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橋川文三の日本ファシズム論をめぐって(2) [われらの時代]

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橋川文三は1974年にそれまで断想風に記していた日本ファシズム論を統合して、「昭和維新とファッショ的統合の思想」という論考を発表している(『昭和ナショナリズムの諸相』に収録)。
 それによると、「シベリア出兵が行なわれ、米騒動が起こった大正7(1918)年ごろを一つのさかいとして、日本人の生活感情もしくは政治心理の中に、ファシズムをうけいれるような徴候がひろがり始めた」のだという。
 第一次世界大戦により日本の産業構造は軽工業から重工業にシフトし、多くの戦争成金が生まれていた。だが、同時に貧富の格差が拡大し、物価の高騰が追い打ちをかけ、生活難から自殺者が急増したのもこの時代の特徴である。
 米騒動の背景には、投機筋の動きによって、米の値段が急騰したことがある。ただでさえ、物価が上がっているのに、米の値段まで上がったのではたまったものではない。庶民の怒りが爆発した。
 富山市などでは、7月に女たちが米屋に押し寄せ、米の安売りを迫った。この米騒動はたちまち全国に広がり、8月半ばには京都や大阪、神戸で暴動が発生し、秋にはいるころまで日本じゅうが騒乱の渦に巻きこまれた。一部では軍隊が出動する騒ぎとなった。
 ちょうど、そのころ日本軍はシベリアに出兵していた。ロシア革命が発生し、シベリアに取り残されたチェコの軍団を救出することが名目だった。だが、じつは、革命勃発直後から陸軍参謀本部はシベリアへの勢力拡大をめざしていた。ボリシェヴィキに反対するロシアの軍人たちにバイカル湖以東のシベリアを占領させ、かれらがそこに自治国をつくるのを日本が助けるというのが陸軍の構想だった。
 そのためシベリア出兵は長引き、その最中に日本国内で大衆暴動が発生したのである。時の寺内正毅内閣は驚愕した。右翼団体も危機感をいだいた。ロシア革命がおきただけではなく、日本国内でも米騒動のような暴動が発生したのである。
 橋川はこう書いている。

〈大まかにいって、明治以来の右翼的国家主義団体は、主として対外強硬、もしくは大陸進出を強調する大アジア主義の経綸を唱えるものが多く、日本国家そのものの在り方に根本的疑惑を注ぎ、その改革をめざすという発想はまれであった。しかし、大正デモクラシーが政治における民衆の進出を背景にして展開し、その民衆が直接にそのさまざまな欲望を民衆運動の形で主張するようになったばかりか、生活上の具体的不満を米騒動として爆発させるにいたって、右翼的国家主義者の眼も対外進出というより、むしろ国内政治の側面に注がれるようになった。〉

 中国革命に挫折した北一輝が、上海で記した『日本改造法案大綱』をいだいて、日本に帰国したのは、ちょうどそのころ大正8(1919)年のことである。
 さらに、大正10(1921)年9月28日、31歳の朝日平吾による安田善次郎刺殺事件がおこった。それから、わずかひと月ほどあとに、今度はこの事件に刺激を受けた18歳の大塚駅転轍手、中岡艮市(こんいち)が東京駅改札口で原敬首相を暗殺するのである。
 大正デモクラシーの時代はいきなり暗転する。
 安田財閥の総帥、安田善次郎を刺殺した朝日平吾は、みずからもその場で自決したが、斬奸状と「死の叫び声」と称するアピールを残していた。
 内田良平や北一輝などに送られた斬奸状には、「君側〔元老、政治家、華族、顕官〕の奸を浄め、奸富〔富を貪る大富豪〕を誅するは日本国隆盛のための手段であり、国民大多数の幸福であるとともに、真性の日本人たるわれら当然の要求であり権利である」といった内容が書かれていた。
 もうひとつの「死の叫び声」には次のことばが書きなぐられていた。

〈黙々のうちにただ刺せ、ただ突け、ただ斬れ、ただ放て。しかして同志のあいだに往来の要なし。一名にて一命を葬れば足る。……ゆめゆめ利をとるな、名を好むな。ただ死ね。ただ眠れ。かならず賢をとるな、大愚をとり、大愚を習え。〉

 橋川は「朝日は当時〔米騒動前後から〕かなり急速に進展しつつあった大衆化状況の中から生まれた、ラジカルな行動者であった」と評している。朝日平吾は不遇で生半可なインテリにすぎなかった。しかし、かれの死を賭した叫びが、次々と連鎖を引き起こして、明治国家の安定した秩序を揺るがせていくことになるのである。
 橋川はこうしたテロリズムの発生に、昭和ファシズムの徴候をとらえている。
 国家革新運動の方向が左右にはっきりと分化してくるのは大正後期のことだと橋川は記している。
 たとえば大正7(1918)年に結成された満川亀太郎を世話人とする「老壮会」は、第一次世界大戦後の日本について話しあう集まりだったが、そのメンバーは右左を問わず、年齢、階級の制限もなく、軍人や学者も含まれていた。もっとも、どちらかというと進歩派陣営とは一線を画し、「その大多数の傾向は、やはり国家主義ないしアジア主義に傾いていた」と橋川はいう。
 しかし、「老壮会」は左右の意見がまとまらず、混沌としたなかで、大正10(1927)年ごろには自然消滅状態となった。だが、そのなかから大正8(1925)年に「猶存社(ゆうそんしゃ)」という団体が生まれた。そして、この猶存社こそ日本ファシズム運動を切り開く集団となっていくのである。
 左翼の社会主義者は、国体や天皇を迷信とみなし、これを排除して、無階級社会ユートピアをめざそうとしていた。これにたいし、猶存社系統のメンバーはこれとは反対の考えをもっていた。
 橋川はいう。

〈大まかにいってこの系統の人々は社会主義とくに共産主義的発想に鋭く反撥し、むしろ日本の伝統の核心とみなされた「国体」の擁護に立脚しつつ国家を改造しようとした。その意味で日本主義ないし民族主義にもとづく革新派とみることができる。いいかえれば、この思想系統においては、革新の原理はたえず国体、もしくはそのシンボルとしての天皇へと回帰する点において共通している。〉

 猶存社の中心を担ったのが、上海から帰国した北一輝である。橋川は北こそが日本ファシズムの「正統」だと論じている。
「北が上海からもちかえった『日本改造法案原理大綱』こそ、猶存社の精神となり、のちに昭和維新運動のバイブルとみられることになったものである」
 この国家改造の「大綱」は、北による天皇の独自の位置づけをベースにしていた。
 橋川はいう。

〈北の天皇論は、明治憲法の正統的解釈とされてきた天皇と国民の関係──主権者天皇の統治対象としての国民の関係(=天皇の国民)を転倒し、天皇を「国家の一分子」としてとらえ(=国民の天皇)、国民は天皇とともに国家の最高機関を形成すると考えるものであった。……要するに北は、一面においては天皇=現人神という神権説的俗信から天皇を解放し、他面では国民を、アプリオリに「忠義」を義務づけられた「臣民」から解放している。いずれにせよ、それは「国体論」の全面的な否定の上に構想された日本国家論であり、当時の国家権力にとっては許すべからざる異端邪説であった。〉

 北は国民の総代表としての天皇のもとで、国家改造をおこなうと宣言するのだ。華族制度は廃止、枢密顧問官も罷免し、代わりに天皇を補佐する顧問院を設ける。現行の貴族院と衆議院は解散し、停会とする。3年間の戒厳令を布き、その間に新憲法を定める。当面は国家改造内閣(軍事政権)を樹立する。
 天皇が宣布することになる国家改造の中身は多岐にわたっていた。
 男子普通選挙権にもとづく衆議院と、選ばれた勲功者による審議院を設ける(貴族院は廃止する)。
 国民の自由を奪っている治安警察法、新聞紙条例、出版法などは廃止する。
 私有財産の限度を10万円[現在の感覚では3億円程度]とし、超過分は国家に納付する。
 私有地の限度を10万円とし、限度以上の土地は国に納付し、国は納付された土地を、土地をもたない農業者に貸し付ける。
 都市の土地は市有制とし、市はその代償として、土地所有者に市債を交付する。
 個人所有の企業は、資本金で1000万円[現在の感覚では300億円程度]を限度とし、それ以上の資本金を有する個人企業は国営とする。
 国家は銀行省、航海省、農業省、工業省、鉄道省により大規模企業を経営し、その利得を国民の生活保障にあてる。
 労働者の権利を保護する。ストライキ権を認め、賃金は自由契約とし、一律平等とはしない。労働時間は1日8時間とし、労働者に経営参加権を認め、企業純益の半分を労働者に還元する。
 国は児童の権利を保護し、6歳から16歳まで国民教育の権利を与える。英語の授業をやめ、エスペラントを第2外国語とする。月謝、教科書、給食は無料とする。生徒に無用な画一的服装を強要しない。
 女性の人権保護。現行の姦通罪を廃止し、男子の姦通を罰することを第一とする。
 国民の人権を擁護し、これを侵害する官吏は半年以上3年以下の体罰を課す。
 朝鮮を日本の属邦、植民地とせず、帝国の平等・自由なる一行政区とする。
 徴兵制を維持する。国家は開戦の積極的権利を有するものとする。
 などなど。

 これをみると、ウルトラ右翼としての北一輝のイメージはかなり覆るのではないだろうか。とはいえ、北はけっして社会民主主義者ではない。かれは第一に天皇主義者であり、国家と社会は一体だとみなしている。社会主義が建前としていた平等主義にはくみせず、あくまでも行き過ぎたブルジョア的私権を制限すればよいという立場をとっていた。
 しかし、強調しなければならないのは、北には、国家主義とアジア主義が濃厚だったということである。大正の終わりごろ、かれは日本が日本海、朝鮮、中国の安全を確保するために、積極的に開戦権を行使すべきだと考えていた。さらに、日本は戦争を通じて、極東シベリアを領有し、インドの独立を助け、中国を保全し、南方領土、オーストラリアを取得しなければならないという。
 北がめざしていたのは、中国の自立、インドの独立はいうまでもなく、シベリア、オーストラリアを含む「アジア」の回復だった。日本が積極的に戦うべき相手はイギリスとロシアだという信念がここから生まれている。そのいっぽうで、北はアメリカとは戦うべきではないという考え方をもっていた。
 こうした北の考え方に青年将校たちはひかれていったのである。
 しかし、いっぽうで北一輝の考え方に強く反撥する、別の日本ファシズムの潮流も存在した。
 権藤成卿や井上日召は北とはまるで考え方がちがっていた。農本主義者の橘孝三郎は、北の政治綱領が実現されれば、日本は根底からぶちこわされてしまうと思っていた。そして軍の主流派(統制派)は、こうした民間ファシズム思潮が軍の内部に浸透している状況を危険なものととらえていた。
 こうしたさまざまのグループの思惑が交錯するなか、さまざまな事件が噴出し、ついには帝国全体が戦争に巻きこまれていくというのが、日本ファシズムの大まかな流れである。
 そのことを橋川の論考に沿って、事件の順にもう少しふり返ってみよう。

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