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ラッセル・カーク『保守主義の精神』(短評) [本]

 著者のラッセル・カーク(1918〜94)は、現代アメリカを代表する保守思想家だという。原著は1953年に初版が発行され、その後、改訂を重ねて、1986年に第7版が発売された。本書はその第7版をもとにした待望の邦訳である。
 著者によると、保守主義は次のような考えから成り立っている。(1)個人の良心を信頼する。(2)自然につくられる社会秩序を重んじる。(3)人間存在の多様性を尊重する。(4)人生は生きるに値するものだという感覚をたいせつにする。(5)文明社会には身分秩序が必要だと認識する。(6)人の自由と財産は侵してはならない。(7)深慮にもとづかない変革を拒否する。
 これはイデオロギーというより、父母の教えのようなものである。こうした生活態度は、共同体の伝統と慣習を守るという方向につながっていく。
近代保守主義の精神は一朝一夕に形成されたものではない。18世紀末のフランス革命から、20世紀のロシア革命以降にいたるまで、さまざまの革命思想や社会改革思想に対抗するかたちで、長期にわたって練りあげられてきた、と著者はいう。
 本書で取りあげられるのは、エドマンド・バークからT・S・エリオットにいたる30人ほどの英米の保守思想家である。有名な政治家や作家、宗教指導者もいれば、ほとんど名前を知られていない哲学者や評論家もいる。その考えは、けっして一様ではない。しかし、だれもがその時代の流行思想や社会風潮に抵抗して、守るべき共同体の姿を示そうとしていた。
 保守主義といえばエスタブリッシュメントを連想し、時の権勢家や頑迷な守旧派の顔を思い浮かべるかもしれない。しかし、著者のいう保守主義とは、時代を無理やり変革しようとする力に対抗し、共同体の秩序を保持しようとする立場をさしている。その論敵となったのは、平等主義や功利主義、急進主義、リベラリズム、社会主義、民主主義、産業主義、大衆主義などのイデオロギーである。言い換えれば、保守主義にとっては、近代主義こそが闘うべき相手だったといってよい。
 著者は近代保守主義の源流をエドマンド・バーク(1729〜97)に求めている。バークは『フランス革命の省察』で、フランス革命を痛烈に批判した。道徳的秩序、慣習による定め、慎重な改革がバークの信条である。権力は恣意的に行使されてはならないと考えていた。
 バークは公正な法と自由を擁護した。自由はけっして放縦ではなく、常識の定めに従うものであり、古来の権利とみなされていた。人権を認めていたが、人権を強く主張することはなかった。平等主義こそ絶対だという思いこみには反論を加えた。
 あくことを知らぬ人間の欲望や意志に、どこかで歯止めをかけなければならない。そうしなければ、人間は原始状態に回帰してしまう。理性だけではじゅうぶんではない。古い常識と道徳があってこそ、人間社会の健全さが保たれるというのが、バークの基本的な姿勢である。
「バークは、党派的な狂信性に追随し悪意に満ちた知的教義に熱狂的に従って選出された『エリート』が、革新的な観念を振りまわすのに反対していた」と著者は書いている。
 注目すべきは、権力の恣意的な行使をいかに抑制するかという視点が、保守主義の考え方に含まれていることだろう。そうした考え方は、著者がアメリカ保守主義の源流ととらえるジョン・アダムズ(1735〜1826)にも脈々と受け継がれていた。
 ワシントンとジェファソンのあいだにはさまれて、日本ではあまり知られていないが、アダムズはアメリカの第2代大統領である。かれはこんなふうに考える。人間はほんらい不完全な存在で、弱く愚かであり、さまざまな欲望や衝動にかられており、社会で共存し互いに互いを抑制することを学ばなければ、みずからを保つことができない。人間の欲望や偏見、自己中心主義は、理性や博愛精神などで抑制することはできない。もし規律や礼節、秩序が失われれば、人はたちまち独善と狂気へと向かい、あげくのはてに独裁者の登場を熱望するようになる。
 アダムズも自由や人格の多様性を認めないわけではない。しかし、それは権力均衡にもとづく統治機構があってこそ、はじめて保証されると考える。独裁政権のもとでは、法はあってなきがごときものとなってしまう。そして、法がなければ自由はない。
 権力の分立と均衡こそがアダムズの政治思想の根幹をなしていた。立法府と行政府の独走や専制を抑制する装置として憲法が存在する。アダムズは民主制が独裁制に移行することに警戒感をいだいていた。それでも権力均衡が制度的に保証されれば、純粋な民主制が自滅し、独裁制に移行することはないと確信していたのである。
 以上の紹介は、ほんのとば口にすぎない。ここで取りあげられている保守思想家の考え方は、それぞれユニークで味わい深い。だが、それらをすべて紹介するわけにもいかない。詳しくはぜひ本書を通読していただきたい。ほんらいの保守主義が、独裁制を防ぐために、いかに共同体の伝統と慣習を重んじる立場を貫いたかが伝わってくるはずである。
『アメリカの民主政治』を著したアレクシス・ド・トクヴィル(1805〜59)も、単純にアメリカ民主主義を賞賛していたわけではない。みずからが信頼する民主主義が怪物に変貌する危険性を熟知していた。民主主義を怪物にするのは、凡庸な人びとの限りない平等化への欲求である。その結果、かつてみたことがない専制が生まれ、人間の自由や個性が奪われ、古代の奴隷制以上に不快な隷属状態がもたらされる危険性があることをトクヴィルは認識していた。
 イギリスの保守主義者は「最大多数の最大幸福」を唱えるジェレミー・ベンサムの功利主義が、平等主義を促進する無味乾燥な物質主義であり、けっきょくは全体主義的な社会改造計画と監視社会化へとつながるとみていたという。イギリスでフランス革命のような革命がおきなかったのは、どこかにこうした保守の精神が持続していたためだ、と著者はみている。
 保守主義が社会主義に反対してきたことはいうまでもない。保守の側からいえば、社会主義とは大衆の欲求に乗じて、似非(えせ)エリートが社会を思いどおりに改造しようとするイデオロギーにほかならない。平準化と平等化をめざす社会主義は、その結果、平凡で自己満足にひたる膨大な人間集団をつくりだす。それだけではない。専制的な国家のもと、才能ある者や批判の自由を抑圧し、新たな身分制を生みだし、社会を停滞させる。それは契約制にもとづく近代の原理からの後退をすら意味するという。
 保守主義はさらに大衆民主主義や産業社会にも批判の目を向けていた。たとえば著者はブルックス・アダムズ(1848〜1927)のいささか暗鬱な見解を紹介する。アダムズによると、産業化とともに人間の活動は加速化する。そのなかで家族の基本は崩れ、すべての人が平等化を求めるにつれて社会の秩序が失われていく。それを補うために、集権化と監視社会化が進む。それでも、さらなる豊かさを求めて、経済競争はますます激しさを増し、ついに資源エネルギーが使い果たされるまでにいたる。そのとき、社会は崩壊するというのである。
 産業化と物質主義は、欲望の神格化をもたらした、と著者はいう。さらに、民主主義と商業主義が、拡張的で粗雑な個人主義を助長した。そうした世界から抜けだすには、高い倫理とまじめな知性をもつ指導者を見いださねばならない。しかし、そうした指導者を見つけるのは困難で、現代において保守主義の精神は衰退し、片隅に追い詰められている、と著者は感じている。いまは保守の時代だとみる向きからすれば、これはむしろ意外な感がするが、おそらく著者は、産業化と大衆化が連動しながら加速する時代に絶望感すら覚えていたのだろう。
 晩年の著者は、集産主義や社会主義以上にはるかに恐ろしいものがやってくるのではないかという予感をいだいていた。そこに出現するのは国家そのものを目的とした巨大国家であり、そこでは経済システムばかりか人間の精神的・知的活動までもが計画の対象となる。大衆の欲求が生みだしたともいえるこの計画社会では、人びとは常に戦時下のような状況に置かれる。そうしなければ国家や所属集団への忠誠心が衰えてしまうからだ。勤労、犠牲、目的達成が頭にたたきこまれる。加えて、偏狭な愛国主義と恐怖、憎悪が深層意識に刷りこまれる。それに順応する国民には快適な生活環境が約束され、順応しない者には徹底した恐怖政治が敷かれる。これがあたらしい全体主義国家だ。
 著者が追求するのは、反動的で排撃的な保守主義ではない。全体主義に抗して共同体の伝統と慣習を守ろうとする、保守としての生き方を堅持することなのである。


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