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付記──神風特攻隊をめぐって [本]

 先日、服部英雄の『蒙古襲来』を紹介するなかで、本書に書かれている重要なエピソードにふれるのを忘れていた。
 それは神風特攻隊をめぐるエピソードである。
「カミカゼ」特攻隊ではなく、「シンプウ」特攻隊と呼ぶのが、正式らしい。
 ぼくは国を守るため、さほど訓練も受けていない学生あがりの航空兵が、爆弾を積んだ零戦に乗り、米空母や戦艦に体当たりして、全員はなばなしく散ったと思いこんでいた。かれらは護国の神、英霊になったのだ、と。
 現在でも、いのちをかけて、国を守ろうとしたかれらをたたえる本が、ベストセラーになり、映画化もされて大ヒットしている。
 しかし、本書で紹介されているのは、ちょっと表にでては困る「神風」のもうひとつのエピソードである。
 鹿児島県の沖合に、3つの島からなる三島村という、ちいさな島がある。そのまんなかの島が硫黄島で、別名、鬼界が島と呼ばれる。太平洋戦争の激戦地となった硫黄島とはちがい、きわめておだやかに敗戦をむかえた島である。
 鹿児島港から船で4時間。知覧や鹿屋(かのや)から飛行すれば、あっというまにつくという。かつて知覧や鹿屋には、特攻隊の基地があった。

〈硫黄島の浜には昭和20年春、多くの特攻機が不時着した。敗戦間近で船便もなく、特攻兵は長く滞在したが、島人からは隔離された〉

 著者はそう記している。
 特攻機がとつぜん故障したのだろうか。それにしても、あまりに数が多い。
 やっと事情がわかったという。

〈知覧なり、鹿屋なりから出撃すれば、硫黄島をはじめとする三島や十島(としま)にはすぐに到達する。二人乗りなら予科練出の十代少年兵が操縦し、後部席の将校も二十代になったばかりの学徒兵だった。二人が「生きよう」といえば、脱出はあり得た。かれらは離陸の時から、最初にみつけた島の浜に逃れるつもりだった〉

 これはカミカゼをめぐるもうひとつのドラマである。
 多くの葛藤があった。理不尽な命令には反するほかない。
 カミカゼを護国の思想にしてはならないだろう。
 それは「蒙古襲来」にしても同じことである。
 鎌倉武士は専守防衛に徹していた。
「防衛力」をどんどん強化して、いつでも海外に侵攻できるようにしようとは思っていなかったはずである。

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