SSブログ

50年前のソウル遊学記──長璋吉『私の朝鮮語小辞典』を読む(1) [われらの時代]

img20210113_06352988.jpg
 コリタギノレ(尻取り歌)というのがあるらしい。日本でもおなじみのものだ。
 支那事変のころというから、1930年代の終わりごろだ。朝鮮の国民学校の子どもたちは、こんな尻取り歌を歌っていたという。

  イロハニ コンベトウ
  コンベトウは甘い 甘いはお砂糖
  お砂糖は白い   白いは雲
  雲は速い     速いは汽車
  汽車は黒い    黒いは煙
  煙はかるい    かるいは石油
  石油は高い    高いは富士山
  富士山は遠い   遠いは東京
  東京は偉い    偉いは天皇
  天皇は人間    人間は私

 思わずどきっとする。
 この尻取り歌を紹介した長璋吉は、東京外国語大学の中国語学科を卒業したあと、1968年11月から70年3月まで、朝鮮語(韓国語)を学習するためソウルに遊学した。語学学習の成果を兼ねて、そのときの記録をまとめたのが『私の朝鮮語小辞典』である。
 時は朴正煕時代。朴正熙は1961年のクーデターで韓国の実権を握り、1963年から79年まで大統領を務めた。「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる経済成長を実現した。1972年には維新クーデターにより憲法を改正し、より独裁色を強めることになる。政敵、金大中の拉致事件にもかかわるが、1979年に中央情報部(KCIA)部長により暗殺された。
 ところで、『私の朝鮮語小辞典』は、ことばの話が中心で、政治はほんのおまけ。だから韓国の政治の話はでてこない。
 だいじなのはソウルで暮らしてみることだった。ことばの海に身をひたし、泳ぎはじめること。
おうおうにして悲壮な感じにおちいりそうになる場面を、長璋吉はなにごともユーモアのセンスで受け止めている。それがソウルでくらす秘訣だった。
「私」がソウル近郊のキムポ(金浦)空港に到着したのは1968年11月10日。寒いと予感してたっぷりと着込んできたら、意外や暖かった。
 まずは出入国管理局の役人にパスポートを見せ、荷物を受けとって税関にいく。ほんとうは出入国管理局で黄色い紙(在留届申請書)をもらわなくてはいけなかったのだが、役人がそれをくれなかったために、「私」はあとでたっぷり油をしぼられ、罰金を払う羽目になる。
 税関では英語で質問されたが、ハングンマル(韓国語)で答える。延世大学で韓国語を勉強するつもりだというと、相手も「ウリマル」(私たちのことば)を勉強してくださってありがとうと答えてくれた。順調なすべりだしだ。
 空港のロビーに出ると、さっそくタクシーの運ちゃんにつきまとわれる。出迎えにきてくれた女性を見つけ、タクシーで新世洞(シンダンドン)の旅館に向かう。前回来たときもぼられたが、今回もやっぱりぼられた。
メーターは560ウォンなのに1500ウォンだという。それを何とか1200ウォンに値切った。
「こまかいのがなくて500ウォン札を3枚だすと、かの運ちゃんは札をひっつかんでドアに突進し、コーマッスムニダ(ありがとうございます)の声が私ののろまな耳に達する頃には車のエンジンをかけている素早さだった」
 案内してくれた女性を送って外にでると、ひどく寒かった。薄日が陰ると同時にソウルでは熱と冷気が素早く交替することを実感する。
 滞在する旅館には、甲乙丙の等級があり、「私」が選んだのは、食事なしで1泊520ウォンの丙種だった。恋の逢瀬に利用している常連もいて、近くの派出所の所長さんも激務のかたわら暇をみてやってくることが、あとでわかった。ドロボーをつかまえた警官が、ドロ助を引っ張り込んで盗品の山分けをしていることもあるという。
 大学の近くで下宿を探すつもりでいたけれど、管理人のおばさんがよく面倒をみてくれたので、「私」は東大門の西南1キロにあるこの旅館を下宿に、1年半くらすことになった。3食つき、洗濯と掃除もしてもらって、月1万1000ウォンの契約。
 ここを下宿にしている日本からの青年が、自分のほかにふたりいた。ひとりは商社から派遣された留学生、もうひとりは大学入学前で語学勉強中の「チェイルキョッポ(在日僑胞)」。酒癖の悪そうな韓国人の学生もいた。
 下宿していたのは学生だけではない。喫茶店の雇われマダム、正体不明で30代半ばの美男子、夜遅く帰ってくる40代男。40代はじめのくずれた感じの女、人相の悪い40代の人相見。それにミス脚線美大会にでるため釜山からやってきたアガッシ(娘さん)。
 みんな一癖二癖ありそうな下宿人である。これだけでも「私」の交流範囲は広く深くなりそうだ。
 管理人のおばさんを「私」はアジュマ(アジュモニの変型)と呼んでいた。アジュマは50歳くらいで、17歳くらいの女の子とふたりで旅館の仕事をみていた。この旅館の持ち主は医者で、全体としてロの字形の建物は、半分が医院、半分が旅館という複雑な構造をしている。
 アジュマは慶尚道の出身で、息子をひとり朝鮮動乱で亡くしている。亭主に死に別れ、2、3年前から、この旅館ではたらくようになった。韓国の状態はチントン(陣痛)だ、といつもいう。自分の願いはどこかで旅館を買って、蔚山(ウルサン)にいる息子といっしょに暮らし、娘を嫁にやることだとか。アジュマは働きづめで、何から何まで人の世話をしていた。
 日本からやってきた3人の留学生は、自分が出世したら、アジュマを日本に招待して、ビール風呂にいれてあげる、いや純金風呂だ、牛乳風呂だといって盛り上がったが、このほら話が実現することはなかった。
 下宿にはまかないをしてくれるシンモ(お手伝いさん)もいた。全羅道(チョルラド)出身の人が多く、ソウルではなぜか、根性が悪いと偏見をもたれ、嫌われているが、どこの家にもシンモがいて、にぎやかに食事の支度をしている。みんな個性的でたくましく、一筋縄ではいかない。
「私」は地図を頼りにソウルの街を歩き回った。トイレ(ファジャンシル=化粧室)の場所を押さえておくのはだいじだ。
「私」は「パンド(半島)ホテル[現在はロッテホテル]のとデパートのをもっぱら使用し、窮すればどっかのビルに入り込んで無断借用に及んだ」。
 探索の結果、「私がソウルで生活するうえに必要な施設は東西に徒歩約1時間半、南北に20分くらいの間に集中していることがわかった。つまり、本屋、映画館、デパート、喫茶店、官庁、国際郵便局、動物園、市場、銀行、行きたくない日本大使館である。
 いかんなのは、大学が徒歩圏になく、バスで通わなければならないことだった。このころはまだ地下鉄がなかったのだ。
 ソウルの人びとは「むっつりした顔で歩きながら何か思索にふけっているみたいにみえる」。そのせいか、「私」はよく人とぶつかった。同じような顔や服装をしていても、自分は「その呼吸において全く異邦人だ」と思わないわけにはいかなかった。
 ソウルでは、教会、歩道橋、なんとか運動、口げんかに手鼻、防共防諜のスローガン、銅像が多かった。それにタバン(喫茶店)。歩き疲れるとタバンにはいる。
 タバンは日本の喫茶店のようにせせこましくなく、チマ・チョゴリのマダムがゆるりゆるりと店内を徘徊している。ただし、コーヒーは「木片を煎じでもしたかと思うような味だった」。
「朝のうちから夜遅くまでタバンに客の絶えることはなく、ソウルでの生活にタバンは欠かせないのだ。応接室であり、社交場であり、デイトの場であり、暖を取る場所である」
 ソウルはナグネ(旅人、流れ者)の町でもある。

〈夜の11時になってもひとびとはまだ街頭をさまよっている。用事があるでもなく、ゆらゆらと無数の影が商店の照明と自動車のヘッドライトのなかにゆれているさまは異様だ。かばんを持った中学生や高校生の姿も多い。夜学の生徒たちだろうか。〉

「私」は崔仁勲の『広場』という小説を思いだす。そこでは「運命の広場」にナグネたちが、深い喪失感とあてどない希求心をもって集まってくる。
 午後10時になるとKBS(韓国放送公社)は、こんな放送をくり返し流してていた。
「チョンソニョンヨロブン(青少年のみなさん)夜も更けました。今みなさんはどこでなにをなさっていますか。まだ用もなく、夜の街を歩きまわったり、友だちと遊んでいる人はいませんか。夜更けの街は、正しく健全に成長すべき青少年のみなさん方にとって、害になることはあっても、ためになることは少しも起こらないでしょう。さあ早く、父母兄弟の待つあたたかい家庭に戻りましょう」
 街には銅像がいたるところに立っている。「ソウルにはエグクチサ(愛国志士)も多けりゃ、ウグクチサ(憂国志士)も多い」
 銅像のなかでも、いちばん堂々としているのは世宗路の入り口に立つ李舜臣将軍。その足下に置かれた亀甲船は将軍の下駄くらいの大きさで、リアリズムからすれば小さすぎる。
 南山には、伊藤博文に天誅を加えた安重根の銅像がすみっこにある。日本人がその写真を撮っていると、背後の植え込みには「たいてい、不敵ともれんびんの笑いともつかぬ薄ら笑いを浮べたじいさん、ばあさんがしゃがみこんで日本人を見つめているだろう」。
 バスに乗ってみる。地下鉄はまだできていなかった。バス会社がいくつもあって、同じ路線を走っていたりする。バス料金は10ウォンと20ウォンとがあって、10ウォンのバスは乗るときに車掌に代金を渡す。ごまかしはきかない。乗客はいくらでも押し込むので、「朝夕のラッシュ時などには、あきらかに車体が膨張しており、うしろのバンパーは地面にくっつきそうに垂れ下がり、黒煙をはいてよろめき駈ける」。
 20ウォンのバスは観光バス式でラッシュ時を除いて、立ち席が認められていない。立っている人がいると、スンギョン(巡警)のいる交差点で、車掌が「アンジュセヨ、アンジュセヨ(しゃがんで、しゃがんで)」という。客の反応がないと、自分がしゃがみ込んでしまう。
 ソウルのバスで腹立たしいのは、乱暴な運転手が多いことだ。腕はいいのだが、ときどき罵声を発する。車掌(チャジャン)は15、16歳くらいの女の子がほとんどで、幼稚園児の上っ張りみたいなものを着用している。乗るときも降りるときも「パリ パリ」(早く早く)が口癖になっている。乗客をせかさないとアジョッシ(運転手のおじさん)の罵声が飛んでくる。しかし、そんな彼女たちも老人にはやさしく、「老人に手を貸して乗せてやったりする」光景もよく見かけた。
食事をしたり、人と話したり、本を読んだり、歩いたりするとき以外、「私」は風景ばかりみてくらした。
「サムソンビルと市庁の間をチョンノ(鍾路)の方へおちる小路から、この広い道路へ風が吹抜けてくると私の胸はふるえた」
 大学の裏山の何げない風景。木と冷気と青い空と山の背。
「山の背は空の領域を犯さず、木は空気の領域を犯さず、空気は木の領域を犯さない。それでいて毅然とした一つの調和した風景だ」
 そんなソウルの風景に「私」もとけこみたいと願った。最終結果はわかっている。「完全に拒絶された姿だ」。それでも「私」はナグネ(旅人、流れ者)として、しばらくのあいだだけでも、この町をさまよってみたいと思っていた。

nice!(8)  コメント(0) 

nice! 8

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント