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冷戦の時代──ホブズボーム『20世紀の歴史』をかじってみる(2) [われらの時代]

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 20世紀後半は、いわゆる「冷戦の時代」で、それは1945年から89年までつづいた。歴史には何層もの色彩が塗り重ねられているとすれば、冷戦はやはり20世紀後半の基層となる色彩だったといえるだろう。
 冷戦とは核時代における米ソ両陣営の軍事対立のことだ。しかし、米ソ間で直接の軍事衝突が生じなかったことが、この時代の特徴である。
 ホブズボームはこの状況をとらえていたのだろうか。

〈冷戦の特異さは、客観的に言って世界戦争の直接的な危険はなかったという点にあった。しかも、双方の側、とくにアメリカの側の世界終末論的なレトリックにもかかわらず、二つの超大国の政府はともに第二次大戦終結時の世界的な権力配分を承認していた。〉

 この権力配分が決められたのは、第二次大戦末期の1943年から45年にかけて米英ソの首脳(ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン)によって開かれた一連の会議においてである。のちにチャーチルが「鉄のカーテン」と呼ぶヨーロッパの権力配分は、その後、冷戦が終わるまで、ずっと維持されることになった。
 問題はヨーロッパ以外の地域だった。日本はアメリカが完全に占領していた。中国はソ連の意向に反して、意外にも中国共産党が政権を掌握した。旧植民地帝国の解体はもはや避けられなかった。だが、その将来の方向は定かではなく、そのことが米ソの摩擦を生む要因となった。
 そして、まもなくポスト植民地の新国家は「第三世界」の道を模索し、米ソ両陣営に属さない「非同盟」を標榜するようになっていく。中国もまたソ連から離れて、独自の方向を歩んでいくことになる。
 1950年には朝鮮戦争が発生し、1962年にはキューバ・ミサイル危機が生じた。しかし、米ソ両国の直接対決は回避された。
 ソ連は1953年に東ドイツ、1956年にハンガリーに直接介入する。これにたいし、アメリカは干渉することを避けている。第二次大戦後の勢力配分は守られたのである。
 1949年にソ連が核兵器開発に成功すると、「超大国はともに相互敵対政策の道具としての戦争を明白に放棄した」とホブズボームは述べている。しかし、核使用のジェスチャーは、その後も世界を不必要な戦争に投げ込む危険性を招くことになった。
 このあたりは評価が分かれるところだが、ホブズボームは冷戦を仕掛けたのは、むしろ西側だったとみている(しかし、正確にはむしろ、冷戦の原因をつくったのはソ連で、冷戦を仕組んだのはアメリカだというべきだろう)。
 戦後すぐの段階においては、資本主義の将来はけっして確実なものではないと思われていた。ヨーロッパの多くの国々が、共産党勢力の増大に悩まされていた。アメリカの職業的外交官たちは、このことに「世界終末論」的な危機感をいだき、現実にはありえなかったソ連の膨張を何としてでも阻止しなければならないと考えるようになった。
「戦後のソヴィエトの基本的な姿勢は、攻撃的ではなく防衛的だった」。ソ連はアメリカの「封じ込め政策」に対応し、毅然とした態度をとらなければならなかった、というのがホブズボームの見方である(とうぜん、異論はあるだろう)。
 こうして双方が非妥協的な態度をとるようになった。とりわけ、それはイデオロギー的な対立として表面化していった。
 アメリカでは反共主義は人気があり、そのおかげで世界的強国としての強気の外交政策を展開することができた、とホブズボームはいう。その結果、双方が相互破壊のための狂気の軍備競争をエスカレートさせていった。そして、全般的な危機が深まるなか、核兵器の開発は米ソだけではなく、イギリス、フランス、中国、イスラエル、南アフリカ、インドにまでおよんでいくことになる。
 冷戦の目的は、共産主義の撃滅ではなく、封じ込めだった。
 冷戦期間中には、3つの大きな戦争があった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争である。朝鮮戦争は引き分けに終わった。ベトナム戦争ではアメリカが敗北し、アフガニスタン戦争ではソ連が敗北した。
 冷戦は世界をアメリカとソ連の陣営に二分した。西側では共産党が政権の座につくことはなく、政治の局外者にとどまっていた。アメリカと対決するためにつくられたコミンフォルムは1956年に解散している。東ヨーロッパでは、ユーゴスラビアをのぞいて、ソ連の抑圧的な直接支配がおよんでいた。
 戦争の結果は、西側諸国では右翼的、国家主義的政党の排除をもたらした。それにより西側諸国の政権は、社会民主党的な左翼から穏健な非ナショナリスト的な右翼までのスペクトラムで形成されることになった。ヨーロッパではとりわけキリスト教民主主義にもとづく政党が中心的な役割を果たした。
 1947年にアメリカはヨーロッパ復興のために、大規模なマーシャル・プランを発動する。アメリカは日本経済復活のためにも大きな力を注いだ。さらに反ソ軍事同盟として、ヨーロッパにたいしては北大西洋条約機構(NATO)、日本にたいしては日米安保条約を導入することになる。
 しかし、冷戦が生み落としたものとして、とりわけ注目しなければならないのは、欧州共同体(EC)である。ECの意義はフランスとドイツの敵対関係に終止符を打っただけにとどまらない。それはアメリカと一歩距離を置きつつ、ソ連に打ち勝つための国家連合にほかならず、1993年以降は欧州連合(EU)へと発展していくことになる。
 ソ連にたいする同盟が、アメリカの基本政策であり、軍事計画もアメリカ主導のもとで実施された。しかし、冷戦の時代がつづき、ヨーロッパと日本の経済が復興するとともに、アメリカの絶対的優位は崩れていった。1971年8月のドル・ショック以降、西側各国の為替制度は固定制から変動制に移行しはじめる。冷戦が終わった時点では、軍事体制に関してもアメリカは一国だけでその覇権を維持できない状態になっていた。
 しかし、それはまだ先のことである。
 1950年から53年までの朝鮮戦争、1953年のスターリンの死以後の地殻変動は、世界的な危機にはいたらなかった。フルシチョフがソ連で政権の座についたときには、デタント(緊張緩和)がささやかれるほどだった。
 ところが、その直後にキューバ・ミサイル危機が訪れる。幸いにも、この異常な緊張も回避された。
 だが、冷戦は終わらなかった。その後、脱植民地化と第三世界の革命が進行するなかで、米ソ両国のあいだでは、神経質な駆け引きがくり広げられる。1961年にはベルリンの壁が築かれていた。そして、ケネディは1963年に暗殺され、フルシチョフは1964年に追放されることになる。
 世界の核兵器を管理、削減するため、1968年には米ソ英仏、中国の5カ国のあいだで核拡散防止条約(NPT)が締結された。1969年からは米ソ間で戦略兵器制限交渉(SALT)が開始された。
だが、そのころベトナム戦争に深入りしていたアメリカは、国際的に孤立していたばかりか、国内的にも反戦デモを招くなどして、混乱をきわめていた。
 1973年に第4次中東戦争(ヨム・キプル戦争)が発生したときも、アメリカは的確に対応できなかった。このとき、中東のアラブ諸国はイスラエルへの加担を阻止するため、OPECを通じて、石油を武器に西側諸国を威嚇したのだ。その結果、石油の世界価格は何倍にもはねあがったが、アメリカは手をこまぬいたままだった。
 1974年から79年にかけて、アジア、アフリカ、中南米では革命の波が巻き起こった。独裁的な新政権は、表向き社会主義の立場を標榜したため、アメリカはそれをソ連の世界支配への野望と受け取った。
こうして、いわば第2次冷戦がはじまる。第三世界を舞台にした第2次冷戦で、アメリカはベトナム戦争の愚を避け、間接的に局地戦争を戦う戦術をとった。
 1974年のポルトガル革命、翌年にはフランコの死にともなうスペインの政変があったものの、ヨーロッパの状況は安定していた。そうしたなか、アメリカはエジプトからソ連を追放し、中国を反ソ同盟に引き込むことに成功する。
 いっぽう、ソ連はアフリカの旧ポルトガル植民地を社会主義陣営に引き入れ、エチオピア革命を成功させ、インド洋の両側に海軍基地を確保していた。イランでも革命がおき、アフガニスタンにはソ連軍が侵攻していた。
 だが、そのころソ連は破産しはじめていたのだ、とホブズボームはいう。ブレジネフ政権(1964−82年)の根拠のない自己満足が、無意味な軍拡競争を加速させていた。
 アメリカの力はソ連よりも決定的に大きかった。それでもアメリカはソ連による核攻撃という空想的なシナリオを捨てきれないでいた。
 1970年代のアメリカのトラウマが、レーガン政権(1980−88年)に軍事力誇示の姿勢をとらせたといってよい。アメリカは立て続けに、1983年のグレナダ侵攻、1986年のリビア爆撃、1989年のパナマ侵攻に踏み切った。そして、思いがけぬソヴィエト・ブロック崩壊がアメリカのトラウマをいやすことになる。
 レーガンのいう「悪の帝国」ソ連にたいする十字軍は、実際的というよりイデオロギー的なものだった、とホブズボームは評する。「黄金時代」が終わったあと、アメリカとイギリスでは、社会主義的なものをすべて敵とみなすイデオロギー右派が政権を握っていたのだ。
 ソ連が崩壊したとき、アメリカはソ連との冷戦に勝利したのだとの言説が、あたかも真実であるかのように広められた。だが、レーガン、ゴルバチョフとのあいだで1986年のレイキャビク会談、1987年のワシントン会談がおこなわれたときも、米ソ両国の首脳、とりわけゴルバチョフは核兵器のない世界での平和共存をめざしていたのである。
 冷戦の終わりとソヴィエト体制の終わりは別の現象だ、とホブズボームはいう。問題は資本主義に代わるべき社会主義が、改革された資本主義にはるかに遅れをとってしまったことにあった。1960年代以降、社会主義は政治的、軍事的、経済的、イデオロギー的に、もはや競争力を失ってしまっていた。ソ連はもはやアメリカとの軍拡競争に耐えられなかった。
 ソ連型の中央計画的指令経済は、世界のグローバル化が進むなかでは生き延びられなかった。1986年、87年の段階で、ソ連が超大国でないことは、すでに明らかになっていた。
 第二次大戦後、それまでの列強は没落し、アメリカの覇権が確立された。アメリカと対抗するソ連ブロックが強権的につくりだされたものの、その勢力は弱かった。中国はソ連の支配権から離脱し、アメリカ帝国主義に敵意をもつ第三世界にたいしても、ソ連は現実の支配力をもっているわけではなかった。
 冷戦がもたらしたのは膨大な量の武器であり、国際武器市場だった。それは冷戦後もなくなったわけではない。また冷戦の終結が、単一の超大国による「新世界秩序」を生みだしたわけでもなかった。「冷戦の終わりは国際紛争の終わりではないことが証明された」
 古いものは終わったが、新しいものはまだ見えていない。ホブズボームはそう記している。
 冷戦終結から30年、いま世界はどう変わったのだろうか。

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