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『遅刻してくれて、ありがとう』を読む(5) [本]

 われわれは嵐のような時代のなかに跳びこみ、そこからエネルギーを吸って、「自分のハリケーンの目を築かなければならない」と著者は書いている。
 だが、ハリケーンの目を築くことができるのは、信頼できるコミュニティがあってこそだ。コミュニティに守られていると感じることで、人は安心して創造的な仕事に取り組めるし、何度失敗してもまた試せばいいという解放感にひたれる。
 著者はアメリカを支えているのは、都市、町、コミュニティからのボトムアップの活力だという。健全なコミュニティとパブリック・スペース、地元産業や商業があってこそ、地方は活性化する。
 著者が育ったのはミネソタ州ミネアポリス郊外のセントルイスパークというちいさな市だ。そこは平凡ながらもアメリカン・ドリームにあふれる町だったという。
 この町は多くの人を輩出してきた。映画監督、政治学者、作家、音楽家、スポーツ選手。哲学者のマイケル・サンデルも近くの町で生まれている。そして元副大統領のウォルター・モンデールもセントルイスパークの出身だ。
 著者はユダヤ人だが、排他的ではないミネソタの町で育ったことを感謝している。
 ユダヤ人がなぜミネソタ州のセントルイスパークというちいさな町に集まってきたのか。ユダヤ人が最初に定住したのはミネアポリスの北部で、1880年代から1900年代初頭にかけてだという。著者の祖父の代は廃品回収業や写真屋をやっていた。父はボールベアリングの販売会社を経営していた。
 ロシアや東欧からやってきたユダヤ人がミネアポリスに定住したのは、ここが差別されずに家を借りられる数少ない場所のひとつだったからだという。黒人が多かったのもそのためだ。
 しかし、白人のあいだでは反ユダヤ主義が濃厚で、ユダヤ人はロータリークラブや医療施設、ゴルフクラブからもしめだされ、百貨店に就職することもできなかった。そのため、第2次世界大戦後に郊外のセントルイスパークに移動したのだという。そこには売れ残った住宅地があった。この町が異色の自由な文化を育てた。
 ユダヤ人は商売によって富を築いた。公職や専門的職業から締めだされていたからだ。信仰を核としたコミュニティは親密だった。ともにヨーロッパのホロコーストから逃れてきたことが、結束の土台になっていた。
 白人の施設からしめだされていたユダヤ人は、自分たちの病院やゴルフ場、ボウリング場をつくった。高校ではユダヤ人とからかわれ、けっこういじめを受けたという。その著者にとって聖なる場所は、シナゴーグでもヘブライ学校でもなく、母が帳簿係をしている町の食堂「リンカーン・デル」だった。ここはみんなが集まる場所、友情の場所、肉体と魂の両方を満たしてくれる親密な場所だった。
 著者が19歳のとき、父がなくなった。大学の学費が払えなくなると、伯父や叔母が援助してくれた。
 セントルイスパークは多元的共存を確立するための実験場だった、と著者はいう。この町で、白人とユダヤ人とアフリカ系アメリカ人などが多元的に共存できるようになるまでには、経験と交流を積み重ねる長い道のりが必要だった。
 セントルイスパーク公立学校の質は高かった。著者はここでジャーナリズムの基本を学ぶ。この時代は教育省の補助金を高校教師が利用して、自由に新カリキュラムをつくりだすこともできたという。そのため「世界の宗教」や「世界の女性」というカリキュラムもあって、その授業は熱気にあふれていたという。
 セントルイスパークにゲーデッドコミュニティ(立ち入り禁止地域)はない。公営バスが走っていて、週末にはバスでミネアポリスに行くのが楽しみだったという。セントルイスパーク高校は冒険的で創造的でオープンだった。教師の質は高く、だれもが学習に真剣で、生徒は自由に才能を伸ばすことができた。
 冬になると道路が凍結するため、住民は団結して事故がおこらないよう協力していた。野原や公園でよく遊んだという。
 当時のミドルクラスの生活はいまよりずっとのびのびしていたという。スタジオでプロ野球の試合をみるのも安かった。全米オープンのゴルフ・トーナメントがあると、地元の高校生がキャディをする慣例があった。いまでは、キャディはみんなプロになっている。あのころはカネで買えないものがある時代だった。
 しかし、そういうのびのびした時代があったのは、経済全体が向上し、公共政策がうまく機能していたからだ。「排他的ではない政治が行われるためには、パイの拡大が欠かせない」。1950年代から70年代初頭にかけては、国民すべてが誇りとチャンスに酔いしれていた最高の時代だった、と著者は認める。その時代には繁栄が共有され、高い平等がもたらされた。
 だれでも成功のチャンスがある追い風の時代だった。当時は経済的な安心感とコミュニティに定着しているという心理的な感覚があった。だから、好きなことを学ぶことができた。いまのようにITを会得しなければ食べていけないというような切迫感はなかった。企業も気楽に営業利益の5%を民間のボランティア活動に寄付していた。著者は20歳のころからミネソタを離れる。だが、その後、どこにいてもミネソタを忘れたことはないという。
 しかし、ミネソタがマイノリティに排他的でなくなったのは、第2次世界大戦後にすぎない。それには経済の改善も大きかったが、政治家の役割も欠かせなかった。当時の政治家は反ユダヤ主義や黒人差別を根絶するために闘っていた。ヒューバート・ハンフリーは、いまは絶滅したリベラル派共和党員の典型だった。
 政治の潮目が変わったのはレーガンが大統領になったころで、そのころから政党どうしの非難合戦がはじまった。
 1970年代半ばまでは黄金時代だった。みんなが物事はよくなりつづけるだろうと期待していた。コミュニティが機能し、賃金が上がり、子育てが楽になることを、だれもが期待していた。いまは政治が麻痺してしまっている。
 著者と同郷で友人でもあるマイケル・サンデルの政治哲学には、かつてのよき時代のミネソタの理想主義が反映されているという。それは市民中心の伝統だ。
 コミュニティでは公立学校が充実し、公園や娯楽施設がいっぱいあり、あらゆる人が好きなように楽しむことができた。経済格差は少なく、社会はいまよりもずっと民主的だったという。いまではあらゆる面で、富裕層と一般の人とのあいだに差がつけられてしまっている。
 政治の場においても、いまでは社会正義やフェアプレイ、市民権を守るという感覚が失われてしまった。
 健全な社会の構成単位がコミュニティであることはいうまでもない。そうしたコミュニティをつくることは、現在はるかにむずかしくなっている。だが、それはほんとうに不可能だろうか、と著者は問うている。
 ミネソタのセントルイスパークに帰ると、著者はいつもここが故郷だと感じる。そして、不思議なことにソマリアからやってきた移民もここが故郷だという。
 それはなんなのか。その理由として、著者は有能な指導者が多いこと、官民協力が根づいていること、企業がコミュニティに貢献していること、市民のあいだで信頼が維持されていることなどを挙げる。とはいえ、差別がないわけではない。白人と黒人、ヒスパニック系やアジア系移民、ネイティブ・アメリカンとの壁はいまも厚い。ラオスのモン族も多い。いまではイスラム教徒のほうがユダヤ教徒よりも多くなっている。
 アメリカはマイノリティ・マジョリティの国になりつつある。多くの人が不安と希望をいだいている。だが、著者は楽観的だ。
 行政の意欲的な取り組み──たとえば市全体にWi-Fi網を設ける試み──が失敗した場合でも、健全なコミュニティはそれを単純に非難せず、次を見守ってくれる。市民の信頼があるからだ。市と地区評議会とのあいだの話しあいがつねにおこなわれている。マイノリティへの差別を解消する方策もとられている。
 地域での政治参加にこそ、アメリカン・デモクラシーの真骨頂がある、と著者はいう。それこそが、市民意識に必要な「心の習慣」をつくっているのだ。
 セントルイスパーク市は公立学校のために多くの予算をつぎこんでいる。そのために財産税の増税も辞さなかった。教育に力をいれ、多くの人種を受け入れたことが、地域の活性化と多様化に寄与している。この市はどんな波も受け入れ、差別をなくすことに取り組んできた。そこからは異彩を放つ子供たちが輩出している。多様化が進んだにもかかわらず、教育を支援するエネルギーは衰えていない、と著者はいう。
 教育予算を減らす方策はとられていない。そのため学校の指導者は、ゆとりのある活動をおこなえる。コミュニティが学校の後ろ盾になっている。生徒どうしの話し合いもひんぱんにおこなわれる。子どもたちは学校に来ても疎外感を味わうことがない。ソマリア人の子供たちも自由に話ができる。
 マイノリティ・マジョリティの国になろうとしているアメリカで、ともに暮らして繁栄していくには、出会いを積み重ねるほかない、と著者はいう。それには相手に積極的に信頼を示すことが必要だ。
 セントルイスパークでは、イスラム教徒のソマリア人にたいする差別もない。ハラールの食料を見つけることもできる。
 チルドレン・ファーストという団体も立ち上げられていた。これは若者を支援するための組織だが、実際は大人の行動を変えることをめざしている。無料小児科クリニックをつくったり、自宅の私道にバスケットボールのゴールを設置したりすることも支援している。
 セントルイスパークには多くのアフリカ人移民が流入し、貧困層が増えているが、貧しい子どもたちを支援する活動も活発におこなわれている。こうした活動が新しい住民と古い住民とのあいだの信頼を築くのだ、と著者は信じている。
 社会のイノベーションはすべて地方レベルからはじまる、と著者はいう。公立学校の補講をおこなう教師を提供するための基金も設けられている。文化と宗教のちがいがあるさまざまな住民を一夜にして統合することはできない。しかし、その溝を埋める努力はつづけられている。
 差別のない社会をつくるには、経済のパイを大きくすることもだいじだ。地元経済の成長をうながすプロジェクトもこころみられている。インフラを整備し、マイノリティを受け入れ、教育を支援し、経済格差の解消に取り組む。それを地元の経済界が主導し、そのための市民の会をつくっている。
 アフリカ系アメリカ人のコミュニティも当事者意識をもつようになった。差別や偏見をなくすためのNPOが活発な活動をくり広げ、非白人を雇用する習慣も根づいてきた。
 だいじなのは文化や習慣を押しとおすことではない。コミュニティのルール、法の支配を守りながら、ともにコミュニティを発展させることだ。
 悪戦苦闘はつづいている。しかし、著者は市民の良識を信じるという。「その良識がひろがって、締め出されたり取り残されたりしている人々を受け入れ、その受け入れが報われることに賭ける」
 そのためには人が集まり話し合うダイニングテーブルの場を広げ、コミュニティを前進させるための努力をつづけなければならない、と著者は書いている。

 アメリカの政治は年を追うごとに中東に似てきたという印象を著者はいだいている。「民主党と共和党は、まるでスンニ派とシーア派、パレスチナとイスラエルのように、お互いを敵視している」。それはおぞましいことだし、国力を衰えさせる原因にもなっている。数多くの領域でイノベーションを加速させなければならないのに、それができないのは、信頼関係が欠けているためだ。
 イノベーションをとりいれながら、政治的安定を確保するには並々ならぬリーダーシップを必要とする。「世界が高速なとき、針路からそれたら、もとに戻るには、長い距離を行かなければならない」。ナビゲーションのミスは重大な結果を招きかねない。
 現在のアメリカ最大の病患は、がんでも心臓疾患でもなく、孤立だと著者はいう。人間どうしの結びつきがどんどんなくなっていることが問題なのだ。
 機械やロボットが労働者の仕事を奪ってしまうという見方に著者は否定的だ。「人間は知的な機械の力を借りて、もっと弾力的に、生産的に、裕福になる方法を見いだすにちがいない」と考えている。
 だが、そのためには手をこまねいているだけではだめだ。コミュニティを発展させ、政治や経済、文化のあり方を見直していかなければならない。
 過渡期はほんとうにやっかいだという。移行はけっして容易ではない。

〈だが、その移行期を乗り切るのに必要なソーシャル・テクノロジーを開発し、経済を開放的にして、万民の学習能力を向上させつづけるような、最低レベルの政治協力が実現すれば、従来よりもずっと多くの人々がよりよい暮らしを手に入れられるようになり、21世紀の第2四半期は、すばらしい時代になるだろう。〉

 これが本書の結論といえるだろう。

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krause

興味深い内容です。さっそく注文しました。
by krause (2018-05-14 10:36) 

高橋良平

要約ありがとうございます。大変勉強になりました。ディビットクレーバーのΓ負債論」の要約も大変勉強になりました。感謝します。
by 高橋良平 (2018-05-19 23:27) 

だいだらぼっち

何かの参考になれば幸いです。
by だいだらぼっち (2018-05-20 07:16) 

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