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シタデルから旧市街に──15日間エジプト・トルコツアー(3) [旅]

2日目 2012年6月14日

ムハンマド・アリ・モスクの前にいます。
朝8時ごろでしょうか。気温はすでに30度以上になっています。
早いせいか、手前の店はまだ閉まっています。
DSCN6038.JPG
絵葉書やらガイドブックやら何かをえがいたパピルスなどをもった物売りの男たちが寄ってきて、5つ1000円、1000円などと呼びかけながら、近寄ってきます。
添乗員さんからは、相手にしないよう注意されていました。
財布を出したとたんに盗まれることもあるというのです。
ほんとうかどうか、わかりません。
ぼく自身は、日がな観光客向けにたいした稼ぎにならない商売をして、はたして食っていけるのかどうかがむしろ心配です。
ところで、このモスクの呼び名となっている、肝心のムハンマド・アリとは、どういう人なのでしょう。
ムハンマド・アリ.jpg
ガイドさんから説明してもらったような気がするのですが、聞き逃してしまいました。
ものの本によると、この人はナポレオン遠征後の混乱がつづくなか、オスマン帝国属州エジプト総督の地位を勝ちとり、のちにオスマン帝国から事実上の独立をはたし、エジプトにムハンマド・アリ王朝を創設したとのこと。
マケドニアのテッサロニキ生まれのアルバニア人で、19世紀はじめから半ばにかけて活躍した軍人、政治家です。
よくもあしくも、近代エジプトの父といって、まちがいありません。
日本でも浩瀚な伝記が出ているようですが、いまはそれにふれなくてもよいでしょう。
現代のエジプトの栄光と苦難は、この人物とともにはじまったという感があります。
いずれにせよ、われわれはそのモスクの前にいます。
スケジュールの関係か、それとも朝早いせいか、モスクのなかにははいれませんでした。
残念。外からだけの見学です。
前回の写真で紹介したように、巨大なモスクです。
イスタンブールのブルー・モスクに対抗して建てられたとか。
中には、ムハンマド・アリの墓も残っているようです。
大きなミナレット(尖塔)が2本、それにほの白く輝く中央の巨大ドームを囲んでいくつかの中小ドームからなる建物は、ヤシの木にいろどられ、大きな城壁に囲まれています。
丘のふもとには10世紀ごろから発展するイスラム地区と呼ばれる旧市街が広がります。
DSCN6033.JPG
ちなみに、カイロの街はこの旧市街と、ナイル東岸の新市街、そして、旧市街以前につくられた南部のオールド・カイロにわかれます(旧市街とオールド・カイロ、ちょっとまぎらわしいですね)。
オールド・カイロは、キリスト教の一派、コプト教を信奉する人たちが多い地区ですが、残念ながら、ここも訪れることができませんでした。
さらに20世紀後半になって、空港に向かう途中の東部にニューカイロと呼ばれる新興住宅街が開発されました。
われわれは空港からの行き帰りに、この地区にあるムバラク前大統領の豪勢な別荘の前を通ったものです。
そして、ピラミッドがある場所はナイル川西岸で、カイロからはずれて、その対岸のギザということになります。
砂漠がすぐ近くまで迫っています。
ナイル川が扇状に分岐する結節点にあたるカイロに街がつくられるのは、7世紀半ばのことです。
イスラム帝国の軍営都市がそのはじまりで、町の名はフスタートと呼ばれていました。
その北側にだんだん新しい町がつくられるようになり、それが商業的にも発展して、現在のカイロとなります。
カイロの礎を築いたのは、12世紀のサラディン(サラーフッディーン)だといわれます。
われわれが訪れたムハンマド・アリ・モスクのある丘に城壁と砦を築きました。
ガイドさんの説明によると、サラディンの城壁はいくつかのピラミッドを崩してつくられたのだとか。十字軍の侵攻に備えるため、文化遺産であることなどおかまいなしに、大急ぎでつくられたのかもしれませんね。
ここに築かれた城はシタデルと呼ばれています。
これもまた、残念ながら時間の関係で見学することができませんでした。
西洋でサラディンと呼ばれるサラーフッディーンは、伝説の英雄です。
イラク北部ティクリート出身のクルド人で、ダマスカスを拠点として、十字軍のつくったエルサレム王国と対抗しながら、エジプトに遠征し、アイユーブ朝を創設します。エルサレムをアラブ側に奪還し、テンプル騎士団を壊滅させたことでも知られます。
城壁はともかく、サラディンのつくったシタデルはおそらくほとんど残っていないのでしょう。
しかし、のちにムハンマド・アリはここにあった城に反対勢力を一堂に集めて、虐殺するという残忍な策略を弄していますから、昔は何か城のようなものがあったのかもしれません。
モスクはひょっとしたら、良心の呵責を覚えて、その場所に立てられたのではと考えるのは、ぼくの勝手な想像で、真相は事実にあたるほかないでしょう。
バスはムハンマド・アリ・モスクのある高台を下って、旧市街にはいっていきます。
アリはどちらかというと反英親仏の姿勢をとり、フランス国王ルイ=フィリップにオベリスクを贈ったりしています。
それがいまもパリのコンコルド広場に立つオベリスクですが、その返礼としてムハンマド・アリがもらった大時計はだいぶ前から動かなくなっているようです。
あげなきゃよかったのに、と思うのはぼくだけでしょうか。
近代のものはすぐ陳腐化し、古代のものはいつも新しいというのは歴史の皮肉でしょうか。
その時計台の下を通過しながら、バスは新市街に向かっていきます。
旧市街はかつて宮殿やモスクの塔が林立して、それこそアラビアンナイトの世界そのものだったと思われますが、車窓からみるかぎり、その面影はありません。
街角のパン屋さんをみつけたつれあいが、その様子をすばやく写真におさめました。
DSC_0074.jpeg
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