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佐野眞一『唐牛伝』をめぐって(1) [本]

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 唐牛(かろうじ)健太郎(1937-84)は60年安保の伝説の闘士だった。全学連委員長として、安保条約改定に反対し、国会突入をはかったことで知られる。
 本書は唐牛の生涯を追った伝記である。さまざまな資料が駆使されるほか、関連人物の素描、かかわりのあった人へのインタビュー、ゆかりの場所への訪問もなされ、重層的にその人生の軌跡がえがかれる。
 とりわけ、その出生の秘密と、安保後の漂流が胸にしみる。世間からみれば、それは無念の人生だったかもしれない。だが、おそらくこの男にとっては、そうではなかった。かれは哀切さに身をひたしながら、人生をさわやかに、笑いとばしながら、くぐり抜けていったのだ。
 唐牛と年が10歳ほどちがうぼくは、関西のいなかに育ったこともあって、60年安保の熱気を経験しなかった。よほどのほほんとしていたのだろう。それでも67年には大学進学で東京に出てきたから、60年はともかくとして、68年以降の騒然とした雰囲気はおぼえている。
 ぼくは党派には属さなかったが、サークルにはブントに近い人たちがいて、かれらから多くの影響を受けた。68年ブントは60年ブントとはちがう。しかし、唐牛健太郎の名前はブントに継承されていた。
 本書のサブタイトルには「敗者の戦後漂流」とある。
 ぼくらもまた68年の敗者だった。
 だが、勝つことなどありえたのだろうか。そんなことは問題ではなかった。まちがっていることにノーをつきつけることだけが問われていた。
 その後の漂流。だれもがそうだった。
 ある友人は1972年で時間が止まっているという。しかし、たとえ時間が止まったとしても、人生の時は勝手に流れていく。
 だれもが漂流した。時にもがき苦しみながら。
 そして、それなりに自分のすみかを見つけた。
 だから、唐牛健太郎の人生はひとごととは思えない。

 本書に沿って、唐牛の軌跡を紹介しておきたい。
 60年安保について、著者の佐野眞一は「あとがき」で、こう書いている。

〈私は60年安保を左右イデオロギーの衝突だったとは思わない。「満州の妖怪」と呼ばれた岸信介と戦後日本をこれから担おうという若者たちの対立は、日本をこれからどういう方向にもっていくべきか真剣に考え抜いたナショナリスト同士の衝突だったとみる。〉

 ナショナリスト同士の衝突といわれれば、思わず鼻白んでしまう。
 というのも、岸信介も若者たちも、みんなナショナリスト=愛国者だったとひとくくりにされると、話があまりにもうまく収まってしまうような気がするからである。
 しかし、60年の若者も68年の若者も、はたして左翼だったかというと、それもまた大いに疑わしい。高倉健と昭和維新にあこがれてもいたからである。
 共通するのは、みんな不正義を憤っていたことである。
 不正義、あるいは不正義を黙認するやからを、やっつけることだけが目標だったのだ。
 単純きわまるその思想の地下水脈だけが、60年と68年を結びつけている(あるいはいまも)。
 党派の連中を除いて、本気で革命を叫ぶ若者などいなかった。
 唐牛健太郎は1937年2月11日に、函館市湯の川町で生まれた。
 父親は海産物商の小幡鑑三、母親は函館芸者の唐牛きよ。庶子だった。
 父親は唐牛が8歳のとき亡くなっている。母親は戦後、郵便局に勤め、ひとりで息子を育てた。
 健太郎はちいさいときから頭がよく、野球もうまかった。湯川中学校を卒業し、函館東高校に進学した。中学の同級生によると「性格がすごく明るくて、勉強もできて友達も選ばない」クラスの人気者だったという。
 ところが、高校にはいると、とつぜん不良になる。著者は、母親からみずからの出自を打ち明けられたためではないかと推測する。サルトルなども読みはじめ、文学にめざめるようになっていた。
 大学は英語ではなくフランス語で受験し、1956年に北海道大学教養部に入学する。その年の夏、北大を休学し、上京、半年ほど東京に滞在し、深川の印刷工場などで働きながら、はじめて砂川闘争に参加した。それが学生運動にのめり込むきっかけとなった。
 だが、この砂川闘争をきっかけに全学連は日共系と反日共系に分裂する。1958年12月に共産主義者同盟(ブント)が結成されると、ブントが全学連主流派を引っぱっていくことになる。
 唐牛は、深川の印刷工場が倒産したため、57年4月に北大に復学した。そのとき、かれは自治会の役員になるとともに、日本共産党に入党している。
 砂川での経験は、かれをばりばりの活動家に変えていた。そのころ、文芸部に所属していた津坂和子と恋愛関係になった。
 唐牛は1957年10月に北大教養部の自治会委員長、翌58年6月に道学連委員長となり、学生運動を引っぱっていく。長身で、石原裕次郎のようにかっこいい唐牛は注目の的だった。そして、12月にはブントの結成に参加し、中央執行委員となるのである。
 ブントの書記長は、東大医学部の島成郎。島は59年5月に札幌を訪れ、唐牛に全学連委員長就任を要請する。
 唐牛はこの要請に応じ、史上最年少の22歳で、全学連委員長になった。北大出身という経歴は異色だったという。
 全学連委員長就任の記者会見で、唐牛は「天真爛漫にデモ、ストライキを行います!」と発言し、運動に新風を吹きこんだ。
 そして60年安保闘争がはじまる。
 59年11月27日、安保改定に反対する「請願デモ」の最中、全学連は社会党などの陳情団の隙をついて、国会内に突入し、構内に赤旗を立てた。
 共産党や社会党は、これを強く非難する。
 60年1月16日、全学連は安保条約調印のため訪米する岸首相を阻止するため、羽田空港の2階ロビーを占拠した。この座り込みで、唐牛は機動隊員によって逮捕された。
 4月26日、総評を中心とする「国民会議」が、いつものように安保反対のデモをおこなった。全学連もそのデモに加わっている。
 警察の装甲車とトラックが国会前を埋め尽くしている。そのとき、唐牛はすでに決意していた。装甲車を乗り越えて、国会に突入するのだ。
 唐牛は装甲車にのぼり、一世一代のアジ演説をぶつ。それが終わった瞬間、警官隊の渦のなかにダイビングした。そのあとを学生たちがつづく。この予想もしなかった行動に、警官隊も逃げだした。
 このときの事件で、唐牛は逮捕され、11月まで収監されている。
 そのため、6月15日に、警官隊とデモ隊が衝突し、樺美智子が死亡したときには、現場に居合わせなかった。
 6月19日に、安保条約は自然承認された。
 運動は急速にしぼみ、ブントは7月に事実上、解散する。
 11月に保釈された唐牛は、どういう風の吹き回しか、翌年1月に革命的共産主義者同盟(革共同)全国委員会に加わった。のちに中核や革マルとなる組織である。
 恋人の津坂和子とは、そのころ結婚し、やがて別れる。
 しかし、革共同に加わったのは唐牛本人もいうように「人生の最大の誤り」だった。1年ばかりのちの62年5月には、革共同を脱退している。革共同のような理論型の革命組織とは、まるで肌が合わなかったのだろう。
 その前に全学連委員長も辞任している。
 北大からはすでに除籍処分を受けていた。
 そして、それから唐牛の漂流がはじまるのだ。
 本書のメインテーマは、むしろ60年安保という祭の後を、唐牛がどう生きたかにおかれている。
 それを追ってみたい。

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