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『佐藤栄作』(村井良太著)を読む(5) [われらの時代]

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 1970年1月、第3次佐藤内閣が発足する。主要閣僚が留任するなか、通産相には大平正芳に代わって宮沢喜一、防衛庁長官に中曽根康弘が就任した。予想外に難航した日米の繊維交渉は、年明けに決裂していた。
 この年、日本は西側で国民総生産(GNP)世界第2位に躍進する。
 2月、日本は核兵器不拡散条約に調印する。
 国会の施政方針演説で、佐藤は沖縄の本土並み復帰決定により戦後に終止符が打たれたこと、国際的地位の上昇により今後は内における繁栄と外に対する責務との調和をはかることが課題だと表明した。
 3月14日、大阪で万国博覧会がはじまる。
 3月31日、赤軍派によるよど号ハイジャック事件が発生した。
 6月には1960年に結ばれた日米新安保条約が10年の固定期限を終え、自動延長されることになった。無事、自動延長されたことに、佐藤は胸をなでおろした。
 佐藤の秘書官、楠田實はこのころ、佐藤内閣のもと、憲法を守るという方向が年ごとに強まっていると感じていた。いっぽう、憲法改正に取り組まず、「平和国家」を打ちだす佐藤政権に、岸信介などは不満をいだいていた。
 著者によれば、佐藤がめざしていたのは、「先の大戦への反省と日米関係を基盤に、豊かさと平和が結びついた『非核専守防衛大国』」だった。
 佐藤は10月18日から27日まで訪米し、国連総会でこう演説する。
「いわゆる経済大国になれば、軍事大国になるのが今までの世界の常識だったが、日本は決して軍事大国にはならない。日本の憲法にしたがって平和を維持していく」
 2度目のニクソンとの会談もおこなわれた。その会談では、沖縄や安保の問題が再確認されるとともに、国際情勢についても意見が交わされた。繊維交渉は混迷していたが、佐藤は積極的に解決することを約束した。
 これからは「日本が、国内の産業構造を整備し、調整し、国際社会に協力しなくてはならない」とも発言している。だが、繊維交渉は日本の業界の反発も強く、なかなか決着をみない。
 帰国直後の10月29日の自民党総裁選で、佐藤は対抗馬の三木を大きく引き離して4選をはたした。しかし、そろそろ次の世代をどう育成するのかが問われていた。佐藤自身の頭にあったのは福田赳夫である。
 11月9日には、佐藤政権を支えていた副総裁の川島正次郎が亡くなった。
 秋からの国会は「公害国会」と呼ばれた。12月には公害対策基本法が改正され、それまでの経済調和条項が削除され、はっきりと公害防止をめざす方向が示された。
 そのさなかの11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で割腹自殺する事件が発生する。三島は、自衛隊を国軍とするため自衛隊員が決起するよう呼びかけていた。佐藤はこの考えを否定する。
 沖縄では11月15日に、施政権返還を前にして戦後初の国政参加選挙が実施されていた。
 12月20日にはコザ暴動が発生。米兵の乱暴な振る舞いに民衆の怒りが爆発した。佐藤としては、頭の痛いできごとだった。
 1971年3月に佐藤は70歳を迎えた。
 繊維交渉は難航していた。日本側は自主規制というかたちで決着をはかろうとしたが、ニクソンはあくまでも政府間協定を求めた。
 4月11日の統一地方選の知事選では、東京・大阪・京都で共に革新系が勝利した。東京都では美濃部亮吉が再選をはたした。
 4月28日の「沖縄デー」の集会には、沖縄で約2万人の参加者が集まり、佐藤政権打倒の声も挙がった。
 6月15日には沖縄返還協定が閣議決定され、17日に日米の衛星テレビを通して、批准書交換式が開かれた。
 6月27日の参議院選挙で自民党は63の改選議席を62に減らしたものの、まずまずの安定を保った。7月の内閣改造では、外相に福田赳夫、通産相に田中角栄、蔵相に水田三喜男、法相に前尾繁三郎、官房長官に竹下登が就任した。党三役は幹事長に保利茂、総務会長に中曽根康弘、政調会長に小坂善太郎という布陣だった。
 そこにふたつのニクソン・ショックが襲いかかる。
 7月15日、ニクソン大統領は全米向けのラジオとテレビで、来年5月までに北京を訪問すると発表した。
 さらに8月16日、ニクソン大統領は米ドルと金との交換を停止するなどのドル防衛策を発表した。これにより戦後の世界貿易を支えてきたIMF体制が終わりを迎える。
 9月1日、大平正芳は宏池会議員研修会で「潮の流れを変えよう」というスピーチをおこない、政治不信の解消と自主平和外交の精力的展開を訴えた。ポスト佐藤に向けて、旗幟を鮮明にしたのである。
 新任の通産相に就任した田中角栄の動きは俊敏だった。10月15日にニクソン政権の要求に沿って日米繊維協定を仮調印し、国内の繊維業者にたいする救済措置をまとめた。協定は翌年1月に正式に締結され、その間、沖縄返還協定もアメリカ上院で批准された。
 国連では10月25日に中国招請・国府追放の決議案が大差で可決された。そのころには中華人民共和国を承認する国が増え、中華民国が劣勢に追いこまれていた。日本は国連代表権の変更を阻止しようとしたが、世界全体の流れには逆らえなかった。
 日米繊維紛争が決着したあと、11月からはいわゆる「沖縄国会」がはじまった。沖縄では11月10日に、核も基地もない沖縄を求めて、返還協定に反対するゼネストがおこなわれていた。
 しかし、衆議院特別委員会は、11月17日に沖縄返還協定と関連法案の質疑を打ち切り、強行採決に踏み切る。野党は18日以降の審議を欠席、19日には大々的なデモがおこなわれ、日比谷公園内の松本楼が焼き討ちされた。
 自民党の保利幹事長は、野党にたいし、非核三原則と沖縄米軍基地縮小を確認する決議案を上程することを約束。これにより、公明党と民社党が軟化して、審議に復帰する。
こうして11月24日、本会議において沖縄返還協定が承認され、同時に非核三原則の決議も成立した。
 参議院でも混乱がつづいたが、自然承認を待たず、12月22日に沖縄返還協定は承認される。
 12月19日、ワシントンのスミソニアン博物館で10カ国蔵相会議が開かれていた。この会議で決められたのが1ドル=308円の新たな為替レートである。
 だが、このスミソニアン体制も長続きしない。1973年に通貨は完全に変動相場制に移行することになる。
 1972年1月6日から、カリフォルニア州のサンクレメンテで、日米首脳会談が開かれた。これにより5月15日の沖縄返還が決まった。
 1月10日、羽田に出迎えた沖縄の屋良朝苗主席と握手し、佐藤は「精いっぱいやったが、あれだけの結果しか出なかった」と述べている。基地縮小は無理だったのである。
 2月2日の日記に、佐藤は「いつ迄もこの仕事をやってもおられない。適当な処で退陣を決すべきかと思う」と記した。
 2月21日、ニクソン大統領が訪中し、毛沢東や周恩来と会見、27日に上海コミュニケが発表された。
 日本の学生運動は追い詰められ、尖鋭化していた。2月19日から28日にかけ軽井沢町のあさま山荘に立てこもった連合赤軍は機動隊と銃撃戦をくり広げた。5月にはイスラエルのテルアビブ空港で日本赤軍が銃を乱射する事件がおきた。
 3月15日、佐藤をはじめ、多くの閣僚が立ち会うなか、首相官邸で、福田外相とマイヤー駐日大使とのあいだで、沖縄返還協定の批准書が交換された。
 マイヤーはのちに著書のなかで、「日本は巨大な軍事力を持たなくても大国たりうる」という「雄大な実験」に乗り出したのだ、と記している。だが、その実験はいつ崩れないとも限らない、微妙なバランスの上に成り立っていた。
 3月27日、社会党の横路孝弘議員が国会で、沖縄返還にともなう密約の存在を問いただした。アメリカが支払うべき軍用地の復元補償費を日本側が肩代わりする密約があるのではないかというのだ。政府はこれを否定するが、それは事実だった。
 この情報を横路の耳に入れたのは、毎日新聞記者の西山太吉である。この外務省機密漏洩事件は、のちに取材にともなう男女スキャンダルが明らかになって、興味は別の方向へそらされていった。
 日米間に財政処理にからむ秘密合意があったことはまちがいない。核の持ち込みについても秘密合意があった。しかし、国会での答弁で、政府はそれをあきらかにすることなく、虚偽に虚偽を重ねて、ひたすら国会を乗り切ることに専念し、沖縄返還の日に向けて突っ走った。
 5月15日、沖縄は日本に復帰した。
 東京の日本武道館と那覇の那覇市民会館で沖縄復帰記念式典が開催された。
 武道館の式典で佐藤は「大戦の末期に戦場となり、尊い多くの人命を失った沖縄の地は、戦後長きにわたって米国の施政権下に置かれてきたのでありますが、今日以後、私たちは同胞相寄って喜びと悲しみを共に分かちあうことができるのであります」と、力強く式辞を読んだ。
 社会党、共産党議員は式典に参加せず、夜遅くまで沖縄返還協定に反対するデモがつづいた。
 沖縄返還は足かけ7年つづいた佐藤政権の終幕をかざる花道となった。
 国会が閉幕した6月17日、佐藤は辞意を表明する。テレビで引退会見をおこなうつもりだったが、記者会見室に行くと新聞記者が大勢押し寄せていた。
 突然、佐藤は怒りだし、「国民に直接話したいんだ。……偏向的新聞は大きらいだ」と叫んで、部屋を飛びだす。秘書官に説得されて戻ってきた佐藤は、一人テレビカメラに向けて、不機嫌な顔であいさつをすることになった。
 佐藤が次期首相にと望んでいたのは福田赳夫だった。だが、7月5日の自民党臨時大会で勝利したのは田中角栄だった。
 佐藤派はふたつに分裂し、いつのまにか田中派ができていた。田中は三木、大平とも反福田三派連合を結成し、福田を破った。
 7月7日、田中角栄内閣が発足し、佐藤は首相公邸を去った。
9月、田中政権のもとで日中国交回復が実現する。
 首相退任後も政界では大きなできごとが相次いだが、佐藤はわりあい穏やかな生活を送った。
 11月には大勲章菊花大綬章を受けた。
 1973年1月には訪米、再選したニクソンの大統領就任式に参加、その直後に急逝したジョンソン前大統領の葬儀にも参列した。
 田中角栄内閣の支持率は急速に落ちていた。日本列島改造論が狂乱物価を招いていた。
 10月には石油危機が勃発。日本の高度成長の時代が終わる。
 1974年、日本の政局は不安定になり、7月の参院選で三木武夫が田中の金権政治を批判し、閣僚を辞任する。田中と福田の反目も激しくなっていた。
 そんななか、10月に佐藤のノーベル平和賞受賞が決定する。「エッ、あの人が」という朝日新聞の見出しに見られるように、メディアはどちらかというと意外な受け止め方をした。
 金脈問題で信頼を失った田中内閣は11月26日に退陣する。田中の意向を受けて、党内では椎名悦三郎副総裁の斡旋により、次期総裁の座に三木武夫がつくことになった。
 福田を推す佐藤は、福田に「棚からぼたもちは落ちてこない」と忠告した。
 12月10日のノーベル賞授賞式で、佐藤は「核時代の平和の追求と日本」と題して講演し、日本国憲法第九条を引用しながら平和への日本の歩みについて話し、多様な存在が相違点を認めつつ平和的に世界が共存していくことの重要性を強調した。
 1975年4月5日に蒋介石が亡くなると、佐藤は台湾に弔問にでかけた。
 4月30日には、ベトナム軍によってサイゴンが陥落し、ベトナム戦争がついに終わった。
 5月18日、新橋の料亭喜楽で開かれた宴席で、佐藤は倒れた。くも膜下出血だった。そのまま昏睡状態となり、6月3日、東京慈恵会医大病院で亡くなった。享年75歳。
 6月16日、日本武道館で国民葬が営まれた。
 本書は政党政治家、佐藤栄作の生涯を丁寧にたどった力作である。

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