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美濃部都政とは何だったのか──『革新自治体』(岡田一郎)から(1) [われらの時代]

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 かつて革新自治体というものが存在した。
 いま、そんなものはない。いや、いまもあるのかもしれないけれど、その姿はずいぶんちがっている。革新という言い方が古びてしまった。
 革新自治体とは、そもそも何だったのだろう。
 戦後の冷戦時代においては、大雑把にいって、アメリカ対ソ連という構図があり、資本主義と社会主義が思想的な対立軸となっていた。
 資本主義が保守ならば、社会主義は革新というわけである。よく考えてみれば、これはおかしな規定である。むしろ、実際は逆とみても、けっして不思議ではないからだ。
 資本主義が保守で社会主義が革新というとらえ方には、資本主義はやがて社会主義に移行するという歴史観がひそんでいた。しかし、実際の歴史は、むしろ社会主義が分裂し、解体し、資本主義に移行するという経過をたどる。だが、それで歴史が終わりになったとはとてもいえない。資本主義の権化ともいえる新自由主義にたいする批判は、現在ますます強まっており、アメリカ一極主義も頓挫したようにみえる。
 それはともかく、1960年代末から1970年代にかけ、日本で革新自治体というものが存在したのは事実である。それはいったい何だったのか。
 ぼくがいなかから東京にやってきた1967年4月に、東京都では美濃部亮吉が新都知事に選出された。革新都政の誕生である。
 そして、美濃部都政こそが革新自治体の象徴だったといえるだろう。
 そのころぼくは、見知らぬ東京にとまどうばかりで、東京都の行政に関心を向けるはずもなかったのだが、それでも美濃部亮吉には、それなりに親しみを覚えていた。
 テレビか何かで、記者が美濃部に「都会で急にトイレに行きたくなったらどうします」と、つまらぬ質問をして、たしか美濃部が「デパートに飛び込みますよ」と答えるのを聞いたおぼえがある。ぼくもトイレは悩みの種なので、どことなく共感を覚えたのだ。
 そのうえ、かれはぼくのいなか、兵庫県高砂市高砂町出身の法学博士、美濃部達吉の息子だった。そのため、どこか応援したい気持ちがあった。佐藤栄作の木で鼻をくくったような、いかにも権力者風の物言いと対照的に、美濃部のへなへなとした口調には、気が抜けて思わず笑ってしまいそうなところがあり、実際にはそうでもなかったのかもしれないが、それが庶民的な印象を与えていた。
「60年代後半から70年代にかけて各地で革新自治体を生み出す原動力となったのは革新政党(とくに社会党)の自治体政策ではなく、社会資本整備や公害規制を求める民意であった」と、著者は述べている。
社会党や共産党のマルクス主義や政治綱領が支持されたわけではなかった。なによりも、高度成長と裏腹に、公害や煤煙、交通戦争、河川汚染などが深刻化していたことに、人びとは懸念をいだいていたのである。
 1967年の東京都知事選は、「明るい革新都政をつくる会」の推す東京教育大学教授の美濃部亮吉と、自民党・民主党の推す立教大学総長の松下正寿、公明党の推す創価学会理事の阿部憲一の三つ巴で戦われた。
 その結果、4月15日の投票で、美濃部が約220万票、松下が約206万票、阿部が約60万票を獲得し、美濃部が僅差で勝利を収めた。公明党が自民党候補の松下を応援していたら、美濃部の勝利はなかったかもしれない。
 社会党の選挙戦は、例によって行き当たりばったりだった。美濃部陣営の英文学者、中野好夫は「まるで担ぎ出しておいて、あとはポイといってよい形」の社会党のやり方に不信感をいだいていた。いっぽうの共産党もまた、中央指令型の党員運動家からなる政党であって、社共を基盤とする美濃部都政の土台はけっして強固とはいえなかった。
 それよりも美濃部を支えたのはむしろ都民の期待である。それに応えて、美濃部はさまざまな施策を打ちだした。
 ひとつは老人福祉の充実である。まず、東京都養育院付属病院と老人総合研究所が設立された。1969年からは、70歳以上の高齢者の医療費を無料としている。
 心身障がい者にたいするケアも充実させた。心身障害者福祉センターや心身障害者福祉作業所が設置された。視覚障害者のための誘導ブロックがつくられ、車椅子のために歩道・車道の段差解消がこころみられた。
 美濃部は厚生省の反対を押し切って、無認可育所の助成にも踏み切っている。子供の病気治療の無料化範囲も徐々に拡大していった。
力を入れたのは公害対策である。美濃部は1968年に公害研究所を設置、さらに翌年、公害防止条例を制定した。
 こうした対策を可能にしたのは、潤沢な都税収入だった、と著者は指摘する。
 意外なことに、美濃部と保守政治家との関係は悪くなかった。朝鮮大学校の認可をめぐって佐藤栄作と対立することはあったが、佐藤や福田赳夫との関係はスムーズだった。しかし、田中角栄とは一度も会見せず、三木武夫には親しみを感じていなかったというのは、おもしろい。
 いちばん苦労したのは議会対策だった。美濃部自身、議会、宴会、面会の三会が大の苦手だったと語っている。
 そして、著者によれば、「美濃部をもっとも苦しめたのは与党の一員でありながら、都議会をまとめる能力もなく、ただ足を引っ張るばかりの社会党であった」という。
 社会党にはまともな都市政策がなかった。たとえば水道料金の値上げをめぐっても、なんら指導性を発揮せず、非協力的で、あらぬほうを向いていた。
 美濃部は最後まで、自分を支えるはずの革新政党に不信をいだいていた。社会党はいうまでもない。共産党にたいしても、のちにみずからの著書『都知事一二年』で、こう述べている。
「秘密主義で一枚岩的な党の体質は、息がつまる感じで好きになれない。ことに、何事によらず代々木の本部の考え方が都段階にまで浸透している点で、あまりに硬直的に過ぎると思った」
 議会運営は困難をきわめた。1969年の都議会選挙の結果、都議会の議席数(定数126)は、社会党がほぼ半減の24、共産党が倍増の18、自民党が議席増の54、公明党が25、民主党が4となった。社会党は敗退し、自民党が第1党に返り咲いた。それでも自民党は単独過半数には届かなかった。キャスティングボートを握ったのは公明党である。
 1971年の都知事選で、美濃部は自民党公認の前警視総監、秦野章を破って再選される。美濃部が約362万票を獲得したのにたいし、秦野は約194万票と、美濃部の圧勝だった。
 秦野は東京の再開発と公害対策に4兆円を投じるというビジョンを打ちだしていた。これにたいし、美濃部は「広場と青空の東京構想」を発表する。市民参加による都市改造とシビル・ミニマムの考え方を強調した。
 この構想をまとめたのは政治学者の松下圭一である。シビル・ミニマムとは都市住民の満たすべき最低限の生活基準を意味する。その構想には、社会保障、社会資本、社会保険の基準がそれぞれ具体的数値で示されていた。
 美濃部への期待は大きく、とりわけ主婦層に人気があった。
 だが、それも次第にかげりを見せはじめる。
 美濃部都政にかぎらず、人気のあった革新自治体はなぜ挫折していったのだろう。本書に沿って、その経過を追ってみよう。

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