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本格的な流行は秋から──速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』散読(2) [本]

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 1918年4月、日本でも巨大インフルエンザの先触れとなる小流行がはじまった。インフルエンザの流行は毎年のことなので、このときはだれもがさほど気にしなかった。
 むしろ話題になったのは台湾に巡業中の大相撲の力士がインフルエンザらしきものに感染し、3人が死亡したことである。38度から40度の発熱があり、5日ほどで快方に向かうのが、インフルエンザの一般的な症状だった。新聞は台湾北部の基隆(キールン)と対岸の香港にそうした熱病の流行がみられると報じている。
 日本国内では、5月初旬、横須賀軍港で軍艦「周防」に150名余の患者が発生した。中旬には保土ケ谷の富士瓦斯紡績工場で多数の工員が感染。そのころ東京市内でもぼつぼつ患者がではじめている。
このときのインフルエンザは、相撲の力士が数多く感染し、夏場所の休場者が多かったため、「角力(すもう)風邪」と呼ばれるほどだった。
 6月から7月になると、近衛師団を含め、東京、仙台、金沢、松本、弘前、青森など、軍の各連隊で4000人以上の感染者がでた。感染率は非常に高かったが、死者はほとんど出ていない。
 6月に衛戍(えいじゅ)病院[陸軍病院]に収容されたインフルエンザ患者数は3万人以上、海軍病院もほぼ同様だった。しかし、流行はこれでほぼ収まり、7月下旬には収束に向かっている。

 日本で本格的な流行がはじまったのは、それから2カ月後、1918年9月下旬になってからである。
春が先触れにすぎなかったとすれば、このときの本格的な流行を第1波としてもよいだろう。もちろんこれを第2波と理解してもよいのだが、ここではこれを第1波と解釈して話を進めることにする。何せ、先触れとこのときとでは、感染者も死者も桁違いに数がちがいすぎるからである。
 名古屋の『新愛知』(現在の中日新聞の前身)は、9月20日に日紡大垣工場で感冒が発生したと伝えている。さらに9月26日には大津の歩兵第9連隊に400名の患者が発生したと報じた。
 10月12日の『読売新聞』には、山口県厚狭郡高千帆小学校(現山陽小野田市)の児童60名が39度以上の高熱を発し、鼻血を出しているという記事が掲載されている。
 各地の新聞をみると、10月半ば以降、全国でインフルエンザ患者が増え、死者が続出したことが判明する。滋賀県や愛媛県、京都市でも、小中学校児童が数多く感染し、学校が閉鎖された。西日本からはじまった流行は、短期間のうちに、東日本、北日本に広がったとみられる。
 本書には、全国の様子が事細かに追跡されているが、ここでは大阪・東京近辺だけに話を限ることにしよう。
 大阪市内では10月29日に多くの小学校が休校となり、市電運転手2000人のうち450人が欠勤したことが報じられている。
 同じころ、京都では西陣の職人の欠勤が相次ぎ、病院の看護婦の過半が感染し、治療に困難をきたしていた。11月にはいると、死者数は急速に増える。その大半が20歳から40歳までの壮年男女だった。
死者の増加により、大阪市では火葬場が混乱し、遺体が処理しきれなくなった。11月5日には大阪市内の全小学校が休校となった。
 大阪市内の死者は11月12日がピークで419人に達した。なかでも学校教員の死者が多かった。
 火葬場の混乱は神戸でも同様で、遺体が処理しきれず、棺桶が放置されるままになっていた。
京都、大阪、神戸でも、インフルエンザは10月20日ごろから流行しはじめ、11月半ばまでの約1カ月間、猛威をふるったとみてよいだろう。そして、12月になって少し落ち着いたあと、ふたたび1919年2月ごろからぶり返し、2月末、ようやく小康状態になった。
 東京では、10月24日の各紙が流行性感冒の襲来を告げている。青山師範学校や小石川の女子師範学校も休校となっていた。
 10月25日、内務省は全国に「西班牙(スペイン)風邪」に注意するよう警告をうながし、各地で「適当な処置を講じられたし」と伝えている。とくにはっきりとした指針は示されなかった。
 東京市内では、インフルエンザの流行により、学校の休校が増え、遠足が中止になった。職場の欠勤者も多くなり、交通機関や通信に影響がではじめた。死者が目立つようになるのは、11月にはいってからである。砂村、町屋、桐ヶ谷、落合の火葬場は満杯となった。
 11月5日には劇作家の島村抱月が、仕事場にしていた牛込の芸術倶楽部でインフルエンザのため死亡した。そして、翌年1月には恋人の松井須磨子が後追い自殺をするという悲劇を生むことになる。
 11月になると、東京朝日新聞や都新聞などが、感冒による死者が増えていると報じるようになる。インフルエンザはすでに10月からはじまっていた。著者は「むしろ、新聞各紙が何も書かなかったことに作為を感じる」として、政府による何らかの情報統制があったことを示唆している。
 11月下旬になると、流行は下火になった。都新聞は11月上旬に1日平均230−40人あった東京市内の死者数が、下旬には150−60人に減ったと伝えている。
 10月以来、猖獗(しょうけつ)を極めたインフルエンザは東京でも12月にはいっていったん落ち着いたかにみえた。しかし、年があらたまると、ふたたび再燃する。より重大なのは、インフルエンザから肺炎に進み、亡くなる人が増えたことである。1月下旬には「盛り返した流行性感冒」といったような記事が数多くみられる。
 2月3日の東京朝日新聞は、最近2週間で東京府下で1300名が死亡したと伝えている。各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」という状態だった。都新聞は、感染者の年齢が15歳から40歳であること、看護婦が払底していることを報じている。
 こうした事態に東京府、東京市は「何をすべきかわからなかった、というのが実相であろう」と著者はコメントしている。警視庁当局はなすすべなく「茫然として居る」と、当時の時事新報も断じていた。
 東京市長は2月5日に告諭を発し、室内や身体の清潔維持、人混みを避けること、うがいの励行、患者の隔離を奨励している。病院に行けない細民に無料の治療券を配布したり、医薬の給付をおこなったりもしている。しかし、劇場や映画館などの閉鎖はおこなわなかった。
 著者は1918年秋から翌年春にかけての、この第1波(「前流行」)に関して、こんなふうにまとめている。

〈嵐のように襲来した「前流行」は、公式統計だけでも2116.8万人の罹患者、25.7万人以上の死亡者を出し、約半年にわたって暴れまわった後、いずかたともなく消えてしまった。春の到来という季節上の変化もあったろうし、多くの人が罹患し、ウイルスへの免疫抗体を持つようになった結果かもしれない。何せ病原体さえ分からなかった当時のことなので、予防や治療の結果でなかったことだけは確かである。用いられた薬も、中には肺炎の予防・治療に効くものもあったかもしれないが、流行性感冒そのものには無力だった。むしろ死亡者がこれだけで済んだのが幸運だったと考えてもいいだろう。〉

 日本での第1波(「前流行」)の感染率は、国民全体の38%と、きわめて高かった。これにたいし、死亡率は12.1パーミル、すなわち1.21%となぜか低かった。人混みに出るな、手洗い、うがいをせよ、衣類・寝具を日光消毒せよといった注意を励行したことが案外きいたかもしれない、と著者も認めている。
「しかし、どこかに潜んだウイルスは、次の出番を静かに待っていたのである」。第2波が到来するのは必至だった。

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