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『風立ちぬ』は腹立ちぬか [映画]

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 映画は洞窟の夢だといったのは、だれだったか覚えていませんが、久しぶりにつれあいといっしょに映画をみにいきました。宮崎駿監督の『風立ちぬ』という映画です。船橋ららぽーとにあるTOHOシネマズは、シネマコンプレックスというのでしょうか、なかにミニシアターが10もあって、そのふたつで『風立ちぬ』を上演していました。ぼくらがみたのは、80人のいちばんちいさなシアターでしたが、宣伝がよくきいているのか、客席も満員でした。子どもから老人まで、客層は広かったですね。
 でも、あまり盛りあがった様子はありませんでした。終わったあと拍手もおこらず、なんだかみんなキツネにつままれたようで、ぼうぜんとしていたように見受けられました。そのためか、ぼくは帰り道の信号のないT字路の交差点で、向こうから車がきているのをあやうく見落とすところで、ひやっとしました。
(以下は映画の内容にふれていますので、これからご覧になる方はお読みにならないほうがいいかもしれません)
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 夢のような映画でした。宮崎駿さんの夢のなかに引きこまれていきます。モデルとなったのは戦前に零戦を設計した堀越二郎という人物です。幼いころから飛行機にあこがれ、東京帝国大学航空学科を卒業後、名古屋に本社のある三菱内燃機(現三菱重工)に就職し、さまざまな戦闘機を設計したのち、紀元二千六百年(昭和15年、1940年)に当時世界最高水準の戦闘機「零戦」を生みだすことに成功します(ちなみに零戦の名称は紀元二六〇〇年のゼロに由来)。このアニメは、基本的に零戦開発物語だといってよいでしょう。
 宮崎さんの実家は、中島飛行機の下請会社でした。中島飛行機は富士重工の前身ですが、「隼」や三菱設計の「零戦」をつくっていた航空機会社です。ですから宮崎さんも幼いころから飛行機にあこがれ、その夢がこれまでのアニメ作品にも投影されていたわけですね。堀越二郎という人は、宮崎さんにとって、神様みたいな人だったにちがいありません。
 で、それがなぜ『風立ちぬ』か、です。『風立ちぬ』は堀辰雄の実体験にもとづいた小説で、結核で亡くなる婚約者、節子の最後の様子を描いています。八ヶ岳山麓と軽井沢を舞台に物語は展開し、著者は療養所でもずっと婚約者につきそい、その死後も軽井沢で彼女のことを思いつづけるのです。
 でも映画ではヒロインの名前が節子ではなく菜穂子になっています。それは堀辰雄の『風立ちぬ』だけではなく、もうひとつの小説『菜穂子』がヒロインのイメージに投影されているからですね。やさしい節子と活発で気丈な菜穂子が合体して、映画のヒロイン、菜穂子が生まれます。
 今回のアニメでは、「戦争」と「結核」が結びつけられています。「零戦」をつくらざるをえなかった時代、「結核」が不治の病だった時代は、不幸な時代でした。ほんとうなら、あまり思いだしたくない時代かもしれません。
 それにしても、同じ堀つながりだとしても、堀越二郎と堀辰雄の「菜穂子」を結びつけるのは、どう考えても無理があるのではないでしょうか。「汚れちまった悲しみ」が捨象されて、純粋な魂のつながりだけが強調されるために、物語は随所で破綻しています。
 たとえば、堀越二郎という人を平和主義者のように扱うのは無理があります。かれは美しい飛行機、すぐれた飛行機をつくろうとしますが、それが敵を倒す戦闘機であることを意識していなかったはずがありません。二郎が軽井沢でゾルゲをモデルにしたかのような白人男性と意気投合し、ドイツの航空機設計家のユンカース博士がナチスに追われる話を聞いたり、いっしょに歌を歌ったりし、その結果、日本の特高につけねらわれるエピソードがはさまれてはいるものの、それでかれが反戦思想の持ち主だったわけではなさそうです。
 少年の二郎が夢のなかで、イタリアのカプローニ男爵から、こういわれるシーンもでてきます。
「いいかね日本の少年よ。飛行機は戦争の道具でも商売の手立てでもなく、それ自体が美しい夢なのだ。設計家は夢にカタチを与えるのだ!」
 でも、だからといって、現実の二郎が「飛行機は戦争の道具でも商売の手立てでもなく、それ自体が美しい夢なのだ」と考えていたはずがありません。イギリスやアメリカ、ソ連、そしてドイツの戦闘機に負けない戦闘機をつくることこそが、日本の設計家の夢というものでしょう。そのことをあいまいにしたまま、まるで戦争に無関心であったかのように二郎を位置づけるのは、かえって残酷な改変というものです。
 結核という当時不治の病をかかえた「菜穂子」は、無理やり堀越二郎と結びつけられています。堀辰雄の小説にえがかれる節子や菜穂子の背後には、彼女たちを思いつづけるナイーヴな男たちがいます。ところが映画の菜穂子には陰影らしきものがなく、ひたすら純粋で、きっぱりとし、実に美しくてかわいいのです。
 二郎と婚約していた菜穂子が、突然、高原の療養所を抜けて、たとえ短い時間でも二郎と結ばれようとして、軽井沢から名古屋にやってくるというのも、あまりにも無謀というか、ぜったいに考えられない話です。たしかに、小説の『菜穂子』にも同じような筋立てがあります。しかし、それは映画とまるでちがって、深い哀しみに満ちたたった1日の帰京でした。
 映画では、二郎と菜穂子は上司に仲人になってもらい、その家でふたりきりの結婚式を挙げます(じつに美しいシーンです)。そして菜穂子は、離れで暮らし、毎日、帰宅の遅い夫を、床に臥せったまま、じっと待つのです。ふたりのあいだで交わされるキス。
 二郎と菜穂子は堀辰雄の『風立ちぬ』でも、小説家はサナトリウムの隣室で、病室の様子をじっと見守っていたのに、だいじな戦闘機の設計を託されていた二郎が、結核がうつるのも気にせず、菜穂子と臥所(ふしど)をともにしていたというのも信じられない話です。
 最後に菜穂子は、二郎の設計した零戦ができあがり、飛行テストをする日を待って、そっと山へ帰っていくのですが、死ぬために山に戻った菜穂子を、二郎が仕事を投げだして、追いかけた形跡はなさそうです。こうして菜穂子は二郎との楽しい日々を思いだしながら、ひとりさびしく高原の療養所で亡くなり、日本はアメリカとの戦争に突入して、絶望的な特攻作戦をこころみた末に、敗戦の日を迎えることになります。
 映像の美しさ、音響の工夫に比して、何という残酷な失敗作なのでしょう。そう思いました。でも、1日たって、そうでもないのかなと思いなおします。これはたぶん、宮崎駿さんの夢のなかのできごとなのです。夢のなかで、実在の堀越二郎と小説の菜穂子が、リアルな時空を超えて結びついてしまったのでしょう。その夢に向かって、時よとまれ、汝は美しいといってできあがったのが、この作品なのではないでしょうか。
 ぼくらは映画館という洞窟のなかで、たぶん宮崎駿さんの夢をみていたのです。それはほんとうは戦前の日本が強いられた悪夢だったのかもしれません。でも、風立ちぬ、いざ生きめやも、です。みんな必死でした。もちろん、必死だったから許されるわけではありません。しかし、いつのどんな時代も、風立ちぬ、いざ生きめやもは変わらないのではないでしょうか。まして、生きにくい時代にあっては。そんなふうに思いなおしました。
 日米戦争は奇妙な戦争でした。日本は中国とのあいだで、泥沼の戦争に突入していました。口では勇ましく対米戦争も辞さないといいながら、日本はできることならアメリカとの戦争を避けたいと思っていました。アメリカは国民に戦争はしないと約束しながら、大東亜圏構想をたたきつぶすために、早くから日本との戦争を決意し、しっかりと準備を整えていました。これが日米戦争の実相です。
 戦争にいい戦争などというものはありません。どの戦争も、大義の裏側に野望や邪心が隠れています。日米戦争にしたところで、すべてアメリカが正義で日本が悪だったわけではなく、逆にすべて日本が正義でアメリカが悪だったわけでもありません。戦争はいやなものです。できるなら避けたいものです。日本の正義を唱える歴史修正主義にもいやなものを感じます。
 かといって、零戦をつくりだした堀越二郎の半生を映画にした宮崎監督を「晩節を汚した」とけなすのは、どこかちがうような気がします。さらに平和を願っていたにちがいない菜穂子を、零戦の完成をひたすら祈る武人の妻のようにえがいたなどと、この映画を批判するのも、あまり意味があるとは思えません。たとえ、どんな苦しい時代にあっても、人は懸命に生きつづけ、愛しつづけねばならないというのが、いちおうこの映画のテーマなのですから。
 昭和の時代を夢のようにえがこうとしたのは、まちがいだったという見方は成り立ちます。われわれは戦争の記憶がまだ払拭されていないために、夢を夢として味わうことができないのです。しかし、宮崎駿さんはどこかに悪い予感をおぼえているのかもしれません。また大震災がおこり、茶色い戦争がはじまり、これまで経験しないパンデミックが無気味に広がっていくのではないか、と。その予兆はすでにあります。だとすれば、風立ちぬ、いざ生きめやも、は、いまとりあえず生きているわれわれひとりびとりのテーマでもあるはずです。
 茫洋とした気分に包まれたまま、この一文をつづりました。乱筆のほどご容赦ください。

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krause

だいだらぼっちさんのブログ記事を読んでとても勉強になりました。まだ映画を観ていないのですが、一度は観てこようとおもっています
by krause (2013-07-26 15:30) 

だいだらぼっち

ありがとうございます。年寄りの感想で、あまり参考にならないかもしれませんが。
by だいだらぼっち (2013-07-27 05:43) 

あゆこ

ものすごく大きなメッセージ性を感じました。
『もののけ姫』の自然を壊しながら人間を慈しむ事業に徹したエボシ御前の立場と脈流がおなじなのかもしれません。
今でいえば、原発開発者に対する評価が、批判と擁護であまりにも両極端に表出している。両方に対してそれは違うだろ、と言いたいんだと深読みしてみたりします。
日本軍の、破綻しているのに狭いムラをダラダラと維持するのが目的化することプラスそれを傍観するのは、イジメのある教室と一緒。教室のなかで何ができるのか?はまた別の話でいいんだと思いました。
ジブリ発行『熱風』のメッセージをみるにつけhttp://www.ghibli.jp/shuppan/np/
長文すみません。
by あゆこ (2013-07-28 09:25) 

ric

主人公(顔も 似ていたせいだったのでしょうか)の声が、(どうしても)漫才の(かたわれ) 矢作 兼(やはぎ けん)に思えて しかたがなかったのは、わたしだけ だったのでしょうか?!
by ric (2013-07-28 17:22) 

ktm

映画で詳しく出てきたのは九六式艦上戦闘機です。
零戦は最後の荒地の場面から出てきます。
堀越さんは零戦より九六式艦上戦闘機の方が気に入っていたようです。
しかし、映画を見て何か尺然としないまま帰ってきました。
何も残らない感覚です。
by ktm (2013-09-04 18:58) 

hana

宮崎氏の映画はいつも見せたい対象がいます。
パンダコパンダは息子の為に作りました。
ナウシカはバブルで浮かれていた世間に対して。
もののけ姫は隣の女の子に。
ハウルは老いてしまった妻に。

「風立ちぬ」は息子、吾郎氏に向けられたメッセージだと思います。

ほとんど家にも帰らず「父親らしい事は何もしてくれなかった」とコメントし
父親を完全否定しつつ父親のシュナの旅を壊した「ゲド戦記」は
父親に対する強烈な憎しみを感じました。
駿氏は試写会の会場を途中で出て行き
「あいつにはこんな風に見えていたのか」と泣きました。

そのゲド戦記に対する返信が「風立ちぬ」であると考えます。
「クリエイターというのは周囲を省みない残酷な夢を持っている。
お前はその情熱があるのか?」と言っているように見えました。
by hana (2015-02-24 02:23) 

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