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工藤幸雄『ワルシャワの七年』をめぐって(2) [われらの時代]

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 ここではポーランドで実際に工藤が経験した1968年の三月事件と1970年の十二月事件にふれておこう。ともにゴムルカ(ゴムウカ)政権末期の事件である。
 どの社会主義国も同じだが、ポーランドの社会主義体制も党と政府への批判を許さない絶対秩序のうえに成り立っていた。
 いちおう民主主義がうたわれ、選挙も国会もあるが、それはかたちだけのものだった。国民は選挙で党の提出する選挙人名簿を承認し、国会は党の提出する議案を無条件で承認するだけである。労働組合も学生同盟もあったが、どちらも党の御用機関だった。
 加えて、内務省と秘密警察が、政府や党に歯向かう動きがないかと、しっかりと国民への監視をつづけている。アメリカの謀略を暴くスパイは、ポーランドでは英雄扱いされていた。
 1968年の三月事件は、ワルシャワ大学の学生たちが二人の学生が放校されたことに抗議し、集会を開いたことに端を発する。警察がそれを弾圧し、学生たちを逮捕した現場を、日本学科の講師をしていた工藤は目撃している。
 ワルシャワ大学の事件をきっかけに、ポーランドでは全国各地の大学で、警察の暴行に抗議する集会が開かれた。それにつづいて、学内占拠スト、授業ボイコットが広がった。それが収まるのは4月中旬になってからである。
 三月事件の原因はふた月前にさかのぼる。もともとは1月30日に、ナロドヴィ劇場で上演されていたミツキェヴィッチの詩劇『父祖の祭』が、当局の命令でとつぜん上演禁止になったことがきっかけだった。
 ミツキェヴィッチは19世紀ポーランドの愛国的国民詩人である。その『父祖の祭』にはモスクワを揶揄することばが数多く含まれていた。
 上演が禁止されたその夜、劇場から1000メートルほど離れたミツキェヴィッチの銅像まで、上演禁止に抗議するデモがおこなわれた。それに加わった学生のうち、西側メディアにそのことを話した二人に、党の監督下にある大学当局は放校処分をくだした。
 ワルシャワ大学の学生たち1500人は、その処分撤回を求めて立ち上がり、3月8日に大学構内で無届けの集会を開いた。これにたいし、大学当局は警察協力義勇隊に連絡して、強制的に学生たちを排除し、街頭デモにも弾圧を加えた。その後、全国で逮捕の嵐が吹きすさんだ。
 ゴムルカ政権は、芸術の自由を求める文学者や学生の弾圧を取り締まっただけでは終わらなかった。人民ポーランドへの忠誠を誓わないユダヤ人が背後にいて、この事件をおこしたのだと、デマ情報を流した。それは国民の批判を、政府からユダヤ人に転じるためのつくりごとだった、と工藤は断言している。
 われわれはここでポーランドのユダヤ人問題にぶつかる。ユダヤ人といえば、だれもがナチス・ドイツによって多くのユダヤ人が虐殺されたアウシュヴィッツの名を思い浮かべるだろう。アウシュヴィッツは(オシフィエンチム)はポーランドにあった。
 ポーランドとユダヤ人のかかわりは古く、9世紀ごろから連綿とつづいている。その歴史については省略する。ただ、ポーランドでも反ユダヤ感情が根強かったこと、そして嫌われ者のユダヤ人が金融と商業をになっていたことを頭に入れておいたほうがいいだろう。
 そのうえで、工藤は愕然とするほかない数字を挙げている。

〈ナチス・ドイツの犠牲となったポーランド市民はユダヤ人を含めて600万[当時のポーランドの人口は3000万人弱]、ナチス・ドイツが殺した諸国のユダヤ人の総数は510万にのぼりました。このなかでポーランドのユダヤ人は270万ないし300万を占めたとされます。……かろうじて生き残ったポーランド系のユダヤ人は、ポーランド国内で10−12万、ソヴェト領内で20万といわれます。最も多い数字でも、[ポーランドで]生き残ったユダヤ人は50万とされています。〉

 生き残った30万ないし50万のポーランド系ユダヤ人は、戦後、大部分がアメリカやイスラエルに流れた。しかし、三月事件当時も、まだ2万5000人から3万人のユダヤ人がポーランドに残り、その多くがジャーナリストや学者、作家、芸術家として活躍していた。なかには外交官や秘密警察の職員もいたという。
 三月事件を収拾するためにゴムルカがとった対策は何だったのか。それは政府を批判する文化人や学生を封じるために、労働者を祭りあげると同時に、大衆のなかにひそむ反ユダヤ感情をあおり、ユダヤ人を国外に追放することだった、と工藤は解説している。
 1968年の三月事件のあともポーランドでは社会の沈滞がつづいた。労働者世帯の生活は食べるだけでせいいっぱいだった。三月事件にかかわった知識人は投獄され、あるいは本の出版を差し止められた。「プラハの春」をつぶすため8月23日にワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻すると、ポーランドの闇はさらに深くなった。
 そして、しばらくして、1970年に「十二月事件」が発生する。
 工藤によれば、それは「70年12月、食品の値上げに反対する労働者の暴動が、グダンスク、グディニャ、エルブロンク、シチェチンなどバルト沿岸地方で燃えさかり、ゴムルカを退陣に追いやった事件」だった。
 事件に火をつけたのは、12月12日夜にとつぜん主要食料品の20%近い値上げが発表されたことである。その値上げが即日実施されると、14日から19日にかけ各地でストライキが巻きおこった。そして、その責任をとって20日に第一書記のゴムルカが辞任し、ギエレクが党の責任者になるという経緯をたどった。
 グダンスクでもシチェチンでも地方の党本部が焼き討ちにあって全焼したが、そのことは新聞では伝えられなかった。
 第一書記に就任したギエレクは1971年1月になって、グダンスクやシチェチンを回り、労働者と話しあい、事態の収拾にあたっている。
 いきなりの値上げ通告は、低賃金と劣悪な労働条件にあえぐ労働者の不満を爆発させただけではない。警察と党組織が一体となった権力機構、社会主義的管理体制、検閲とうそで固められた報道機関にノーをつきつける引き金となったのだ。
 十二月事件にさいし、工藤が東京の共同通信に送った生々しい現地ルポが残されている。
 工藤は12月末に、いずれもバルト海に沿ったグダンスク、そのすぐ北のグディニヤ、西のシチェチンを回った。
 グダンスクでは15日の放火で丸焼けになった地方党本部をみた。労働者のデモ隊に警察が発砲し、一人の少年が倒れたときに、暴動がはじまり、党本部が焼かれたのだ。
 グディニヤでは17日の朝に、少なくとも100人から200人が殺された。造船所の周辺にはぎっしりと戦車が並べられ、政府からは武器による鎮圧命令が出されていた。造船所では450人が首切りを宣告された。抗議する群衆は、石を拾っては戦車の列に投げつけた。これにたいし、警官隊は発砲したのだった。
 シチェチンでも地方党本部、警察署、市役所が黒焦げになっていた。少なくとも50人から100人の労働者、市民が殺された。「ここでも造船所の工員のデモからすべては始まった。ここでも労働者代表の要求に当局が敵意で対抗したのが事態に火をつけた」
 党本部付近で暴徒と警察がわたりあっている最中に、店が襲われた。「戦車と警察が街を制圧するまえに、狂った大衆はその夜、おそくまで略奪し、放火して回った」
 当時、日本ではポーランドの三月事件や十二月事件に注目した人はあまりいなかったのではないかと思われる。大学生のぼくも、ポーランドでそんなことがあったとはまるで気づかなかった。
 しかし、この一連の事件は、いま考えれば、ソヴィエト型社会主義が崩壊する前兆だったといえる。
 工藤は事件から数年後に党の機関紙に「寛容について」と題する論説が掲載されていることに注目している。そこには、こう記されていた。

〈寛容は、実力と強さの表れである。実力ある文化が、かつて閉鎖的であったためしはない。それは常に開かれており、他の価値観に対して寛容であるうえに、それらの価値観を同化してきた。〉

 しかし、これもいま考えてみれば皮肉な論説にちがいなかった。寛容こそが社会主義体制を爆砕する導火線だったのだ。いや、社会主義体制にかぎらない。スネに傷もつ強権政権は、つねに寛容を恐れるものなのである。

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