SSブログ

栗田勇『芭蕉』から(1) [芭蕉]

img108.jpg
 芭蕉の俳句といえば、有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」をはじめ、だれもがすくなくともその何句かは知っているはずだ。芭蕉の句は親しみやすいし、どことなくユーモアもただよう。
 しかし、芭蕉とはどんな人物で、どんな時代に生き、何をめざしていたのか、となると、案外知らないものだ。
 先日、書店で栗田勇の『芭蕉』という大著を見かけ、思わず買ってしまった。芭蕉について、もうすこし知りたいと思ったからだ。
 上巻となっている。オビに下巻は2017年7月刊行予定と明記されているが、いまのところ刊行された様子がない。発行が遅れているのかもしれない。
 なにはともあれ、ぱらぱらとページをめくってみる。ところが、さっぱり理解できない。このぼんくら頭にはなにもはいってこないのだ。
 もともと文学、とりわけ詩や俳句にはうとかった。そこにいきなり最上級のテキストを読んでも、芭蕉の深さ、広がりが理解できるわけがないと思ったが、すでに後の祭り。
 それで、もう投げだそうと思わぬわけでもなかったのだが、しろうとなりに芭蕉のことがすこしでもわかれば、それでよしとしなければならないと思いなおした。
 ぼちぼち感想をつづることにした。
 例によって、気の向くままの暇人の読書である。浅薄な理解にとどまることはいうを俟たない。最初から半分投げだしているから、いったい先がどうなることやらまったく自信はないけれど、まあのんびり1年くらいかけて、この大作を斜め読みできれば、もっけの幸いというべきだろう。
 著者は最初に「松尾芭蕉は日本の歴史の中でも、とくに不可思議な謎をまとった詩人である」と書いている。
 いったい、どういう人物なのだろう。
 著者はいう。

〈宿命的に自らを、運命にえらばれた道者として自覚し、その漂泊の人生を磨き、そして予見したように、旅のうちに言語を見つめ、数多くの俳諧作品、旅行記、散文を残して去っていった。〉

 そういう人だったらしい。
 でも、そうくくっただけでは、芭蕉のなにごともみえてこない。かれがいったいなにをめざしていたのかもわからない。
 芭蕉が生まれたのは、1644(寛永21)年。つまり、ぼくが生まれた300年ほど前だ。場所は忍者の里として知られる伊賀。正確には伊賀上野(現在の三重県伊賀市)である。
 伊賀には乱世の悲しい歴史がある。
 1579(天正7)年、織田信長の次男、信雄(のぶかつ)は伊賀に攻め入ったものの伊賀衆に阻まれる。そこで2年後の1581(天正9)年、今度は憤激した信長が大軍を擁して伊賀に侵攻し、神社仏閣を破壊しつくし、伊賀の地侍を徹底的に殲滅するのだ。
 芭蕉の松尾氏も、伊賀侍の一族だった。つまり芭蕉は殲滅された伊賀侍の末裔ということになる。
 時は下って、江戸時代にはいると、芭蕉が生まれたころ、伊賀上野は藤堂家により治められていた。
 藤堂家を大名にまでのし上げたのは戦国の猛将、藤堂高虎(1556-1630)である。豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いで家康側についたあと、その功績を認められ、伊予今治領主、ついで伊賀と伊勢の領主となった。
 築城の名人だったと伝えられる。だが、伊賀上野の天守閣は完成直前に暴風雨のため倒壊し、一国一城令の出された江戸時代に再建されることはなかった。
 芭蕉の生まれたころ、伊勢と伊賀を含む津藩を治めていたのは、2代藩主の藤堂高次(1602-76、在位1630-69)だった。
 ちなみに、当時、伊賀上野の城代をつとめていたのは、藤堂元則(もとのり、1582-1660、通称采女)。藤堂高虎の弟、高清(たかきよ)の跡をついで、城代となった。
 藤堂元則の実父は服部半蔵則直だが、有名な服部半蔵正成とは別人。とはいえ服部一族にはちがいない。則直は大阪冬の陣で軍功があり、徳川家康の命で、藤堂の名を与えられた。
 話がややこしくなった。
 芭蕉の父、与左衛門(よざえもん)は、下級武士の無足人(むそくにん)だったという。無足人には知行が与えられない。つまり武士の身分とはいえ、無給に近い郷士である。
 芭蕉の経歴には判然としない部分が多いものの、先に述べたように1644(寛永21)年に、伊賀上野・赤坂町に松尾与左衛門の次男として生まれたという説が有力である。
 父自身も嫡男ではなかったため、分家して、農家をいとなんでいた。
 農家といっても、大きな農耕をおこなっていたわけではない。武家奉公もしていたと思われる。
 無足人として、鉄砲隊に属していたとの説もある。その主な役割はなよ竹のでる竹藪の管理である。昔は、油分のあるなよ竹をはいで、よじり、火縄をつくった。
 芭蕉の兄は半左衛門と呼ばれ、農家をいとなみながら、武家奉公をしていた。
 芭蕉(幼名は金作)もまた13、4歳ころから、侍大将、藤堂新七郎の子小姓をするようになったと伝えられる。
 台所用人から料理人になったという説もあるが、たしかなことはわからない。いずれにせよ、藤堂新七郎家で子小姓として雑用係をしているうちに、その嫡男、良忠(よしただ)と相知るところとなった。
 藤堂新七郎家は、名前からもわかるように、藤堂家の係累で、代々、新七郎を名乗った。芭蕉(金作)が子小姓を勤めたころは2代目の新七郎良精(よしきよ)が当主。初代は、初代藩主、藤堂高虎のいとこにあたる。
 嫡男の藤堂新七郎良忠(1642-66)は、芭蕉より2歳年上。芭蕉は何人もの子小姓のうちから選ばれ、良忠のいわばお付きとなった。
 江戸時代もこのころになると武芸よりも文芸、つまり和漢詩歌が尊ばれるようになっていた。
 良忠には宗正(そうせい)という通称があった。
 芭蕉は藤堂家の子小姓となって4、5年たってから中小姓となり、宗房の名前を与えられる。
 そのころから、宗正、宗房による俳諧の本格的な活動がはじまる。良忠(宗正)は蟬吟(せんぎん)の俳名をもつようになった。
 昔の人の名前はややこしい。頭がこんがらがってきそうだ。
 きょうは、このあたりでやめておこう。
 いずれにせよ、芭蕉が本格的に俳諧に取り組むのは、10代後半になり、藤堂新七郎家の嫡男、良忠に仕えてからだということがわかった。
 だが、それはあくまでも外面的な履歴にすぎない。

nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0