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ボードリヤール『消費社会の神話と構造』 を読む(1) [商品世界論ノート]

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 日本で消費社会がはじまったのは1970年代半ばとされるのが一般的だ。産業が発生して以来、消費は生産とともにあるのだから、消費の歴史ははるか昔にさかのぼる。
 消費社会の定義はむずかしい。多くの人びとが生理的欲求にとどまらず、高次の文化的・社会的欲求を満たせるようになった社会を消費社会と呼ぶということもできるが、それも画然とした定義ではない。あちこちのマーケットに必要以上にほしいものがあふれ、それを自由に買えるようになった社会をさしあたって消費社会と呼ぶことにでもしておこう。
 ジャン・ボードリヤール(1929〜2007)がフランスで本書『消費社会の神話と構造』を刊行したのは1970年のことである。今村仁司と塚原史の共訳で、日本語訳が出版されるのは1979年だから、日本で注目されて翻訳されるまで、そのかん、けっこう時間がたっている。
 とはいえ、そのかんに日本も消費社会に突入したともいえるわけで、本格的に消費社会とは何かを論じた本書は、日本でも広く読まれた。出版から50年たったいまでも、消費社会論の基本図書とされているが、難解な本としても知られる。
 1979年に日本で出版されてすぐにぼくもこの本を買った。読んだけれども、ほとんどついていけなかった。あれから40年たったいま、本棚に眠っていたこの本をもう一度読み返してみる気になった。
 ただし、日本で翻訳が出版された70年代終わりではなく、原書が実際にフランスで出版された年、日本では大学闘争が終わり、三島由紀夫が死んだ1970年あたりを念頭においてみたい。あのころは、政治の季節がすぎて、ふたたび経済の季節がはじまっていたのだ。
 ボードリヤールの消費社会論には68年の残り香が色濃くまとわりついている(師であるアンリ・ルフェーブルの影響も感じられる)。そのことは、末尾の文章をみてもあきらかだ。
 かれはこう書いている。

〈われわれはモノが無であることを知っている。モノの背後には、うつろな人間関係があり、膨大な規模で動員された生産力と社会的力が物象化されて浮きぼりにされる。ある日突然氾濫と解体の過程が始まり、1968年5月と同じように予測はできないが確実なやり方で、黒ミサならぬこの白いミサをぶち壊すのを待つことにしよう。〉

 黒ミサが悪魔をたたえるミサだとすれば、白いミサは神の神聖さをたたえるものだ。消費社会は、商品という神の神聖さをたたえる儀式の上に成り立っている。
 だが、虚妄な資本主義の上に成り立つ消費社会は、膨張に膨張を重ねたすえに、突然、爆発し、解体されていくにちがいないという予感をボードリヤールは提示している。それがあたっているかどうかは別にして、それは1968年5月の経験から導かれた予感だったといってまちがいないだろう(そして、たしかに現在のコロナ禍は、消費社会の突然の「氾濫と解体」をもたらしているともいえそうだ)。
 いっぽうで、ボードリヤールはもうひとつの予感にさらされていた。われわれは、これまでに経験したことのない時代を迎えつつあるのではないか。じつは、それが「消費社会」と呼ばれるものだったのだ。ボードリヤールの感性は、消費社会に引きつけられながら、同時に強く反発していく。消費社会の神話と構造という言い方がされるのは、そのためだろう。
 前置きはさておく。例によって、暇な年寄りの読書だから、とりとめもなく、気ままにのんびりと進んでいく。わからないところは飛ばし読みしてしまうから、精密さは保証しない。途中の投げだしもありうる。
 それでは、ぼちぼち出発しよう。
 
 豊かになったヒトは、いまやどの時代よりもモノに取り囲まれている。モノがあふれている。われわれはモノの時代に生きている、とボードリヤールは書いている。ここは乳と蜜のかわりに、商品があふれる現代のカナンの谷だ。
 山と積まれた商品は、単に有用性を備えた個々の商品の集積ではない。「消費者はもはや特殊の有用性にあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットとかかわることになる」
 この言い方もよくわかる。
 たとえば、現代的なそれなりの生活を送るためには、洗濯機だけではじゅうぶんではない。冷蔵庫やガスコンロも必要だし、食洗機もほしくなってくるかもしれない。その意味では、モノはひとつではなく、ひとつながりの超モノの姿を隠しているのだ。
 ショッピングセンターやモールでは、消費の記号というべき商品が、万華鏡のようにちりばめられている。そこにはカフェや映画館、書店もあり、安物の雑貨、家具、衣類、食品もそろっている。
 エアコンのきいた建物のなか、人びとは中央の遊歩道(モール)をぶらぶらしながら、店先に無造作に陳列されている品々を見て回る。それ自体が楽しみである。ここでは何でも揃っているし、ほしい品物が見つかれば、クレジットカードで買えばよい。
 そんなショッピングセンターの姿を描きながら、ボードリヤールは「われわれは日常生活の全面的な組織化、均質化としての消費の中心にいる」と書いている。
 そして、ここでは「常春の気候のなかで『雰囲気』の永遠の組み合わせが繰り返される」。つまり、ショッピングセンターを歩きながら、人びとは季節ごとの「雰囲気」を買って、それを生活に取り入れることになるわけだ。
 ボードリヤールは、消費行動には、豊かさや喜びが自然の恩寵として与えられるのを待つといった魔術的心性がどこかに秘められているとも指摘している。
 消費において期待されているのは、現実ではなく、イメージや記号である。たとえば実際に戦場に行くのは嫌だが、シューティングゲームをしたいとか、牛を殺すのは嫌だが、うまい牛肉を食べたいとか。
「体験のレベルでは、消費は現実的・社会的・歴史的な世界をできるかぎり排除することを安全のための最大の指標としている」
 ここでは商品が記号によってあらわされるということが重要である。商品は多くの他の商品とともに店頭に並べられ、個々に価格やデザイン、流行、姿形などといった記号によって、人びとを幻惑している。だから、実際に消費者が買うのは、商品の使用価値や効用ではなく、その記号なのだ、とボードリヤールは考える。
 消費の場所は日常生活である。日常生活は内輪の閉ざされた場であると同時に、仕事や余暇やメディアによって外部に開かれている。日常性は増殖する「超越性」(政治や社会、文化)がもたらすイメージと、記号としてのモノである商品を絶えず栄養分としなければならない。
 極論すれば、たとえば災害や事故のニュースをテレビでみながら、ワインを飲んでいるといった場面を想像すればよい、とボードリヤールはいう。「消費社会は、脅かされ包囲された豊かなエルサレムたらんと欲しているのだ」
 いかにもフランス人らしい、このあたりのエスプリのきいた言い回しは、『日常生活批判』で知られる師のアンリ・ルフェーブルへの賛辞ともなっている。
 ここで、わずらわしいかもしれないが、少しばかり私見を加えておく。
 商品を記号ととらえるのは、ボードリヤールの卓見である。商品は店先で(ネット上でもかまわないが)、いわばピカピカ光って消費者を幻惑する記号であり、モノ(物象)である。それはマネー媒体によって購入されるのを待っている。
 だが、商品は、購入される前に消費されてはならないし、もちろん盗まれてもならない。じつは、商品と消費のあいだには、大きな関門が待ち受けている。商品は購入しなければ消費できないのだ。
 ヒトは消費しなければ生きていけないのだから、消費は常に人類とともにあった行動である。しかし、消費社会の特徴は、ヒトがみずから採取し、あるいはつくりだした有用物ではなく、資本によってつくられた商品をもっぱら消費する社会だということである。その意味で、それは資本主義の高度な段階を表象している。
 商品はマネー媒体によって購入できるモノであり、記号である。そこでは、人間の労働の一部さえ、モノ化したサービスとして購入することができる。
 商品世界はモノ化(物象化)、記号化された商品をつくりだし、それをどこまでも拡大していく傾向をもっている。
 さらに商品世界がめざすのは、時間と空間の可能な限りの圧縮である。たとえば食料となる米や野菜や肉を育てるのも時間がかかることだし、それらを空間的に移動するのもたいへんな手間を必要とする。しかし、モノ化され記号化(ブランドもそうだ)された商品は、おカネを払いさえすれば、たちどころに消費者の手元に届く。その時間と空間の広がりは、いまやグローバルだ。
 そんな不思議ともいえる商品世界の現在を、日常生活の次元から「消費社会」としてとらえかえし、社会学的、人類学的に考察したのが、ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』だ、とぼくは考えている。
 まだ、ほんのとば口である。もっと先まで読もうと思っていたが、長くなりすぎたので、きょうはこのくらいにしておこう。

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