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映画『ファウスト』をめぐって [映画]

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先日、東京に出たついでに、銀座のシネスイッチでアレクサンドル・ソクーロフ監督の『ファウスト』を見ました。エジプト・トルコ旅行の時差ボケをかかえていたので、途中うとうとしたものの、いちおう最後まで鑑賞。
何とも気色の悪い映画でした。ぼくがゲーテの原作から感じていたのとは、まるでちがう作品になっていたからです。
筋立ては『ファウスト』第1部を踏襲しています。しかし、ゲーテに向日性があるとすれば、この映画にあるのは向暗性とでもいいましょうか。
原作では、学問の探究に行きづまったファウストが、悪魔メフィストフェレスと、魂をくれてやるという契約を結んで、ハンサムな青年に若返り、気に入った娘を誘惑して、みごと手に入れます。下世話にいえば、ファウストは中年おやじの夢と欲望を体現しているわけです。ファウストをたまらなく引きつけるのが、14歳のマルガレーテ。いまならまちがいなく犯罪行為ですね。
『ファウスト』はいわば悪漢(ピカレスク)ドラマです。悪魔の手を借りて、やりたい放題という話が、おもしろくないわけがありません。巷間に伝わっていた民話のファウストは、最後に罰を受け、神によってからだを引き裂かれるのですが、ゲーテのファウストはメフィストとの契約をものともせず、最後は天国に導かれることになります。
ファウストとの出会いはマルガレーテに幸せどころか悲劇をもたらします。しかし、彼女は亡くなるまでファウストを愛していました。ファウストが自分をもてあそんだなどとは思っていません。年老いたファウストが天に召されるとき、かれをまっ先に迎えたのは、純粋無垢なマルガレーテの魂です。
ゲーテは中世の桎梏をふりはらって、夢と欲望の実現に向かって突きすすむ、近代の自由な悪漢の姿をえがいたのではないでしょうか。そこには、多少かれの自画像も投影されていますが、ここに見られるのは圧倒的な人間讃歌です。

ソクーロフの映画に登場するファウストは、何とも無気味です。魂のありかを探して人体解剖をくり返すファウストは、まるで自身が悪魔のようです。
映画にメフィストフェレスが登場しないのは、おそらくファウスト自身が悪魔的人物として設定されているからでしょう。
とはいえ、メフィスト的な狂言回しがいないわけではありません。それが高利貸のマウリツィウスで、かれの武器とするのは、悪魔の術というより、まさにカネそのものの力です(その人物造形はからだの前と後ろがひっくり返っているように、ずいぶん悪魔的でもあり、また資本主義を象徴するようでもありますが)。
原作とのちがいはほかにもいっぱいあります。ファウストは若返ることなく、陰鬱な中年男のままです。そして、可憐なマルガレーテ。おそらく彼女はファウストを愛しているわけではありません。
ファウストはマルガレーテと一夜をすごすために、魂を売り渡す契約をマウリツィウスと交わします。その結果、彼女をだくことができるのですが、そのあたりのえがきかたは、はっきりしません。動いたのは彼女の気持ちではなく、マウリツィウスのカネだったのではないかと思ってしまうくらいです。援交するファウストというのはぞっとしますね。
さらに原作とのちがい。映画で強調されているのは、家族という権力です。
ファウストの父親は映画だけに登場します。この父親は町医者で、中世の拷問道具のようなものを使って、患者を治療しています(スターリンみたいですね)。ファウストにいちいち干渉し、これに息子が反発するのは、おなじみの構図といえましょう。
マルガレーテは母親の束縛から逃れようとしています。教会の懺悔室ではこんなふうに告白します。
「主よ、お許しください。私は孤独です。母を愛せません。母も私を愛してません。私は悪い娘。罰が当たります。母の化粧も額のおしろいも、口の臭いも、苦手なんです。私を救ってください。お許しください。罪深い私を」
こういう設定も原作には見られないといってよいでしょう。マルガレーテはまるで母親の束縛から逃れるために、好きでもないファウストに身をゆだねるかのようです。
そして、ふたつの殺人。マルガレーテの兄と母が殺されます。殺しの手はずを整えるのはマウリツィウスです。マルガレーテの兄を殺すためのフォークと、その母を殺すための毒薬を。
そしてファウストは渡されたフォークであやまってマルガレーテの兄を刺し、マルガレーテは眠り薬と思いこんで、自分の母に毒薬を飲ませるのです。ここにも、ほんとうの犯人は見えないという、現代の殺人事件の構図が投影されているかのようです。
ファウストの助手、ワーグナーがつくりだそうとしている人工生命体ホムンクルスも原作では妖精のようなのに、映画では腐りかけの心臓のような無気味な姿をしています。
ワーグナーは野心家です。ホムンクルスをつくりだして、師のファウストをしのごうとしています。だが、その人工生命体はあくまでも人によって操縦され、自由な意思をもたないみにくい存在です。それは純粋なマルガレーテによって、いとも簡単にこわされてしまいます。ソクーロフが生命科学の無気味さを意識していることはいうまでもないでしょう。
そして原作ではコミックのように陽気なワルプルギスの夜がはぶかれて、映画では草木ひとつ生えない虚無の岩山で、ファウストとマウリツィウスとの哲学問答が交わされます。
魂を渡せと迫るマウリツィウスをファウストは岩山のくぼみに突き落とし、石を投げつけ、さらに山を登っていきます。カネに動かされる世界など、くそくらえといわんばかりに。
それをマウリツィウスの声が追いかけます。
「どうやって食っていく気だ? ここからどうやって出ていく?」
荒野を歩くファウスト。
「これで終わりだ。何もなかったのさ」
マウリツィウスがあざけります。
「終わり? 愚かなことばだ」
「どこへ行くの? どこへ?」というマルガレーテの声も聞こえたような気がします。
ファウストは「あそこへ。あっちだ。はるか先へずっと進むぞ」と、みずからをはげますように自答して、月の出た雪原に向かっていくのです。
ここに救いはありません。あるのは自由をめざす永遠の戦いだけです。
いまの時代にゲーテののびやかさ、のどやかさを求めるのは無理というものなのでしょうか。
ぼくもまた答えのでない問いをかかえたまま、考えつづけています。

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