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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(3) [われらの時代]

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 1964年11月に発足した佐藤政権は、首相の病気で幕を下ろした池田内閣の全閣僚をそのまま引き継ぐかたちで発足した。
 高度成長が日本社会の姿を変えようとしていた。農業など第1次産業の比率が減り、第2次産業、第3次産業の比率が伸びていた。
 家庭では核家族化が進展する。ベビーブーマー(戦後第一世代)が青年期を迎え、1965年の高校進学率は70.7%、大学進学率は12.8%に上昇していた。
家庭には白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が普及し、さらに「三C」と呼ばれる自動車、カラーテレビ、クーラーが後を追いかけていた。
 東海道新幹線と東名高速道路が開通。そのいっぽうで、農村の過疎化、都市の過密化、大気汚染が進み、交通事故が激増していた。
 はじめての所信表明演説で、佐藤は「人間尊重の政治を実現するため、社会開発をおしすすめる」と表明した。高度成長のひずみをなくすことが求められていた。
 いっぽう外交面では、「世界各国との平和共存の外交」を唱えつつ、アジアの平和と自由を守るという立場をとった。中華人民共和国ともいずれは関係改善をはからなければならないと考えていた。
 佐藤は1965年1月に訪米し、ジョンソン大統領と会談した。この会談では、中国が核武装したにもかかわらず、日本は核をもたず、あくまでも日米安保条約に依存すること、アジアの安全保障のためには朝鮮の38度線、台湾、南ベトナムの線の確保が必要であるという点で、両首脳が合意した。佐藤は沖縄と小笠原の返還問題にも言及している。
 内政面で佐藤政権は、経済開発と社会開発を相互補完的に進めることを目標としていた。
 当時、日本の一人あたり国民所得はヨーロッパ諸国の半分、アメリカの4分の1にすぎなかった。日本はまだ「中進国」という認識だった。
 社会開発として、もっとも意識されたのが住宅政策である。一世帯一住宅のスローガンのもと、第一期住宅建設5カ年計画がスタートし、東京の多摩ニュータウンなどがつくられていった。
 占領期に積み残された課題も処理しなければならなかった。
 65年4月、ILO(国際労働機関)の「結社の自由及び団結権の保護に関する条約」が国会で批准される。5月には農地改革で土地を失った旧地主に給付金を支給する農地報償法案が可決された。自衛隊は日本国憲法下の軍事組織として明確に位置づけられるようになった。
 日韓国交正常化は、池田政権から引き継いだとりわけ重要な課題だった。日本と韓国との交渉は1951年以来、紛糾に紛糾を重ねながら断続的につづけられてきた。61年に軍事クーデターによる朴正熙政権が樹立されると、両国間でいちおうの合意がなされたが、まだ決着したわけではなかった。だが、佐藤政権になって、65年2月に椎名悦三郎外相が訪韓し、日韓基本条約が仮調印された。
 そのころベトナム戦争が激化し、アメリカは大規模な北爆を開始していた。日本では「ベ平連」が結成され、反戦運動が高まろうとしていた。
 65年6月、佐藤は初の党人事と内閣改造をおこない、自前の体制をつくった。幹事長に田中角栄、蔵相に福田赳夫、通産相に三木武夫、外相に椎名悦三郎(留任)、厚相に鈴木善幸、経企庁長官に藤山愛一郎といった布陣である。この改造内閣が発足してすぐに、日韓基本条約と請求権協定、経済協力協定が東京で正式に調印された。
 日本国内でも韓国国内でも、条約にたいする反対は強かった。韓国では弱腰外交にたいする批判、日本では朝鮮半島の分断固定化と軍事独裁政権への肩入れを批判する声が渦巻いていた。
 7月には政敵の河野一郎が死去する。つづいて、8月には病気療養中の池田勇人前首相が死去した。
前年の大野伴睦につづき、相次いで派閥の領袖が死去したのを受けて、佐藤は派閥解消、党近代化を唱え、みずからの基盤を強化していった。
 8月19日、佐藤は初めて米軍施政下の沖縄を訪問し、那覇空港で有名なスピーチをおこなう。
「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって『戦後』が終わっていないことをよく承知しております」
 演説の内容は事前に米大使館と協議されていた。
 ライシャワー駐日大使は、日本の左派勢力がベトナム戦争に強く反対していることを危惧し、沖縄の施政権返還に向けた検討を始めるよう国務相に求めていた。
 沖縄から東京に戻ったあと、佐藤は来日したニクソン前副大統領と懇談した。大統領選でケネディに敗れたあと、ニクソンは不遇の時代を過ごしていた。
 9月13日には、大阪での1970年万国博覧会(万博)開催が決定する。これも池田政権の置きみやげだった。
 10月1日、インドネシアで共産党系将校らによる謎のクーデターが発生。これを鎮圧したスハルト少将が実権を握り、スカルノ大統領が権力を失っていく。その後、インドネシアでは共産党勢力の掃討がつづいた。
 日本ではいわゆる日韓国会がはじまり、日韓基本条約の批准をめぐって、与野党が激突した。11月11日、国会周辺をデモが取り巻くなか、衆議院で日韓条約関係法案が成立、12月11日に参議院でも可決された。
 戦後処理の大きな課題がひとつ片づいたあとは不況対策だった。11月には福田赳夫蔵相のもと、戦後初の赤字国債発行が決定される。その後、景気は次第に上向き、1970年7月まで景気拡大局面がつづくことになる。
 1966年1月、佐藤は創価学会の池田大作と会見する。1964年に結党された公明党が徐々に力をつけていた。同月、社会党の委員長には左派の佐々木更三が選ばれた。
 3月には国会で核兵器不拡散条約(NPT)をめぐる論戦が交わされた。椎名外相は、核兵器は抑止力として必要であるが、日本はみずから核兵器を所有することはないという立場をあきらかにした。
 5月9日には、中国が原爆につづき水爆実験に成功する。背景には中ソ対立があった。そのころ文化大革命がはじまる。
 7月にアメリカのラスク国務長官が来日したときも、佐藤はあらためて日本の核保有を否定している。
 8月には内閣改造がおこなわれ、新たに国務大臣ポストとなった官房長官に愛知揆一が就任した。ライシャワーは駐日大使を退任し、ハーバード大学に戻った。アメリカの国防省は依然として沖縄返還に否定的だった。
 いっぽう佐藤政権は、早稲田大学総長大浜信泉を座長として沖縄問題懇談会を発足させていた。
 このころ自民党はさまざまなスキャンダルに見舞われる。
 8月には田中彰治代議士が恐喝と詐欺の容疑で逮捕された。9月には運輸相の荒船清十郎が選挙区に国鉄の急行列車を停車させた事件が発覚した。さらに共和製糖への不正融資が政治献金として自民党議員に流れたのではないかという疑惑が生じる。
これらのスキャンダルは、総称して「黒い霧」と呼ばれた。
 12月1日の自民党総裁選で、佐藤は圧倒的多数で再選をはたした。だが、その前日に発表された佐藤内閣の支持率は4月の30%から25%に低下していた。
 総裁選の結果を踏まえ、12月2日、3日には党役員改選と内閣改造が実施され、福田赳夫が幹事長、三木武夫が外相、水田三喜男が蔵相、宮沢喜一が経企庁長官に任命された。
 そして、12月24日には、自民、社会、民社、公明の4党首脳会談が開かれ、27日に衆議院が解散されることになった。「黒い霧」解散と呼ばれる。
 1967年1月29日の総選挙で、自民党は486の議席のうち277を獲得し、勝利した。2月17日、佐藤はふたたび首相に指名され、長期政権への道を歩んでいく。このつづきはまた。

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