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50年前のソウル遊学記──長璋吉『私の朝鮮語小辞典』を読む(2) [われらの時代]

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 ソウルの下宿では寝起きする場所がオンドルパン(オンドル部屋)になっていた。冬は外の気温がマイナス15度にもなるので、オンドルは欠かせない。床にヨンタン(練炭)がはいっていて、朝夕入れ替える。道には各家庭に練炭を配達するリヤカーが「カヨー、カヨー(どいた、どいた)」といいながら走っていた。
 オンドルパンの良さは、下の方から全面的にあっためてくれることだ。「凍った身体を床にぺったりくっつけてひっくり返った時の心地よさはこたえられない」
 ただし、堅い床に薄い布団を敷くので、寝心地はあまりよくない。
 オンドルのせいか、韓国のふつうの家は部屋がせまく、窓もちいさい。そのため密室的な雰囲気になる。そこに男女が相対すればどうなるか、と「私」はつい想像してしまう。
 それからキムチ。圧巻は冬場、白菜のキムジャン(キムチづけ)だ。寒くなりはじめる11月から12月にかけて、裏通りではキムチづくりがはじまる。
「この頃になると街中白菜だらけの感じになり、『テゲソン キムジャン ター ハショッソヨ』(お宅ではキムチはもうお済みになりました?)が主婦のあいさつことばになる」。キムチさえあれば、ご飯がすすむ。
 風呂好きの日本人にちょっとこまるのが風呂代が高いことだった。貧乏学生はつい週に1回ということになる。風呂屋には三助もいて、頼めば徹底的に垢を流してくれる。
「私」は下宿のおばさん(アジュマ)とよく市場(シージャン)に出かけた。ソウルには東大門市場、南大門市場、平和市場、中央市場などがあり、それぞれに特徴がある。
 アジュマが毎日出かける中央市場は露店が中心だが、ここに行けば、野菜、肉、魚、果物、雑貨、衣料その他生活必需品は、すべてとりそろえられる。
 最大規模を誇るのが東大門市場だ。生活必需品のほか洋服や韓服(ハンボク)の生地も売っている。頼めば、すぐに仕立ててくれる。
 トッケビシジャンと呼ばれる舶来品売り場もある。トッケビというのは、人をたぶらかす小鬼のこと。缶詰、お菓子、化粧品、衣料品、いろんなものがおいてある。
 市場の外には露店が並んで、道路を不法占拠している。ときどき取り締まりがあると、箱や洗面器を小脇にかかえたばあさんたちや、ふろしき包みをかついだおっさんたちが走りだす。取締係が通りすぎると、歩道はまた元の風景に戻る。いたちごっこだ。
 下宿に帰って晩飯が終わり、ひと息つくと、アジュマ(おばさん)の部屋にひとが集まってくる。日本人は英語の発音ができない、韓国人もおなじようなものだろうというような話で盛りあがったあと、ファットゥ(花闘、すなわち花札)でもやろうかということになる。「ファットゥは韓国が本場ではないかと錯覚をおこすほど、だれもがやるのだ」
 花札はもちろん日本の発明品だ。しかし、向こうではだいたい日本人があたらしいものをつくりだせるはずがない、と固く信じられている。「私」などは、大衆にファットゥなる健全娯楽を与えたのは、日帝支配36年の恩恵なのではないかと、言いそうになる。
 ファットゥにあきてくると、つぎはポドジュ(ぶどう酒)パーティだ。シンモ(お手伝いさん)アガッシがすごいミニなどといった、たわいない話がはじまり、歌が出て、トングム(通禁)時間になり、お開きとなる。旅館のドアが閉まり、シンモ・アガッシがオンドルの火を点検して回る。
 こんなふうに1日が暮れていくのだ。

 ソウルの観察学。
 街角に床几をだしてトジョンビキョル(土亭秘訣、運勢占い)を売っているじいさまがいた。その占い書で、いちばん多い項目は「口禍に気をつけろ」、その次が「クヮンジェ(官災)」に注意、それから「トモダチに気を許すな」、「外出はやめろ」とつづく。
 官災というのは韓国独特のわざわい。日本でもありそうだから、日本の易断もこの項目を採用したらどうだろうか、とぼくなども思ってしまう。
 このあたり、長璋吉ならではのキムチのように辛いユーモアが満載だ。
 人の悩みはつきないらしく、こうした占い屋さんのところにも、ときどき客がやってくる。しかし、ほんとうの占いの大家は大道などには出ず、居をかまえ、観相、手相、四柱推命学によって総合的な判断を下す。
「私」の下宿の二階にも、運命哲学の大家モーモ先生が住まわれておられ、近所のおかみさんやおとっつぁんの人生相談に乗っていた。だが、2、3カ月すると、さっぱり客足がとだえた。
 そのころを見計らって「私」はモーモ先生の部屋をたずね、運勢をみてもらった。恋愛中だなというのは大当たりで、相手は21歳の韓国人だというと、先生は相性が悪い、手を切れと託宣をくだした(しかし、どうやら「私」は手を切らなかったようだ)。
 その後、モーモ先生とは仲良くなって、アジュマ(おばさん)の部屋でいっしょに飲んだり、外の飲み屋にいったりもした。かれが高官の家に勝手にあがりこむときもついていった。
 しかし、モーモ先生の大言壮語は実現したためしがなかった。顔のシミ占いもあたらなかった。
「私」は金づるにはならなかったらしく、そのうち先生とのつきあいも途絶えてしまう。
 モーモ先生の後ろ姿は、どこか時代錯誤的で、哀愁をただよわせていた。

 ここで、日本人と韓国人のすれちがいを示すエピソードが出てくる。
 それは1969年10月のことだった。ソウルの梨花女子大で「題名のない音楽会」という日本のテレビ番組が収録されることになったので、これはチャンスとばかりに、「私」は胸をときめかせて女子大の門をくぐり、のこのことその講堂に出向いた。
 日本の司会者は黛敏郎だった。だが、その前に韓国で人気の若手アナウンサーが登場し、「隣国の日本からカクカクの番組がやってきて録画することになった、日本人はときには殺してやりたいと思うこともあるが、ともかくやることになったのでごらんください」みたいなことをいって、会場をわかせた。
 韓国の人の冗談はきつい。会場から笑いがおこると、韓国語のわからない「気の毒なマユツバ氏、いやマユズミ氏も嬉しそうに笑った」。

〈マユ氏は番組の終りに会場の人びともいっしょに「アリラン」の大合唱をと提案した。……38度線の北で、共産主義が自由社会を虎視眈々と狙っている現在、共産主義の侵略を防ぎ、民族の文化、伝統を守る抵抗の歌としてこの「アリラン」をいっしょに歌おうと鼻濁音のない日本語でかっこよく結ぶと、会場のそこここから拍手がパラパラと起った。〉

 拍手したのは、日本語のわかる老人だけで、しかもごくわずかの人だけだった。
 通訳は共産主義うんぬんのくだりを無視して訳さなかった。ただ「アリラン」をみんなでいっしょに歌おうといった。
 指揮者の石丸寛が登場し、棒を振りはじめた。だが、会場は応じず、重苦しい雰囲気がただよう。アリランは日本への抵抗の歌なのだ。

〈マユ氏のことばが完全に通訳されたとしても結果は同じことだったろう。日本に対する抵抗の歌をそうムザムザとマユ氏の手にかかって、共産主義の、ひいては北の同族への抵抗の歌にすりかえられてはたまるまい。しかもそれを日本人の指揮のもとで歌うなどとは、かなり間の抜けたやつでなければちょっと考えられない。〉

 人びとは歌わなかったわけではない。だれもが小さな声で歌っていたのだ。司会者にも指揮棒にも呼応せず、自分たちの歌をのみこむようにして歌っていたのだ。
 番組の収録が終わると、バックコーラスをつとめていた女子校の合唱団が紹介され、指導にあたっている先生が舞台に登場した。すると、会場からは大喝采がわいた。
「私」はその大喝采を聞きながら、会場を出た。そして「マユ氏も、この大喝采に追い出されたと感じたろうか、などと想像した。

 もうひとつは、たかられる話だ。
 ソウルの街を歩いていると、どこかで会ったような人を見かける。「オーイ、オーイ」と、韓国語で話しかけられることもある。
 その男は「やい、どうだい」とやってきて、握手を求めた。
 どうも見覚えがないが、向こうは「私」を知っているという。
 ふたりで喫茶店にはいった。そこでたがいに自己紹介をする。知り合いではないことがわかった。かれの左手がサリドマイド児のようにちいさくなえているのに気づく。そのころから、相手の声がダミ声に変わっていた。
 喫茶店をでてから、明洞(ミョンドン)のちいさな飲み屋にはいった。ナクチ(スルメに似たもの)と、唐辛子をまぶした野菜をつまみにしながら、アルマイトのやかんにはいったマッコルリを飲む。いろいろ話を聞かれ、適当に答えているうちに、相手は大阪の社長の息子に呼ばれて、もうすぐ日本に行くんだと話した。
 次の日も会って、こんどはメクチュ(麦酒)ホールに行った。大ジョッキをふたつ注文して、飲みはじめる。しばらくたつと、その男は、アメリカ人と英語でなにか話している学生たちのグループに「英語を少しぐらい話せると思って大きな面するな」とからみはじめる。
「私」はそれを何とかひきとめて、「ミアナムニダ(すみません)」を連発しながら、外に出た。
 そのあと、もう一軒クラブのようなところに寄った。かなり酔いがまわってきた。すると、かれは「私」ににじり寄ってきて、有無をもいわせぬドスのきいた声で、耳元で「カネをよこしな」とささやいたのだ。
「私」がためらっていると、かれはさらに「トーン ネーナラニッカ」(カネを出せっていってるんだ)と声を強めた。バス代の小銭を残して、有り金をおずおずと差しだすと、かれはそれを握りしめ、自分のポケットにねじこんだ。
「私」が帰ると宣言して、ヨロヨロ立ち上がると、「かれは、私のポケットからかれのポケットに居所をかえたカネで、さっきまでとはうって変ってみみっちそうに支払いを済ませた」。
 なぜか恐怖感はなかった。これも国際交流である。
 それから1週間後、ミョンドンのサヴォイホテル裏にあるサッポロラーミョン(ラーメン)の店の近くでも、その男と会ったが、軽くいなして相手にしなかった。
 数カ月後、退渓路(テゲロ)のバス停近くでも出会ったが、「オオ」と手を挙げただけですれちがった。かれの国際交流は相変わらずつづいているらしい、と「私」は思った。
 こんなふうにして、「私」はソウルの日常になじんでいく。

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