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吉野作造の朝鮮論(2)──中村稔『私の日韓歴史認識』(増補新版)断想(5) [本]

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 吉野作造は1919年3月のいわゆる三・一運動をどのようにみていたのだろうか。
 その前に、まず本書によって、そもそも三・一運動とは何であったかを確認しておこう。
 第1次世界大戦終結後、アメリカのウィルソン大統領は、14カ条の平和原則を発表し、そのなかで民族自決をうたった。
 これに刺激を受けて、海外在住の朝鮮人独立運動家11名が独立宣言書を起草、採択した。
 1919年1月、朝鮮国王、高宗が亡くなる。そのことも、朝鮮内での独立機運を高めたという。
 独立運動で、当初中心的な役割を果たしたのは、天道教やキリスト教などの宗教団体である。いっぽう学生たちも、独自に運動を開始していた。
 だが、宗教団体は土壇場になって手を引く。
 3月1日、学生や民衆、四、五千人が、当時京城のパゴダ公園に集まった。午後2時すぎ、独立宣言書が朗読された。
「われらはここに、わが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自由の民であることを宣言する」ではじまる宣言書である。
 学生や民衆はいっせいに「大韓独立万歳」と高唱したあと、太極旗を先頭に3隊に分かれて、徳寿宮、外国領事館、総督府に向けて、非暴力的な市内デモ行進をした。これにたいし、総督府の憲兵警察が出動し、デモを鎮圧した。午後7時すぎ、デモはいったん沈静化した。
 3月3日、高宗の葬儀当日、京城は人の波にあふれ、あちこち哀惜の声が上がった。
 5日になるとふたたび大規模なデモが再開される。治安警察はこれを厳しく弾圧した。その後、商店がデモに呼応して店を閉め、労働者や職工がストライキを実施し、農民も立ちあがった。
 中村によれば、「示威運動は、憲兵警察に弾圧されてのちに武器を取っての抗争に移行していった」。
これにたいする官憲の弾圧は苛酷だった。
 水原(スウォン)郡のある町では、20数名のキリスト教徒と天道教徒が教会に閉じこめられて射殺された。
逮捕され、拷問の末、獄死した女子学生もいる。
 ある集計によれば、朝鮮人の死者は7509名、負傷者は1万5961名、被囚者は4万6948名。これにたいし、日本側の被害は官憲の死者8名、負傷者158名だったとされる。
 この事件を吉野作造はどうとらえていたのだろう。
「中央公論」に発表された「朝鮮暴動前後策」で、吉野は「朝鮮の暴動は何と云っても大正の歴史における一大汚点である」と書き起こす。
 かれはさらにいう。暴徒を徹底的に鎮圧すべしという意見もあるいっぽう、朝鮮人の困窮を救うべきだという意見もある。だが、だいじなのは「一視同仁政策の徹底」である。そのためには朝鮮人にある種の自治を認める方向に進むとともに、(米国人宣教師を含む)第三者による事件の真相解明機関を設けるべきだ。
 さらに別の論考では、「我々は朝鮮の問題を論ずる時に、曽(かつ)て朝鮮人の利益幸福を真実に考へた事があるか」と問いかけ、次のように論じる。
 問題は、今度の朝鮮暴動でも、国民のあいだに「自己の反省」がないことだ。日本人はなぜ朝鮮全土に排日姿勢があふれているかを考えたことがあるのか。それはまさに日本による統治の失敗を意味している。にもかかわらず、当局者には何ら反省がみられない。
 朝鮮人が日本の統治をどのように考えているかを朝鮮人の立場から考えてみる必要がある。朝鮮人の日本人にたいする怨恨は根が深い、と吉野はいう。
 水原(スウォン)の虐殺が、朝鮮人の憲兵殺しにたいする報復措置だという言い方についても、それは野蛮きわまるという考え方だと述べている。吉野は事件をうやむやにせず、真相を徹底的に究明すべきだと主張した。
 三・一運動は日本の朝鮮統治の失敗を象徴している。少なくとも今後の統治にあたっては、次の点に留意しなければならない、と吉野はいう。
 ひとつは朝鮮人にたいする差別的待遇の撤廃である。とりわけ、教育面での差別をなくさなくてはいけない。官吏採用についても、地位や給与の面で、日本人と朝鮮人とのあいだで差別があるのをやめるべきだ。
「武人政治」は撤廃されなければならない。
 朝鮮の伝統や文化を無視した、無理やりの同化政策はとりやめるべきだ。
 そして、言論の自由を与えよ。憲兵政治は愚かである。
 こうした見解は、石橋湛山の考え方とも共通する、と著者の中村稔は指摘する。
 三・一運動を受けて、日本政府はどう対応したか。
 長谷川好道に代わって、朝鮮総督に斎藤実が就任した。斎藤は、これからは「文化政治」をやるのだと打ちあげている。
 あたかも、吉野作造の提案が受けいれられたかにみえるが、その実態はまったくちがっていた。
 斎藤新総督のもと、憲兵警察制度は廃止された。地方自治の拡充や、「内鮮人共学」が高らかに宣言された。朝鮮語の新聞・雑誌発行も認められ、会社設立を許可制から届出制にすることによって、朝鮮人の会社設立も容易になった。
 そのいっぽうで、この時期、朝鮮各地では、「内鮮融和」のため、天照大神と明治天皇を祭神とする朝鮮神宮が盛んにつくられている。
 文化政治の名のもとで、実際におこなわれたのは、日本によるソフトな政治支配強化だった。
 警察官の数も警察署の数もむしろ増えていた。地方政治でも日本人がより実権を握るようになっている。朝鮮語教育はむしろ減らされ、日本語教育が強化された。検閲もむしろ厳しくなっている。実業面でも、日本人企業がこの時期より多く進出した。そして、朝鮮神宮がむしろ朝鮮人の反感を招いていたことはいうまでもない。
 これにたいし、吉野は「朝鮮に於ける統治の改善は幾分内地人の慈悲心を満足せしめては居るだらうが、朝鮮人の満足は買って居ない」とはっきり書いている。

〈朝鮮人は法律上日本臣民である。けれども固有の日本臣民と同一に待遇する事は出来ないといふ事実に基いて、全然内地人と同様の権利を与へられて居ない。是れ法律に於ても朝鮮人を日本人となるべきもので、既に日本人であるものと見てゐない証拠である。……此根本的誤謬が悟られ且(か)つ改められざる限り、吾々日本国民の懸案としての朝鮮問題は実質的に一歩も進める事は出来ない。〉

 吉野は朝鮮のような歴史と文化をもつ国の人びとに、「同化」を押しつける反面、差別と侮蔑で事に当たろうとする日本当局の愚を諭している。
 帝国時代にこういう主張をした人物がいたことは、もっと評価されるべきである。
 いまは植民地時代ではない。しかし、植民地時代の反省から生じたこうしたまっとうな感覚は、現在も継承されるべきだと思われる。

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