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藤圭子、心の奥底からの声──沢木耕太郎『流星ひとつ』を読む(1) [われらの時代]

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 藤圭子と藤純子、ひとりは歌手、ひとりは女優である。共通するのは、ふたりとも1960年代末が生み落としたスターだったことだ。そう、あのころだ。あのころが終わると、ふたりともきらきらした輝きを失っていくように思えたのは、どうしてだろう。
 コロナで休館前の図書館で借りた沢木耕太郎の『流星ひとつ』を読んでみた。
 2013年8月22日に藤圭子が自死した直後に出版された本である。
 中身は沢木耕太郎による1979年のロングインタビューで、このとき28歳の藤圭子は歌謡界から引退しようとしていた。
 ずっとお蔵入りになっていた。その理由はわからないでもない。いったん引退して渡米した藤圭子は、2年後に帰国して、歌手に復帰したからである。
 そのあと宇多田照實と結婚し、以降、同じ人物と7回の離婚・結婚を繰り返す。1983年には娘、光(宇多田ヒカル)が生まれた。
 宇多田ヒカルがデビューする1998年までは、アメリカと日本を行ったり来たりしながら、ときどき日本のテレビにも出て、歌っていた。
 だから、引退宣言したときの沢木のインタビューは、出版しにくくなり、お蔵入りになっていたのだと思われる。
 ところが、2013年8月22日に、藤圭子が新宿のマンションの13階から投身自殺したというニュースが報じられる。
 宇多田ヒカルは母の死について、自身のオフィシャル・サイトでこうコメントした。その一部を引用する。

〈彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。……
幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族を含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。
母が長年の苦しみから解放されることを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。〉

 切々としたコメントだった。
 沢木は藤圭子の面影をしのびながら、お蔵入りになった原稿のコピーを読み返してみた。
「そこには、『精神を病み、永年奇矯な行動を繰り返したあげく投身自殺をした女性』という一行で片づけることのできない、輝くような精神の持ち主が存在していた」
 沢木はその「輝くような精神の持ち主」の姿と心の声を忘れてほしくないと思って、本書の出版を決意したのだという。
 そう、あのころ藤圭子は輝いていたのだ。

 沢木耕太郎のインタビューで、藤圭子は自分の出自をこんなふうに語っている。

「あなたが生まれたのは、本当は北海道の旭川じゃないんだって? 岩手県の一関……旅興行の途中だったとか」
「そうらしいんだ。でも、その頃のことはよく知らない。ほとんど知らないんだ。子供の頃のことって。記憶にないし、たまにお母さんに聞かされるぐらいだから」
「お母さんは曲師(きょくし[三味線をひく人])だったの?」
「そうじゃなくて、お母さんも浪曲師なの。お父さんも、お母さんも」
「しょっちゅう、旅に出ていたわけだ、二人して」
「うん」

 その話しぶりがよみがえってくる。
 藤圭子(本名は純子)は1951年7月に生まれた。父は阿部壮(つよし)、母は竹山澄子。両親はドサ回りの浪曲師で、しょっちゅう旅巡業をしていた。
 圭子は学校に上がる前から字を読めたという。汽車が駅に止まるたびに、駅の名前を読んで、字を覚えた。
「いつも汽車に乗っていた。そういう気がするなあ」と話している。
 小学校のころ住んでいたのは旭川市旭町の市場横の家、その2階を間借りしていた。2間に親子5人がくらしていた。
 浪曲師の仕事があまりこなくなった父はパチプロみたいなことで食べていた。圭子も床に落ちている玉をひろって、弾いているうちに、うまくなって、いろんなものをもらった。
 両親が旅に出て、なかなか帰ってこないと、お金がなくなって、留守番する子どもたちは困窮した。近所のおばさんが、アワとかヒエを差し入れてくれることもあったが、鶏のエサみたいで、とても食べられなかったことを覚えている。
 残ったお金で、近くの豆腐屋さんに納豆を分けてもらって、それを売って生活していたこともある。
 小学校5年のころでカムイ(旭川市神居町)に引っ越し、家を建てた。
 母親の実家からお金を借りて、知り合いの大工さんに土台だけつくってもらい、あとはみんなで建てたのだという。父親は一年くらい左官をやったこともあるので、何とか家をつくることができたのだ。
 転校先の神居小学校では、明るくなったし、勉強もできるようになったと語っている。友達もいなかったし、ひとりでじっとしているだけの前の小学校とは大違いだった。
 勉強はよくできた。しかし、体育はまるでだめ、ハスキーボイスなので唱歌もぜんぜんだめだったというのがおかしい。
 神居中学でも成績はよかった。クラスでいつも3番以内にはいっていた。得意なのは数学。一回の試験で珠算の2級検定もとっている。
 歌をはじめるきっかけは、家でこまどり姉妹か畠山みどりの歌をくちずさんでいたら、母親からうまいじゃないといわれたことだったという。
 それまでは変な声で、音痴だと思っていた。
 そして、あるとき、お寺の法事の余興で歌うことになった。お祭りでも歌った。両親の仕事がらみだった。
 土曜と日曜は、浪曲をやる父と母といっしょに、あちこちの舞台に立つようになった。伴奏もマイクもなしで、畠山みどりの「出世街道」や「浪曲子守唄」、「刃傷松の廊下」を歌ったという。とつぜん出てきた小さな子がいきなり大人の唄をみごとに歌うのを聞いて、客席はやんやのかっさいだったという。
 学校はほとんど休まなかったが、両親と山の奥の飯場とか海岸の漁師町に仕事で2、3週間行くこともあった。
 家庭は貧しく、生活保護を受けていた。
 中学卒業の半年ほど前、両親と岩見沢に引っ越した。

「中学三年のときだっけ、岩見沢に引っ越したんだったよね、旭川から」
「うん」
「それはどうしてなの?」
「岩見沢にね、きらく園というヘルス・センターがあって、そこに仕事があったの。住み込みで」
「芸人さんとして?」
「そう、三人、芸人として」
「三人と言うと、お父さんとお母さんとあなた?」
「そう」
「お姉さんとお兄さんは?」
「もうバス会社で働いていたから、旭川に残ったの」
「あなたが一緒に行くことも、条件のひとつだったのかな」
「そうなんだって。北海道といっても結構狭いから、どこにどんな芸人がいるとか、あそこに子供で歌うのがいるといったことは、すぐわかるんだね」
「転校するの、いやじゃなかった?」
「しばらく、岩見沢に来てからも、泣いてたな。毎日、クラスの友達に手紙を書いてた。でも、卒業まで、あと半年くらいだったから我慢できそうだったし……」

 このころになると、客の目当てはすでに天才少女歌手の圭子だったことがわかる。
 中学を卒業してから先のことは、あまり考えていなかったという。

「毎日、毎日、その日、その日を送っていたのかな、ほんとうに」
「その中で、ただ喜んだり、悲しんだりしていただけ」
「それじゃあ、何が嬉しかった、あなたは」
「おいしい物を食べられたら嬉しいし……見る物すべて食べたかった」
(中略)
「それじゃあ、何が悲しかった」
「お父さんに怒られれば悲しいし……お母さんに怒られたことは一度もないんだよね」
「どんなことで、お父さんに怒られるの?」
「うーん。その話はしたくない、あんまり」
「そうか。問題は、いつも……悲しいことは、お父さんなんだね」

 いまでいうDVがあったことが想像される。目が悪い母親はいつも父親にひどく扱われていた。本人も虐待されていたのかもしれない。
 そんな圭子が東京に行くことになるのは、ひょんなきっかけからである。
 つづきはまた。

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U3

だいだらぼっちさん、おはようございます。
読んでいるとなんだか哀しくなるね。
by U3 (2020-04-18 11:48) 

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