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ふるさと伊賀へ──栗田勇『芭蕉』から(11) [芭蕉]

 10月にはいって栗田勇の『芭蕉』下巻が発売された。書店でみると厚さが上巻の3分の2ほどしかない。目次を眺めると、上巻で予告されていた「第6部 枯野の旅──旅に病んで」が欠落し、おくのほそ道の最終到達地である大垣で、筆が止まっている。栗田氏は88歳のご高齢である。「枯野の旅」はもはや執筆がかなわぬのであろうか。なんともいえぬ思いをいだく。それでも芭蕉最後の旅が完結することを祈らないわけにはいかない。
 それはともかく、当方もまた年寄りの読書である。その歩みはじつにゆっくりとしていて、しかも断続的。この先、どこまで読み進めるかもわからないが、本を読むのは、老後に残された楽しみのひとつにはちがいない。
 貞享元年(1684)8月、41歳の芭蕉は深川芭蕉庵から、いわゆる『野ざらし紀行』の旅に出立した。東海道をへて、伊勢を参拝したところまでは、前に記した。今回は栗田勇著『芭蕉』をさらに読みながら、その後の芭蕉の足どりをたどってみよう。
 芭蕉は8月末に伊勢を立ち、9月8日にふるさとの伊賀上野に戻った。
 うまくコピーできないのだが、自筆の画巻(えまき)には、伊勢の社と五十鈴川に架かる橋がえがかれ、そのあと、ふるさとに戻ってきたときの様子がつづられている。

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[『甲子吟行(別名、野ざらし紀行)画巻』より]

 前年6月20日に母が亡くなったのに、江戸で大火に遭った直後で、帰郷することができなかった。それが、ようやく一段落したため、芭蕉は母の菩提をとむらう旅に出たのである。
『野ざらし紀行』には、こう書かれている。例によって、現代語にしておこう。

〈9月のはじめ[現在の暦では10月半ば]、ふるさとに戻った。母はすでになく、いまはその面影に接することもできない。何もかも変わってしまった。兄や姉の鬢(びん)も真っ白になり、眉のあたりも皺だらけで、たがいに「何とか生きているよ」と言うばかり。兄が守り袋を開いて、いう。「母の白髪を拝めよ、浦島の子の玉手箱ではないけれど、おまえの眉も少し白くなったな」。それを見ていると、しばし涙がとまらくなった。

  手に取らば消えん涙ぞ熱き秋の霜〉

 母の遺髪を手にすれば、いまにも飛んでいってしまいそうだ。それを見ていると、熱い涙があふれてくる。外は霜のおりる季節だというのに……。
 芭蕉はそう歌い、慟哭した。
 ふるさとには長く滞在しなかった。あまりにつらかったのかもしれない。
 大和に向かった。

〈大和の国に行脚した。葛下(かつげ)の郡(こおり)、竹ノ内というところに行く。ここは同行した千里(ちり)の里なので、何日か逗留して、足を休めた。

  綿弓(わたゆみ)や琵琶に慰む竹の奥〉
 竹ノ内は葛下郡当麻(たいま)村にほど近い村落。
 葛下郡は葛城下(かつらぎしも)の略称だという。
 現在の葛城市の一部。竹ノ内は二上山(ふたがみやま、にじょうさん)の麓にある。作家、司馬遼太郎の母方の里でもある。

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[二上山。市のホームページから]

 伊賀上野から竹ノ内に行くには、奈良を通らず、初瀬(現桜井市)経由の街道を行く。初瀬には長谷寺があるが、今回、芭蕉は旅を急いだようである。長谷寺はまたあらためて訪れる機会があるだろう。
 栗田勇は、日本人の魂のルーツともいうべき、この大和葛城の地について、こう書いている。

〈いま、芭蕉の俳人としてのルーツをたずねて、旅をたどっていると、あの葛城山から二上山の風景が、胸中にありありと甦ってくるのを抑えることができない。そして芭蕉もまた、大和の国というとき、葛城山から二上山への風景に、日本の最初の山間に遊行する修験者役小角(えんのおづぬ)の原像をも感じとっていたと想わずにはいられないのである。〉

 司馬遼太郎は河内と大和竹内(たけのうち)村を結ぶ竹内街道を「古代ミワ(三輪)王朝や崇神王朝、さらにはくだって奈良朝の文化をうるおした古代のシルク・ロードともいうべき道だ」と呼んでいる。
 古代日本文化の中心は、葛城山、二上山のふもとに広がっていた。そこが、もともとの大和の地である。
 大和高田から竹内峠にいたる道は、いますっかり鄙びているらしい。かえって芭蕉が歩いたころのおもかげを残しているかもしれない。
 ところで、芭蕉の詠んだ句「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」についてである。
 綿弓とは、実を取りだした綿を弦で柔らかくする道具。綿打弓ともいう。
 その綿打弓をはじく音がまるで琵琶のように聞こえてくる。その弓をはじいているのは、隠士のような村長(むらおさ)だ。
 旅人の無聊を慰めてくれる琵琶のような綿弓の音が、竹林の奥に住む村長の住まいから聞こえてくる、と芭蕉は歌った。
 竹ノ内村に滞在中、芭蕉は当麻寺(たいまじ)を訪れている。

〈二上山当麻寺に詣でて、庭の松を見た。千年を経たのではないかと思われる巨木で、その大きさは牛をも隠すほどだ。木は情をもたない。それでも、それが伐られなかったのは、仏縁によってであろう。幸いにして尊いことである。

  僧 朝顔 幾死(いくし)に返る法(のり)の松〉

 当麻寺は、役小角ゆかりの古寺として知られる。
 寺には中将姫が蓮の糸で織ったと伝えられる当麻曼荼羅図も残されている。
 芭蕉は千古の松をたたえることで、とだえることのない寺の法灯に思いを寄せた。そして、僧も朝顔も生死のうちに次々と入れ替わるものの、寺は法を護持しながら、この松のようにいつまでもつづくと歌ったのである。
 栗田はこう記している。

〈この句では、一日にして終わる朝顔や、またはかない命の僧侶たちが、いくたび死しても、この松ばかりは千歳の永遠の命を表わしていることを詠じている。ここからは、深い歴史的時間、永劫回帰の時間の流れを通して、大和の国の風景、そして古代の歌人たちの詩歌が偲ばれているのである。〉

 芭蕉にとって、旅とは単なる空間の移動ではなく、時の遡上をも意味していた。次の行き先は西行ゆかりの地、吉野である。

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