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アベノミクスはムダな抵抗──水野和夫『国貧論』をめぐって(3) [時事]

 戦後経済で、大きな節目となったのは、何といっても1971年のニクソン・ショックだろう。このとき以来、世界は変動為替制に移行することになった。
 その後、日本経済は1980年代にバブル時代を迎える。
 そして、1995年からはゼロ金利となり、デフレ時代に突入する。
 著者は成長の時代、すなわち近代は1971年に終わったという立場を取っている。それ以降は、ポスト近代の時代である。
 1995年からの日本経済はゼロ金利、ゼロ成長がつづく。
 にもかかわらず2015年度の企業収益は過去最高を記録した。円安株高や人件費削減の影響が大きい。国内の売上高は伸びていない。
 これにたいし、実質賃金は97年をピークに下降している。
 大企業の利益が大きければ、底辺の人びとにもおこぼれがあるという、いわゆる「トリクル・ダウン」効果なるものはまったく実証されていない。
 ゼロ成長のなかでの分配のゆがみが、資本主義の成長神話を奇妙なかたちで存続させているのである。
 日銀はいまだに2%インフレに向けて、気合いを入れつづけている。
 著者によると、これはほとんど「おまじない」に近いという。
 こうしたおまじないや根拠のない確信が横行するのは、かつての大本営発表と同じで、資本主義が終焉を迎えつつあるのを認めない強がりである。
 しかし、何とかして資本主義を延命させようとすることが、けっきょくは事態をさらに悪化させていくことになる、と著者は考えている。
「時代の流れは政治家には変えられない」。時代のトレンドは、むしろいままでとはまったく逆なのに、時の政権は昔の傾向を復活させようとして、いわば時代に逆行する路線を取っているのだ。
 資本主義の延命策は、世界的に所得格差の拡大をもたらし、日本もその例外ではない。
 日本の家計貯蓄率はマイナスに転じ、そのいっぽうで、相続を通じての個人金融資産が増加している。それは民主主義時代以前のアンシャン・レジームへの逆戻りだ、と著者はいう。
 資本主義の終焉は、ほかにもさまざまな面で見ることができる。
 日本で人口が減少に転じたことも、そうしたあらわれのひとつだろう。
 いまでは原油価格が下落しても、景気の刺激に結びつかず、企業はその恩恵を内部留保と配当に回し、人件費をさらに削減する対策までとっている。
 原油価格の下落はBRICsなど新興国経済の停滞を意味している。そのことは世界全体の成長が終わったということを象徴している、と著者はいう。
 日本でも世界でも過剰資本があふれている。
 たとえば、日本ではチェーンストア(スーパーや量販店)の売り上げが1997年をピークとして、17年連続で下落しているという。
 そのいっぽうで、店舗面積は1997年以来、増え続け、いまでは1.5倍近くになっている。それなのに総販売額は25%近く減少しているのだ。これは店舗面積が過剰であることを示している。
 たしかにコンビニの販売額はやや持ちなおしている。それも2012年以来、1店舗当たりの売り上げは減少に転じている。それでも総売上高を伸ばすために、労働面では無理がつづく。一部既存店の不良債権化もはじまっている。
 スーパーやコンビニに、商品が所せましと並んでいるのをみても、製造業の供給力が過剰になっていることがわかる。
 現在の状況は、資本の生産性を悪化させても、設備投資をしつづけないと、企業が存続できない構造になっている。資本過剰だけが進行し、労働者はがまんを強いられる。
 そして、資本は労働者にがまんをさせながら、濡れ手に粟をつかむ時期を夢見るのである。
 過剰は膨大な「食品ロス」や「空き家」の多さをみてもわかる。
 世界の粗鋼生産量を見ても、過剰生産ぶりは想像以上である。
 資本の過剰を解消するのは容易ではない。かつては恐慌が、資本の過剰を暴力的に清算したものだ。だが、いまは国家の発動する金融・財政政策が、オブラートのように、それが爆発するのを防いでいる。それがゼロ金利、ゼロ成長をもたらしているともいえる。
 だが、そろそろ資本主義の終焉を認め、ポスト資本主義の時代を構想したほうが、ずっと前向きなのだ、と著者は提案する。アベノミクスは長い目でみれば「国貧論」なのだ。

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