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カライモとビロウ [柳田国男の昭和]

《第241回》
 沖縄の旅から4年後の1925年(大正14)に柳田国男は、大岡山書店から『海南小記』を発刊した。この出版は大岡山書店にとってもほとんど初仕事であり、この編集を担当した横山重(しげる)は、のちに室町物や浄瑠璃本、西鶴本、琉球古典籍などの収集と校訂で知られることになる。
 長野出身で慶応義塾を出た横山と国男は、おそらく郷土会あたりで知りあったのではないだろうか。国男のまとめた『郷土会記録』や折口信夫の『古代研究』、それに国男の兄弟、井上通泰と松岡静雄の本もこの大岡山書店から出版されている。およそもうけとは縁のない出版社だった。
 それはともかく『海南小記』の序文にはこう記されている。朝日新聞の連載から4年が経過し、ジュネーヴの国際連盟での仕事があいだにはさまったために、国男は沖縄の旅をより客観的にふり返ることができるようになっている。

〈海南小記のごときは、いたって小さな詠嘆の記録にすぎない。もしそのなかに少しの学問があるとすれば、それは幸いにして世を同じうする島々の篤学者の暗示と感化とに出でたものばかりである。南島研究の新しい機運が、一箇旅人の筆を役して表現したものというまでである。ただ自分は旅人であった故に、常に一箇の島の立場からは、この群島の生活をみなかった。わずかの世紀のあいだに作り上げた歴史的差別を標準とすることなく、南日本の大小遠近の島々に普遍している生活の理法を尋ねてみようとした。そうしてまた将来の優れた学者たちが、必ずこの心持ちをもって、やがて人間の無用なる争諍(そうじょう)を悔い嘆き、必ずこの道を歩んで、次第に人類平等の光明世界に入らんとするだろうと信じている〉

 国男は『海南小記』が伊波普猷(いは・ふゆう)をはじめとする沖縄の篤学者から影響を受けたものであることを認めたうえで、これから南島研究がさらに進展することに期待を寄せている。ただし、その研究は郷土誌のレベルにとどまるのではなく、日本の成り立ちにかかわるものでなければならない。
 国男はここで慎重に政治的な話題を避ける道を選んでいる。それよりも「南日本の大小遠近の島々に普遍している生活の理法」をさぐってみたいという。もとより南島が政治の争諍の場となっているのは百も承知している。差別がないというのではない。めざすのは「人類平等の光明世界」だ。それでも国男は、政治をいったん遮断して、南島の「生活の理法」をさぐる方向を選んだ。沖縄の生活と民俗をより広く深く知り、それを伝えつづけることこそが、自分にとっては反差別の実践だと信じたからである。
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 沖縄の旅を南九州からはじめるにあたって、いわゆるサツマイモ(甘藷)の呼称をたどってみようとしたのは、いかにも国男らしかったといえるだろう。九州北部から中国地方の一部では、これを琉球イモと呼んでいたが、南九州ではカライモないしトウイモというのがふつうだった。これが奄美に渡るとトン、あるいはハヌス、ハンスとなり、沖縄ではンム、さらに先島ではアッコンまたはウンティンと呼ばれる。
 とはいえ、いずれにせよ、サツマイモが中国の江南から伝わったことはまちがいない。そう述べながら、国男はすでに海上の道を頭に描いている。そのうえで、イモがアワやマメ以上に、飢えから人びとを救う食料であったことに思いをはせている。
 国男は大分県の臼杵(うすき)から船に乗って、島や海岸をへめぐりながら、南へ下った。それはまるで、海上の道を逆向きにたどるかのように思えた。島の多くに漁村がへばりついていたが、いずれも水や米、野菜に苦労しており、それでもまるで大きな家族のように協力しあって暮らしていた。祭ともなると、社に神が降りてくる。海の仕事は漂流や死と隣り合わせだ。百合若(ゆりわか)伝説は海人のあいだに伝えられた悲しい物語である。
 東北の旅で知りあった山伏の知己を訪ねたり、飫肥(おび)を再訪し西南の役について思いをはせたりしながら、国男はふたたび小さな船で海岸線をたどっていく。沖を行くと、ついついビロウ(蒲葵)の林に目がいく。
 佐多岬まで来ると、いっそう南の島が一列の飛び石になっていることに気づかされる。
「島々に行けば次の島がまたそうであろう。沖へ出てみたら、なおいっそう移る心が自然に起こるであろう」
 そう思わないわけにはいかなかなかった。
 南九州と沖縄はカライモとビロウでつながっていた。とくにビロウのことが気になる。ビロウは扇や笠に使われただけではない。中世、貴族は白くさらしたビロウの葉で、牛車(ぎっしゃ)を包んだものだ。山伏の修験者もかならずビロウの扇(ホキセン)をたずさえていた。ご飯をさますのに、ビロウの扇を用いたのは、そこから生ずる風が神聖とされたからである。
 ビロウは南の木で、北限は紀伊半島である。古名はアヂマサ(阿遅摩佐)。現在、台湾などでよく見られるビンロウ(檳榔)と音からしても似ているが、まったくちがう木で、シュロ(棕櫚)ともまた異なる。一名、コバともいい、沖縄ではクバと呼んでいる。
 国男は「ビロウの実、コバの実」と口癖のように唱えながら、島々をへめぐった。かれがそれほどビロウにこだわったのは、それが神の森の木だったからである。ビロウは自然に広がったのではなく、神人が運んだのだとすれば、どうしても沖縄の島を歩かなければならないと国男は思った。
 ビロウの広がりは、沖縄のはてから京の朝廷までを結ぶ信仰の広がりと重なる。国男は沖縄本島でも先島でもウタキ(御嶽)やウガン(拝所)を見て回る。そして、その細長い小道の行き止まりにコバの木を見つけて、小躍りすることになる。
 ビロウ(クバ)の広がりを通して、国男は固有信仰の基盤を探ろうとしていた。沖縄には日本の信仰の原型が、いまも息づいている。そして、そのことは何を意味するのか。沖縄から戻ってすぐ、久留米でおこなわれた講演で、早くもこう話している。
「誠に閑人の所業のようにみえますが、かくのごとく長たらしく、コバとわが民族との親しみを説きますのも、畢竟(ひっきょう)はこのただひとつの点をもって、もとわれわれが南から来たということを立証することができはしまいかと思うからであります」
 コバ(クバ)の木は、海上の道でつながっていた。そして、それは信仰を運ぶ道でもあった。

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