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美濃から尾張へ──栗田勇『芭蕉』から(13) [芭蕉]

 ときどき思いだしたように、栗田勇の『芭蕉』を読んでいる。
 貞享元年(1684)、芭蕉の野ざらしの旅は、吉野をでたあと、大和、山城をへて、近江路を通り、美濃にはいった。江戸深川を8月に出発し、美濃の大垣に着いたときは9月下旬になっている。
 例によって、芭蕉の記述をやぼな現代語訳で示しておく。

〈大和から山城をへて、近江路にはいり、美濃にいたる。今須・山中をすぎると、いにしえの常磐(ときわ)の塚がある。伊勢の守武(荒木田守武)が詠んだ「義朝(よしとも)殿に似たる秋風」とどうしても似てしまうが、自分もまた一句。

  義朝の心に似たり秋の風

    不破
  秋風や藪も畠も不破の関

 大垣では、木因(ぼくいん)の家に泊まらせてもらった。武蔵野をでたときは、野ざらしになるのを覚悟していたので、

  死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮〉

 常磐は、平家と戦って敗れた源義朝(1123-60)の愛妾で、義経(牛若)の母。牛若が京の鞍馬山から出奔したという知らせを聞いて、あとを追うが、山中(やまなか)の宿で、賊に殺されたという伝説が残っている。だが、これは事実ではないらしい。
 山中では、近世、大きな戦いがくり広げられた。すなわち関ヶ原の合戦である。だが、芭蕉はそのことに触れない。思いはひたすら物語にえがかれる中世、常盤の悲劇へと向かう。
 芭蕉は伊勢の内宮に仕えた連歌師、荒木田守武(1473-1549)が、「月みてやときはの里へかかるらん」に「義朝殿に似たる秋風」と付けたのを知っている。
 常盤は臨月で里へ帰っているというのに、義朝殿は薄情にもちっとも姿を見せないという戯(ざ)れ歌である。
 芭蕉はそれをひっくり返して、義朝が常盤のことを思ってやまないと転じ、それを常盤の塚へのたむけとした。
 古代の不破の関は関ヶ原に置かれていた。そもそも関ヶ原という地名は、不破の関があったことに由来するのだろう。その関もいまはすっかりなくなって、藪や畠となり、秋風が吹くばかり、と芭蕉はうたう。
 芭蕉が宿を借りたあるじ、谷木因(1646-1725)は大垣の船問屋で、大垣では名の知られた俳人だった。北村季吟に俳諧を学び、井原西鶴とも交流があったという。芭蕉とは以前からの知り合いだった。
 その木因の家で、芭蕉は「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」の名句を詠む。まだ生きてるよ、とやや自嘲気味なところに滑稽さがただよう。
 のちに木因とは句風のちがいから疎遠になるものの、このころはまだ親しい関係が保たれていた。
 俳諧は座の文化、かけあいの芸術でもある。芭蕉はひと月ほど大垣に滞在し、座をおこし、歌仙を巻いている。
 それから、興にまかせ、木因とともに、句商人(あきんど)、すなわち俳諧師のやつがれ姿をして行脚の旅に出た。
「野ざらし」の旅はつづく。11月上旬(いまの暦では12月中旬)、季節は冬に移っている。また現代語訳で。

〈桑名本当寺で一句。

  冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす

 旅の枕に寝あきて、まだほの暗いうちに、浜のほうに出たとき、

  曙(あけぼの)や白魚(しらうお)白きこと一寸(いっすん)〉

 本当寺は本統寺のこと。芭蕉は多度山権現を訪れたあと、この寺に数日滞在した。牡丹の句は、この寺で開かれた夜会の席で詠まれた。
 寒牡丹といえば冬の千鳥を思い起こす。それは雪のほととぎすと同じで、清冽な趣がある。栽培されて、みごと大ぶりの白い花をつけた冬の牡丹から千鳥へと連想を広げ、ほととぎすの哀切な声を引きだした一句だ。
 そして、次の日の朝、浜辺にでたとき、次の一句が頭に浮かんでくる。
 曙や白魚白きこと一寸。
 水平線があかく染まって、生まれたての太陽が顔をのぞかせる。このとき、芭蕉が思いえがくのは、白魚の何ともいえない白さだ。大きなあかい太陽と、ちいさな白魚の白さの対比。生きていることの実感が伝わってくる。

 芭蕉は木因と別れ、桑名から船で熱田に向かった。
 桑名では林桐葉(はやし・とうよう、?-1712)宅に逗留。俳席をもつかたわら、熱田神宮に詣でた。

〈熱田神宮に詣でる。社殿はじつに荒れ果て、築地塀も倒れて、草むらに隠れている。あちこち縄をはって、ちいさな社の跡を示し、そこに石を据えて、それぞれ神を名乗っているありさまだ。
 ヨモギ、シノブも手入れされないまま生えている。めでたいというより、胸をつかれる。

  忍(しのぶ)さへ枯れて餅買ふやどりかな〉

 このころの熱田神宮はよほど荒廃していたらしい。栗田勇によると、大鳥居も倒れていたという。熱田神宮は草薙剣(くさなぎのつるぎ)をご神体とする。「筑波の道(連歌)の祖とされる日本武尊(やまとたけるのみこと)のゆかりから、とくに連歌・俳諧者たちの信仰も深かった」ようだ。

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[現在の熱田神宮社殿。ウィキペディアより]

 芭蕉は、霜枯れでシノブさえ枯れ果て、昔をしのぶよすがさえないなか、門前の茶店で餅を買って休むおのれの姿をうたう。そこにゆったりと古代からの時が流れている。
 このあと、芭蕉は名古屋にはいり、尾張連衆と交わり、『冬の日』五歌仙を興行する、とある。「いわゆる蕉風確立の契機ともなった重要な歌仙」だ。『芭蕉七部集』にも収められているとか。
『野ざらし紀行』では、名古屋にはいる道中に浮かんだ句が無造作に並べられている。

〈名古屋にはいる道すがらの風吟(尾張旅泊)。

  狂句木枯(こがらし)の身は竹斎に似たるかな

  草枕犬もしぐるるか夜の声

   雪見に歩きながら
  市人(いちびと)よこの笠売らう雪の傘
 
   旅人をみる
  馬をさへながむる雪の朝(あした)かな

   海辺で一日すごして
  海暮れて鴨の声ほのかに白し〉

 竹斎とは仮名草子にでてくる狂歌好きの医者の名前。狂歌に熱心なばかり患者もつかなくなり、東に下る途中、名古屋に立ち寄った。そのときの風体は、笠はほころび、コートもぼろぼろ、羽織もすすけているといったありさま。芭蕉は物語にえがかれている竹斎に自らをなぞらえた。
 そして旅寝の枕に聞こえてくるのは、犬の遠吠え。しぐれのわびしさが夜の闇の深さをいや増す。
 雪が降ったのだろう。次の句は雪のなかを歩くと、雪のつもった笠がなかなか風流なので、どなたかこれを買ってくださらんかとおどける。
 雪の朝は幻想的な世界が広がる。馬に乗る旅人も、まるで中国古代の詩人のようにみえてくる。
 そして、海辺での絶唱が生まれる。
 海暮れて鴨の声ほのかに白し。
 桑名で詠んだ「曙や白魚白きこと一寸」に対応する。
 夕暮れた海にカモの声がほんのり白く聞こえてくる。カモの姿はもう見えない。ただ、その声がほんのり白く聞こえてくるのだ。白くとしかいいようがない。それは自分をも白く透明にしていく。宇宙の閑寂に包まれるようだ。
 芭蕉はそううたった。
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