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明るい「新中世」──水野和夫『国貧論』をめぐって(2) [時事]

 いわゆるアベノミクスの登場以来、日銀は金融の「異次元緩和」を宣言し、貨幣発行額を一挙に増やした。その結果、市場が反応して、円安と株高を招来したことは周知のとおりである。
 しかし、日銀のめざした2%インフレは実現していない。
 そして、貨幣発行高が2000年に比べ4倍になったというのに、「GDPはピタリと500兆円あたりに貼り付いたまま上昇の気配はない」と、著者はいう。
 経済はどうみても飽和状態に達している。
 そんななか、実質賃金はむしろ低下し、経済格差が広がっている。
 長期的にみれば、資本主義は終焉を迎えつつある、と著者はいう。
 そのメルクマールとなるのは利子率である。日本では1995年以来、20年以上にわたって、事実上のゼロ金利政策がつづいている。
 金利がゼロということは、企業の利潤も低いということだ。
 グローバル化や金融商品の開発、電子空間の創出、労働市場の規制緩和など、さまざまな策をくりだして、資本主義は延命をはかっている。しかし、冷静にその実態をみれば、資本主義は末期状況にあるととらえるべきだ、と著者はいう。
 この先、資本主義はどのように終わっていくのだろう。
 著者は2つのシナリオを考えている。
 ハードランディングの場合。それは中国バブルが破裂するときだ。「世界の工場」としての中国が過剰生産能力をかかえていることはまちがいない。その輸出がかげり、過剰な設備投資が回収できなくなったときに、中国のバブルは崩壊する、と著者はみる。
 その影響はリーマン・ショックどころではない。そのとき中国が保有する米国債を手放したりすれば、ドル体制も崩壊する。株価は世界的に大暴落し、日本でも多くの企業が倒産し、失業者が増え、賃金も大幅な下落に見舞われる。日本の国家財政は破綻するだろう。そうなると、長期にわたる世界大恐慌がつづく。
 逆に、ソフトランディングの方途は考えられるだろうか。
 かつて資本主義と国家は、ギブ・アンド・テイクの関係にあったのに、いまでは「資本が主人で、国家が使用人のような体たらく」になっている。こうした事態を改善するには、せめてG20が連帯して巨大資本に対抗しなくてはならない、と著者はいう。
 法人税の引き下げ競争に歯止めをかけ、国際的な金融取引に税金をかけ、その税金を困難に見舞われた世界の地域に還元するようなシステムを構築しなければならない。
 いずれにせよ、その目標は徐々にポスト資本主義社会(ポスト近代社会)をつくることである。そこでは、「経済成長はしていないが、豊かな暮らしはいまここにある状態」(定常状態)が実現されるだろう。

 2001年の9・11米同時多発テロは、周辺から中心への、富の過剰なまでの「蒐集」にたいする抗議だった、と著者はいう。
 近代の秩序が揺らぎはじめている。
 いまは20世紀の「極端な時代」が終わりを告げて、「ゼロ成長社会=定常状態」をいかに構想するかが問われている。
 ゼロ成長社会では、投資は減価償却の範囲でしか発生しない。そして、消費だけが、基本的な経済循環をつくっていくことになる。
 日本の名目GDPは、1997年の524兆円をピークに2014年には485兆円まで縮小した。それでも1人あたりGDPはいまもアメリカ並みに4万6000ドルを保っている。
 問題は国レベルでの1000兆円を超える借金だ。しかも、いまでも毎年40兆円の財政赤字が発生している。
 いっぽう個人預金は増え、企業も資金余剰の状態がつづく。家計部門と企業部門の余剰は、年間40兆円発行される国債の消化に向けられている。
 国に1000兆円の借金があっても、日本には工場や店舗などの実物資産が1200兆円あり、個人の金融資産も1000兆円以上あるから、いまのところ国債は破綻を免れている。
 問題はいつまでも国債の発行を増やしつづけられないことだ。
 少なくとも基礎的財政収支(プライマリーバランス)をゼロにしなくてはならない。そのためには増税が必要であり、消費税も最終的には20%近くにまで引き上げなくてはならない。金融資産への課税や法人税の増税も考慮しないわけにはいかないだろうという。
 そして、すでにある国の借金1000兆円にたいしては、むしろ発想を転換して、日本のなかで豊かな生活サービスと安全を享受するための「出資金」と考えたほうがいいのではないかという。とはいえ、借金がこれ以上増えないようにすることがだいじである。そのためには、国民は甘んじて税金の負担を受け入れなくてはならないし、国は責任をもって、この借金を管理しなくてはならない。
 日本はある意味で、ポスト資本主義に向けて、世界の先頭を切っているともいえる。ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレは、定常状態の必要条件である。
 とはいえ、これからは名目GDPの減少を防ぎ、定常状態を維持することが重要になってくるという。
 著者はゼロ成長はネガティブだと批判する経済ジャーナリストにたいして、むしろ現在の状態はゼロ成長すらおぼつかないと指摘する。重要なのは、資本主義の成長路線から、いかに混乱なく撤退するかということなのだ。

 著者は資本主義と市場経済を区別して考えている。著者によれば資本主義とは「資本の自己増殖と利潤の極大化」をめざすものであって、「ゼロ金利・利潤率ゼロ」となっている現実から考えれば、資本主義は実際上、終わったとみるべきだという立場をとっている。しかし、資本主義は終わっても、市場経済も資本も残ると考えるのだ。
 資本主義はほうっておけば暴走する。それにたいしブレーキをかけたのが、スミスであり、マルクスであり、ケインズであった。ところが、ハイエクやフリードマンの新自由主義がもてはやされるようになって、ふたたびブレーキのきかない資本主義が動きはじめた。そのひとつの結末がリーマン・ショックであった、と著者は指摘している。
 資本主義は、現在、終わりを迎えようとしている。
 現在はじまっているのは、脱近代、すなわち新たな「中世化」ではないか、と著者はいう。
 日本の脱近代は、どのようなものとして構想されるだろうか。
 まず考えられるのが、東京一極集中の中央集権国家から脱却して、地方分権の実現に向かうことだ。そのために著者は現在の500兆円経済を5ブロックに分割して、地方の活性化をはかることを提案している。
 大学も地方大学を重視して、地方の若者が地元の国公立大学を目指すなら授業業を免除し、東京大学を目指すなら学費は倍にしたらいいと提案している。さらに企業が東京本社を引き払って、地元に戻るなら、法人税を割安にするなどの措置をとるべきだという。
 地方が中心になると、ナショナルブランドは無価値となり、リージョナルブランドが優先されるようになる。巨大総合スーパーは、近代の遺物であって、ポスト近代社会では地域特化型のスーパーが流通の中心となる。
 それまでの企業利潤は固定資本減耗分を除いて、人件費に振り替えられ、家計はその一部を金利ゼロで地方の金融機関に預ける。
 利子率ゼロの世界は配当もゼロであり、そうなると株式も債券と区別がつかなくなり、まさに東インド会社以前(つまり株式会社発生以前の)中世の世界に戻ることになる。
 だが、それはけっして貧しい社会ではないだろう。

 近代システムが行き詰まれば、中世のいいところを見習う必要があるというのが著者の考え方である。
 これからの世界経済はグローバル化に向かうのではなく、むしろブロック化の方向に進むと著者はいう。電子・金融空間によるドル支配から逃れるには、経済圏を極力閉じるほかない。それなのに、日本はいまだにドル世界基軸通貨の時代がつづくと思っている、と著者は批判する。
 これからは「よりゆっくり、より近く、より寛容に」の世界をめざさなくてはならない。利子率ゼロ(利潤率ゼロ)の世界は、むしろ資本が豊富な社会なのだ。そこでは、何も無理をしなくても、豊かさが手にはいる。
 利潤ゼロ、配当ゼロ、金利ゼロで社会は安定する。企業は固定資本減耗を確保すればよいのであって、利潤極大をめざさなくてもよい。無理やりの利潤確保は、人件費へのしわ寄せを招き、社会の荒廃を招くだけである。
「新中世」の世界は暗黒とはほど遠い、明るい世界だ。そうした世界を1世紀ほどかけて、ゆっくりつくりあげていけばよい、と著者はいう。そういう意味で、現在は「近世の秋」なのであって、そのなかで、きたるべき時代を構想していくのは、とても楽しいことだ、と著者は考えているようである。

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