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平山周吉『江藤淳は甦える』断想(2) [われらの時代]

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 60年安保闘争が終わったあと、社会党の浅沼稲次郎が右翼の少年、山口二矢によって刺殺される。大江健三郎は、その少年をモデルにして「セヴンティーン」と「政治少年死す」を書く。三島由紀夫は「憂国」を発表。中央公論に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を読んで怒った17歳の少年が、中央公論社長宅を襲い、お手伝いさんを刺殺した。
 1961年、江藤淳は朝日新聞の文芸時評を担当し、これらの作品についても論じていた。また、評判の悪かった三島由紀夫の『鏡子の家』を解説したことから、三島との接近もはじまっている。しかし、集中していたのは「小林秀雄論」である。
 そのころアメリカ行きの話が出る。ロックフェラー財団から申し出があり、プリンストン大学に行くことが決まった。その前に、西ドイツ政府からも、バイロイト音楽祭への招待があって、1961年夏の2カ月間、江藤はヨーロッパ6カ国を遊覧している。そして、11月、『小林秀雄』が刊行されたことで、大きな仕事に一区切りがついた。
 夫婦でアメリカに向かったのは1962年8月24日で、帰国は64年8月4日である。その間、63年7月18日から20日ほど本人だけ一時帰国したのを除いて、江藤夫妻はほぼ2年間、アメリカに滞在したことになる。
 その2年間のことは『アメリカと私』につづられている。
 アメリカ体験は、29歳から31歳にかけての江藤淳に何をもたらしたのだろう。平山周吉の評伝に沿って、そのことを考えてみよう。
 江藤夫妻が住んだのはニュージャージー州の大学町プリンストンである。最初に迎えてくれたのは、1年前からプリンストン大学に留学していた経済学者の鈴木光男(東北大学講師、のち東京工業大学教授)だった。
 当初2カ月ほどは大学の雰囲気になじめなかったようだ。「社会的な死を体験していた」と書いているから、得に学びたいテーマも見つからなかったのだろう。うつうつとしているところに、『小林秀雄』が新潮社文学賞を受賞したという朗報が舞い込んできた。
 それで、ようやく自分を取り戻しはじめる。
 プリンストンでは多くのアメリカ人学者と出会った。江藤の身元引受人は歴史学者のマリアス・ジャンセン(『坂本龍馬と明治維新』が有名)。エール大学のロバート・リフトンとも懇意になっている。
 先に挙げた鈴木光男のほか、日本からは武者小路公秀、綿貫譲治、柳瀬睦男などが留学していたという。
 平山周吉は、江藤が夏目漱石の研究者でもあるヴィリエルモ助教授と交わした会話を紹介している。

〈日本人への不満を述べるヴィリエルモに向かって、日米関係の根本的改善はわけもないと江藤は言い放つ。「それには、合衆国大統領が特使を送って、公式に原爆投下に遺憾の意をあらわし、併せて沖縄県を返還すればよい」。「とんでもない」とヴィリエルモは声を上げて反論する。「原爆を落としたのは、戦争中ですからね。アメリカ兵の声明を助けるためには、仕方がなかったのですよ。それに沖縄は、アメリカが大きな犠牲をはらってやっととったのですからね。とてもとてもかえせませんねえ。(略)日本は無条件降伏をしたのですよ」。〉

 この会話は、そののちもずっと心に引っかかった。
 沖縄返還がなされたあと、江藤淳は米軍基地がずっと残ったことが問題と考えていた。最晩年の1998年にも、日米防衛協力のためのガイドラインによって「もう一度日本が軍事的な空間として、全面的にアメリカの空間に取り込まれる」ことを危惧すると記している。
 アメリカへの反発は身元引受人のマリアス・ジャンセンにたいしても同じである。日本の近代化、すなわち西洋化をよしとするかれの考え方には違和感をいだいていた。
 平山周吉はこう書いている。

〈優等生の「めざましい近代化」が光の領域だとすれば、そこには当然のことながら、影の部分が存在する。それはペリー来航以来、強いられてきた日本の制度であり、歪められた日常の感覚であり、何よりも、うずいている日本人の傷痕である。〉

 1963年7月に所用があって、3週間ほど日本に一時帰国したとき、羽田に迎えにきた三島由紀夫は編集者に「江藤さんも立派になったなあ」ともらしたという。
 オリンピックを1年後に控えて、東京は「普請中」で、江藤はその頽廃ぶりを嘆いている。それでも、道行く人びとはニューヨークより、よほどおだやかだった。
 NHKで岩波書店の吉野源三郎に会ったときには「このままでは日本はアメリカにしてやられてしまうという気がする」と話している。
 プリンストンに残った夫人には何通も手紙を書いているが、「もう一年、日本のために二人で頑張ろう」と記しているのが印象的だ。
 アメリカに戻ってきた江藤は、プリンストン大学の東洋学科で1年間、日本文学を教えることになった。秋学期は古典、春学期は近代文学が対象で、講義は英語でおこなわれた。
 新潮社からの出版を約束していたその講義録は、けっきょく刊行されない。平山は、それがどんな講義だったかを推測している。
 それは8世紀以来の日本文学史を連続体としてとらえる講義だったと思われる。世阿弥の「風姿花伝」はお気に入りの作品だった。江戸期の朱子学的世界も大きく取りあげられただろう。荻生徂徠の「弁名」や本居宣長の「紫文要領」も紹介されたにちがいない。近松や西鶴への言及もあったはずだ。朱子学的世界が壊れる近代では、やはり夏目漱石が焦点になる。小林秀雄の作品も紹介されたかもしれない。
 平山はこう書いている。

〈江藤文学史の核心部分はプリンストンで構築されていった。古典に親しむことで、「日本」を引き受け、前近代と近代の断絶を埋めることで、「日本」はひとつの連続体を成していることが証明される。〉

 江藤の白熱講義に感銘を受けた学生は多かった。そのなかの一人、ダニエル沖本は、のちにスタンフォード大学教授となり、オバマ政権のアジア担当アドバイザーになっている。
 江藤にすれば、せっかくアメリカに来たからには、ただ学んで帰るだけではなく、アメリカ人に日本のことを少しでも教えたいという気持ちだったのだろう。アメリカ体験は、江藤の日本回帰を強めこそすれ、アメリカ崇拝にはけっして結びつかなかったのである。

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