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和辻哲郎という人 [本]

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先日、岩波新書で熊野純彦著『和辻哲郎──文人哲学者の軌跡』を読みました。
和辻哲郎(1889-1960)は播州出身の哲学者。『古寺巡礼』『風土』『倫理学』などの著書で知られます。同郷の人なので、前から気になっていたのですが、哲学というのは、数学と同じで、ぼくにはどうも近寄りがたく、これまで敬遠してきました。
熊野さんの本を読んで、それでもむずかしくて、よくわからないのですが、とりあえず和辻哲郎という人の印象をぼくなりにまとめておくことにします。
「文人哲学者」という呼び方は、やはりそのとおりですね。文人だけなら江戸時代もいました。いわば濁世から離れて、高雅な世界を楽しむ人という感じですね。ところが、「哲学者」とつくと、すっかり近代的な感じがします。しかも、かれが取り入れた哲学は、カントやヘーゲルなどの「古典」ではなく、ニーチェやハイデガーといった最新流行だったのですから、ずいぶんモダンです。高雅の士でモダンというのは、ちょっとへんな気もしますが、考えてみればハイデガーという人はどちらかというと田舎っぺと思われていましたから、それはそれであうのかもしれません。
武士道が近世の武士のあり方を示しているとすれば、和辻が指し示そうとしていたのは、日本に生きる現代人間道とでもいったものかもしれません。それはけっして偏狭な日本主義ではありません。世界のなかには、それぞれ風土(文化)があり、それはそれとして尊重されなければなりません。和辻がいうのは、世界の文化をよく知りつつ、日本の風土(文化)に生きる人のあるべき姿だといってよいでしょう。
和辻は大和の古寺や桂離宮をはじめとして、近代化にともなって見捨てられようとしていた日本の古い文化を、ひとつひとつ愛惜するように見つめています。かれがもたらした〈ディスカバー・ジャパン〉の潮流は、いまのわれわれにも大きな影響をおよぼしています。
要するに、古い日本の文化を愛するだけでなく、われわれが家族やふるさと、そして日本という〈くに〉を愛すべきことを教えたのが和辻という人でした。ここであえて〈くに〉と書いたのは、「国家」と書くといっぺんに政治色が強くなってしまうからです。「愛国」というイデオロギーにからめられるのもいやですからね。おそらくかれは日本という〈くに〉をめちゃくちゃにする政治や軍事や経済に、白い眼をむけていたはずです。何よりも知を愛する人だけに、ごうつくばりな無知の手合いが嫌いだったことはまちがいありません。
それでもかれの専門は哲学ですから、なかなかむずかしくて、よくわからないところがあります。
人は純粋な「個」として存在するわけではなく、人と人とのあいだにおいて形成されるというのが、かれの考え方です。だから家族というのが出発点になります。たしかに両親がなければ、わたしは生まれないし、家族が食事をあたえてくれなければ、わたしは育たないわけですからね。
そして、その家族というのも、純粋な「個」としての家族ではありえず、さまざまな親族との関係、さらには村や町との関係において、成立していることがわかります。そして和辻にとって、ほんらい〈経済〉とは、家族を存続させる諸関係を指していました。
人間存在がそれ自体に全体的契機を宿しているというのが和辻の基本的な哲学といえるでしょう。そして、そこからは、わたしが家族、ふるさと、くにに包まれているという見方がでてきます。家族やふるさと、くにが実際には、みにくく崩れている場合もあります。それでも、理念としては、わたしを包む家族やふるさと、くには美しくなくてはならないわけです。これが人間の道、すなわち倫理ということなのでしょう。逆にいえば、美につつまれた倫理がわたし、家族、ふるさと、くにをつくっていかねばならないのです。
むずかしい哲学や細かな論理は苦手なので、ぼくは和辻の思想について、ごく大雑把なところしか触れていません。そこには全体と細部にわたって、みごとな流れるような思考が刻印されています。和辻哲学を味わうというのは、ほんとうはそういうことなのでしょう。
しかし、散読しかしていないという前提でいうなら、ぼくが気になるのは──ある意味で感心するのは──わたしという「個」がほんらい「無」あるいは「空」にすぎないととらえられているところです。表向き「個性」が尊重されるいまの時代にあっては、これはすごく反語的で、諸刃の剣ともなりかねない言い方です。
なぜ「個」は無にして空なのか。「私」を押し出すことが、それ自体なぜ「清澄」でなく、いぎたないことなのか。わたしの経験は、そもそもわたしだけの経験ではありえず、われわれの経験なのだと和辻はいいます。そういったからといって、もちろん、わたしがなくなるわけではないのですが、わたしの経験には、すでにその中に自然や風土や文化がしみついているわけです。本来、無であり空であるわたしは、家族やふるさとやくにのなかで、わたしをつくっていって、はじめてわたしという「人格」になるわけです。こういう発想は、和辻ならではの考え方で、いかにも東洋的であり、かといってハイデガーの現象学と隔たっているわけでもありません。このあたり、ぼくは意外と新鮮なおどろきを感じました。
それでは、よく批判されるように、ひとはけっきょく、世間や、日本というくにに解消されていくのでしょうか。つまり、世間やくにに無私の心で奉仕することが倫理、すなわち人の道だと和辻は考えていたのでしょうか。
そうだともいえるし、そうではないともいえます。世間やくには、あるべき姿をしていることで、はじめてわたしにとっての世間、くに、あるいは世界であって、そうでなければ、それは現実には否定的形態の存在でしかありえないのです。そこに〈個〉の判断が生まれ、実践的課題が登場します。しかし、あるべき姿といっても、実際は妥協と打算がどこかにはたらいてしまうところに、人の世の悲しい現実があるのかもしれません。
とはいえ、わたしは〈他者〉があり〈世界〉があり〈歴史〉があって、はじめてわたしなのであり、逆にわたしは〈他者〉にも〈世界〉にも〈歴史〉にも解消されることがないというのは、ひとつの真実だと思われます。
和辻哲郎という人はけっして時代に超然としていたわけではなく、戦争の時代に遭遇し、それをくぐりぬけないわけにはいきませんでした。そのときの身の処し方、発言にたいしては、いまでも毀誉褒貶があります。日本国民の創造力を鼓吹し、東西文化の総合を唱えることで、大東亜共栄圏のイデオロギーを推進したという見方もあります。
かれは少なくとも軍部とは距離を置き、津田左右吉を擁護するなどして右翼からねらわれていました。それでも戦争を美化し、天皇制を支持したという批判はつきまとうでしょう。本書の著者、熊野純彦も「国家を人倫的組織の人倫的組織と考える和辻の歴史的想像力は、国家を超える共同体を構想することを半ば禁じた」と和辻の「日本回帰」を批判しています。
そのあたりの評価は、さらに厳密になされなければならないでしょう。しかし、日本語によって、はじめて体系らしい「哲学」を築きあげようとした和辻の努力と功績は、けっして忘れ去ってよいものではありません。

〈人は死に、人の間は変わる。しかし絶えず死に変わりつつ、人は生き人の間は続いている。それは絶えず終わることにおいて絶えず続くのである。個人の立場から見て「死への存在」であることは、社会の立場からは「生への存在」である。そうして人間存在は個人的・社会的なのである〉

いくつかの保留をおけば、これはなかなかに味わい深いことばです。

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マチャ

ちょうど今日は、4月頃に掲載予定の歴史系記事の下調べで、
和辻哲郎の古寺巡礼を読んでいたところです。
大変興味深く、今回の記事を読ませて頂きました。
ありがとうございました。
by マチャ (2012-01-16 20:55) 

だいだらぼっち

マチャさんにそう言っていただけるとうれしいです。
by だいだらぼっち (2012-01-17 07:14) 

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