというあたりが、著者の主張の眼目だと思われる。
 逆にいえば、無理やり経済成長を維持し、出生率を高めようとする政策は、歴史のトレンドからみて、無意味だというわけである。
 だが、現実の「移行期的混乱」においては、中小企業の倒産や30代の自殺、高齢化という現象がものすごい勢いで進んでいることはまちがいない。それぞれにがんばれというだけでは不十分で、国による何らかの手当てが必要なことは著者も認めているように思える。
 要するに、新たな社会にソフトランディングしていく必要があるというのだ。「あとがき」に触れられているように、「今日と同じような進歩も退化もない平凡な明日が続く」こと、それでもうじゅうぶんではないか、と著者は示唆している。
 だれもが毎日、そこそこ誇るに足る仕事があって、それなりの収入があり、生活は不自由なく、子どもを育てていけるし、老後も心配ない。国であれ、企業であれ、何らかの目標数字を示され、それに向かって尻をたたかれる(場合によっては、不正に走ったり、やりたくもないことをやったりする)のはいやだ。ぼくも、そういう社会がくればいいと思う。
 だが、どうすればそういう社会が実現できるのだろう。前にこのブログで書いた、福祉社会から福祉世界をめざすミュルダールの構想は、そのひとつの回答なのかもしれない。しかし、スウェーデンなどの北欧社会とちがって、1億以上の人口をもつ日本で、はたして北欧流の社会福祉国家が実現できるのかという疑問もわく。
 明治維新のとき、日本がモデルにしたのは、イギリスやフランス、ドイツだった。それが戦後はアメリカ一辺倒になった。そろそろ、それもおしまいにすべきなのかもしれない。
「移行期」というのは、ふたつの意味をもつ。それは資本主義的経済システムからの解放でもあり(社会主義モデルがいいというわけではない)、アメリカ・モデルからの転換でもあるはずだ。そのあたりのことが、まだ論議されなければならないと思った。

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