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コミューンと革命──新島淳良『私の毛沢東』をめぐって

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 早稲田大学教授の新島淳良(1928〜2002)は、文化大革命中の毛沢東の発言を集めた『毛沢東最高指示』という文書を手に入れて翻訳し、1970年1月に日本で出版した。そのことが中国当局の忌諱にふれ、新島はまもなく予定されていた6度目の中国訪問を拒否されることになった。そればかりではない。日中友好を掲げる団体や親中派の学生から総攻撃を受けたのである。
 そのことに嫌気がさした新島は、友好団体から離れて、次第にヤマギシ会に接近するようになる。1971年5月にヤマギシズム特別講習研鑽会に参加している。そして、ヤマギシ会に農村コミューンの可能性をみた新島は、1972年12月に地位や財産を捨て、家族ともどもヤマギシ会にはいった。
 ヤマギシ会での生活は、それまでの毛沢東観、中国観を変えさせたという。だが、次第にヤマギシ会に批判的になった新島は1978年に妻子を残してヤマギシ会を去り、新しい女性とともに東京で私塾をはじめる。だが、その女性の死とともに、1993年にふたたびヤマギシ会に戻り、そこで穏やかな晩年をすごしたとされる。
 新島がヤマギシ会に接近し、ヤマギシ会にはいってから、いったんヤマギシ会を離れたころに書いた毛沢東論、中国論を集めた作品が『私の毛沢東』である。1976年に毛沢東は死に、文化大革命は終わっていた。なお、村上春樹の『1Q84』には、新島をモデルにした人物がえがかれている。小説では、少女「ふかえり」(深田エリ)の父親は、元大学教授の深田保で、「さきがけ」というコミューン組織をつくったことになっている。
 大学の落ちこぼれだったぼくは、ほとんど授業に出なかったから、新島の講義も受けていない。ただ、大学時代、唯一、大学教授と話を交わしたのが新島淳良だったことを覚えている。それは何かの集まりのときで、ほんのひとこと、ふたことで、話した内容は覚えていない。ほほえみをたたえながら、きらりと光る目が印象的だった。
 新島とちがって、あのころぼくは吉本隆明の影響が強く(竹内好にひかれていたにもかかわらず)、毛沢東をスターリンと同じような独裁者ととらえていた。新島のように毛沢東にほれこんでいたわけではない。しかし、その新島も毛沢東にたいするイメージを次第に変えていく。1979年に出版された『私の毛沢東』には、その痕跡が刻まれている。

 1970年に『毛沢東最高指示』を出版し、中国当局からにらまれる直前、新島は毛沢東思想について、次のようなとらえ方をしていた。
 偉大な思想家というものは、これまであたりまえと思われてきたことに疑問を発し、それに解答をあたえ、じっさいにそれを解決する道筋を示した人をいう。その意味では、毛沢東はマルクス、レーニンを継承し、あらたな創造を加えた偉大な人物ということができる。
 つまり、新島は毛沢東を権力者である以上に、マルクス、レーニンを継承した偉大な思想家ととらえていたのである。
 新島によると、毛沢東は中国がロシア革命の経験をうのみにせず、独自の道を歩まなければならないと考えていたという。
 だが、レーニンからは多くのものを受け継いでいる。たとえば、プロレタリア独裁が長期にわたるという考え方である。
 プロレタリアート独裁国家を維持するためには、前衛としての共産党が国家を指導しなければならない。プロレタリアートの精神で教育された強力な軍隊も必要になってくる。
 だが、毛沢東がつけ加え、変更したものも多い。とりわけ重要なのは、大衆こそが革命の主体という考え方で、エリートではなく、大衆を強調するのが毛沢東思想の特徴といえる。ここから日常生活の革命化、革命の日常化という考え方がでてくる。
 毛沢東は目に見える実践の変革を求める。正しくない実践から正しい実践へと、主観能動性を発揮することが重要だった。そのためには読書より生産活動や革命活動を選ぶこと、頭脳労働より肉体労働を選ぶことが求められた。それが大衆路線に立った作風というもので、こうした正しい実践をつづけることによって、現実の社会を変革できると考えた。
 そのうえで、毛沢東は人民公社=コミューンを構想した。人民公社こそが共産主義への移行をもたらす組織形態だと考えられた。とりわけ重視されたのが農民である。「毛沢東思想においては、決定的に農民・農業を主とするという、マルクス主義として決定的な転換」がおこなわれた、と新島はいう。
 新島は、こうした毛沢東思想に共感をおぼえ、こう話している。

〈[日本で]高度に資本主義が発達した、ということは、自分では食べものをつくらない階級がものすごく多くなったということを意味するのです。その都市人口を農村にもどす──中国ですら、そのためにプロレタリア階級文化大革命を必要としたのです。そのおかげで、若い人たちが何百万と隊をくんで農村に「下放」し、尻をおちつけようとするようになったのです──その巨大な革命をやりつづけている毛沢東思想の中国から学ぶべきことは山程あると思います。〉

 革命の物語と現実の歴史はことなる。実際の文化大革命も語られたものとはかけ離れていた。農家生まれでないぼくは、みんなでつくったものを、みんなで食べて、楽しく暮らすというコミューンの物語に、はじめからうさんくさいものを感じていた。だが、新島は真剣だった。それを実践してみせるのである。

   *

 中国訪問を拒否され、国内の親中派グループからの集中攻撃にさらされるなか、新島は1970年秋に「毛沢東思想者十戒」というエッセイを発表する。みずからを毛沢東思想者と定めたうえで、日本では中国のような革命は成立しないと論じた。
 日本には革命の主体となるようなプロレタリア階級も農民階級もいない。あるのは、一体となって帝国主義的戦争を推進してきた日本民族だけだ、と新島はいう。
 日本では中国の農民蜂起のような全国的規模の闘争が一度もみられなかった。日本にあったのは血縁・地縁共同体と仲間や「家」の思想だけで、それが利害の一致した全国的な集団をつくることはなかった。
日本には階級の観念はあるが、その実体はない。労働者、農民、小市民は、村や企業、仲間をつうじて支配階級に連続してしまい、民族的無責任体制の維持に一役買ってしまう、と新島はいう。
 日本では階級がないから、したがって労働者階級の党をつくることができない。日本の近代政党は、部落や家から離脱した自由人(インテリ)によってつくられており、共同体にしっかり結びついている諸個人をつかんではいない。しかも次第に日本の党自体がムラ化して、忠誠の対象となってしまっている。そこには、毛沢東にとってはなくてはならない存在だった革命政党としての共産党が生まれる余地がない。
 日本の大衆は、多くが政府の恩恵を受け、明治以来、植民地支配に参加し、侵略戦争に参加した経験をもつ者が多い。しかも、朝鮮戦争以降は、高度経済成長による急激な物質生活の向上を経験している。だから、日本では大衆路線が成立しない、と新島はいう。
 毛沢東思想にとっては、どのような大衆に依拠しているかが大きな課題だった。農民や労働者に依拠していない左翼政党はニセモノであり、日本でははたしてそんな党があるのか、と新島は疑う。
毛沢東は革命には党と統一戦線と武装闘争が要だといった。
 統一戦線が必要なのは、ひとつの目標に向けて、さまざまな労働者を代表する複数の党、あるいは非プロレタリアートを代表する党が連合を組まなければ勝利を得られないからだ。しかし、日本では左翼政党は政治屋やプチブルの集まりにすぎない。そんなところに統一戦線が生まれるわけがない。
 武装闘争も同じである。中国とちがい、日本では敵がはっきりしておらず、それはしばしば抽象的な機構にすぎない。そのため武器で倒すことはできない。
 そのうえ、日本の民衆は長らく武器をもつことを禁じられてきた。戦争従軍の経験のある兵士を除いて、武器をあつかうことができない。そこで武装闘争といっても、せいぜい機動隊が相手で、軍隊にはとても歯向かえず、けっきょく内ゲバや火焔瓶を投げる程度で終わるのが関の山である。
 また日本ではしばしば異論が排除され、むりやり「統一と団結」がはかられ、それにさからうと破壊者、ないし敵とされてしまう傾向がある。そのことが、自由な論議を妨げてしまう。
 日本では革命的実践はなしえず、国際連帯のかけ声もむなしいと悲観論がつづく。
 さらに問題は、日本の親中組織や団体が中国から多くの資金援助をもらっていたことだ。友好商社や招待旅行のかたちで、さまざまな便宜も供与してもらっている。こうした実態を新島は告発する。
 革命が不可能だとしても、それでも日本の毛沢東思想者にはやれることがひとつある。それは日中国交回復のために努力することだ。中国語を普及したり、中国研究を充実させたり、日本のことを中国に伝えることもだいじだ。毛沢東思想の学習が必要なのは、それによって、中国の鏡に映された日本の否定的な本質、醜悪な姿に向き合うことができるからだ、と新島は論じている。
 このころ新島は日中友好団体や組織に嫌悪をいだいていた。毛沢東思想をかかげるひとりよがりの新左翼集団にも絶望していたといえるだろう。それでもけっして毛沢東思想者であることをやめたわけではない。毛沢東が最終目標とした「大同世界」の実現に向けて、自分もそれなりの努力を傾けられるのではないかと思っていたのである。

   *

 1972年12月にヤマギシ会にはいってからも、新島淳良は毛沢東を読みつづけていた。それでも少し距離をおいて、毛沢東について考えはじめるようになる。中国にたいする考え方も少しずつ変わってきた。
 1975年には雑誌『現代の眼』に、23歳の毛沢東が1917年に書いた論考「体育の研究」を紹介している。もはや革命ではなく身体がテーマになっていた。
 体育とは文字どおり、からだを育てることである。それは生命を養う道であって、むりやりからだを動かしても、精神が苦しければからだも苦しくなるだけだ。したがって、体育をいうにあたっては、まず自発からはじめなければならない。「動くということは、わが生(いのち)をやしない、わが心を楽しくすることに尽きる」と毛沢東はいう。そして、からだがまっとうになって、はじめて知識がまっとうになる。
 楽しく、たゆまず運動をつづけることがだいじだ。そして、その運動は短い時間でも全力を投入すべきで、蛮と拙を尊ぶべきだとも述べている。
 新島はヤマギシ会で活動するなかで、この毛沢東の「体育の研究」を尊重し、「いま私たちがやりはじめているヤマギシズム幸福学園の運動は、その現代の養生の道といえる」と書いている。
 新島は現代の過剰エネルギー社会を批判する。エネルギーが過剰になり、自分たちが消費できないほどの大量の物が生みだされ、過剰人口が生じ、人がより物質的な豊かさや多くの情報を求めるようになると、戦争や革命、国家のはてしない膨張が生じるという。
 そうした趨勢のなかで、学校は子どもたちに力のあること、強いこと、知識量の多いことがよいことだといった価値観を吹きこんでいる。体育とスポーツは同一視され、より強い身体とタイムやテクニックを競う見世物になりさがっている。政治家も資本家も宗教家も過剰エネルギーのかたまりのような人物ばかりだ。
 新島はもう革命はよそうという。革命をやめることこそが革命なのだという。いるのかいないのかわからない人間こそが、これからの新しい人類なのだ。一人ひとりが、毛沢東のいうように「主観を変え」、「わが生をやしない、わが心を楽しくする」平凡な道を実践することこそ、幸福への道なのだと書いている。ここには革命家毛沢東はもういなくなっている。

 そのいっぽう、1976年9月号の『現代思想』に新島は「毛沢東思想と戦争」という論考を発表している。毛沢東がいかに優秀な戦争指揮官であったかが論じられている。
 1927年に秋収暴動をおこし井崗山に立てこもって以来、毛沢東は文化大革命をへて死に至るまで、軍事指導者の地位を手放すことなく、常に中国で勝ち残ってきた。毛沢東は戦争の達人だった、と新島はいう。人間を揺り動かすことが得意であり、その意味で、毛沢東思想は戦争の哲学でもあった。
 毛沢東によれば、戦争の目的は「自己を保存し、敵を消滅させる」ことだ。敵の消滅とは、敵の抵抗力を奪うことであって、かならずしも敵を肉体的に抹殺することではない。そして、その戦争は、いわば階級がなくなるまで永遠につづくと考えられていた。
 戦争は敵味方双方の利害が対立している状態において生じる。しかし、小さく弱い味方が、大きく強い敵に勝つ場合があるとしたら、それはどういう場合か。毛沢東によれば、それは味方に大衆の支持が集まり、敵を分断して各個撃破できる場合にかぎられる。
 戦略的防御から戦略的反攻へと、逆転を起こさせる主体は軍隊ではなく、あくまでも大衆、中国の場合は農民大衆だった。毛沢東は「戦争は大衆の戦争である」という。
 人民大衆と敵のあいだでは、どちらが主導権をとるかが重要である。もし人民大衆が主導権をとるなら、いかに強大な敵であっても、大から小に転化し、次第に滅亡していく。小さく弱い味方は、個々の戦闘、個々の戦役で勝利を積み重ねることによって、局面を逆転させ、強大、優勢な敵を打ち破ることができる。その持久戦を戦ううえで、かぎとなるのは、革命的人民を信頼し人民に依拠することなのだ、と毛沢東はいう。敵の力が大きければ、党と軍が人民のなかに退却できるかどうかが、持久戦のポイントなのだった。
 連合赤軍は毛沢東思想に依拠していたといわれるが、新島にいわせれば、それは何もわかっていない観念的極左の悲喜劇なのだった。
 毛沢東は根拠地理論を確立した。それは実力の少ないものが実力をたくわえていくための方策だった。根拠地ではゆるぎない党の方針のもと、正規の赤軍が正しい情勢判断にもとづいて行動することが求められた。さらにいえば、根拠地は食料生産基地でもあり、補給なくして軍は成立しないのだった。
 毛沢東思想のなかには「いかなる人でも誤りをおかす」という見方があるという。それは善玉と悪玉を二分する考えではなく、だれもが自己改造すれば、正しい立場に立てるというのである。これは内ゲバの論理を超える深い人間主義だと新島はいう。だが、「正しい立場」が先験的に定められている場合は、人間改造は拘束と抑圧、監視につながる思想になりかねない。
 新島にとってヤマギシ会は革命なき日本での農村根拠地のようにとらえられていた。それは党や軍がなくても、自然に広がっていく未来のコミューンのひな型なのだった。

   *

 1976年9月9日、毛沢東は亡くなる。それを追悼するために、新島は立て続けに雑誌に3本の論考を寄稿した。
 それをまとめて読んでみることにしよう。
 毛沢東とはどういう人物だったのか。新島はこう書いている。

〈毛沢東は、集団の戦闘の卓越せるリーダーであり、集団の戦闘経験の要約者、その理論家だったのである。毛沢東思想とは、なによりもたたかう集団が、集団的に形成した思想なのである。〉

 1927年に毛沢東は秋収暴動をおこし、失敗する。そこで、700人の集団とともに井崗山にこもり、そこを根拠地とした。その集団は、おなじく失敗に終わった約3万の南昌蜂起部隊(生活集団)を吸収して、大きくなっていった。
 1931年には中華ソビエト共和国臨時政府が樹立され、コミンテルン派遣の指揮官のもと、毛沢東の指導権は奪われれしまう。だが、国民党の包囲により、脱出と長征がはじまると、毛沢東の威信が高まり、1935年の遵義会議で、毛沢東が全軍の指導権を握った。
 その後も党内対立はつづくが、抗日戦争がつづくなか、毛沢東は1942年の整風運動で政敵の王明を追い落とし、1945年の中国共産党第7回大会で中央委員会主席となる。この時点で、延安を根拠地とする中国共産党の党員数は121万人、八路軍・新四軍は130万、解放区人口は9500万に達していた。
 中国共産党とは毛沢東思想集団にほかならなかった。その集団の指導権を保つため、毛沢東は常に戦いつづけ、多くの反対者を蹴落としていった。
 毛沢東思想集団とは、武装せる戦闘集団であり、生活集団でもあり、教育・宣伝隊でもあった、と新島は書いている。そして、ブルジョワを寄せつけないこの思想集団が、蒋介石の国民党を台湾に追いやり、1949年に中国全土を掌握することになる。
 ここで、新島は戦国時代に儒家を批判しながら戦いつづけた墨家集団を想起している。非攻(防衛)を唱え、統一を求め、天帝鬼神を尊んだ墨家の思想は、その後、法家の思想に吸収されていくのだが、毛沢東思想集団には、墨家集団と似ているところがある、と新島はいう。
 墨家集団には巨子が必要だった。巨子とは絶対的な権威をもつ最高指導者である。その巨子は世襲ではなく、尚賢の原則によって選ばれていた。
 新島はいう。

〈一人の「巨子」をいただき、「墨経」にも比すべき『毛主席語録』を日々に誦し、そのメンバーはみな党主席のよき学生たらんことを期している。すなわち「尚同」である。その人事は血縁によらず、すなわち「尚賢」である。基本建設のため「増産節約」の大運動が提唱され、上位者・為政者のぜいたくは一切みられない。すなわち「節用」「節葬」である。大々的に孔子批判をおこなっている。すなわち「非儒」である。そして彼らは旧中国数千年来の旧秩序・貧富貴賤の差を一挙にひっくりかえす「革命」を遂行しつつある。すなわち「非命」である。このように見てくると、現在の毛沢東集団は、天下統一に成功した現代の「墨家集団」のように見える。〉

 とはいえ、マルクス主義の衣装をまとっている毛沢東思想には、墨家のような鬼神や天志への崇敬はなかった。それに代わるものが「法」だった。
 毛沢東自身は、戦闘者集団の「巨子」という意識を持ち続けていた。「党幹部たちからみれば、何十年もかかってきずきあげた国家組織と党組織を、紅衛兵をつかってメチャメチャにしてしまう毛沢東は困った存在」だった。かれらは毛沢東の「自然死」を待ちわびるようになっていた、と新島はいう。その毛沢東はようやく死んだ。これからは党幹部が自由に中国を支配できる時代になったのだ。
 だが、大同世界、すなわちコミューン世界を求めつづけた毛沢東の思想は、毛沢東思想集団の外で、つまり自分たちのなかで革命的にうけつがれていくだろう。それが、新島の毛沢東への弔辞だった。

 新島によれば、毛沢東には伝統的思惟(思考様式)が強く、みずからを墨家だけではなく、同じく反儒家である法家の流れに位置づけようとしていたという。
法家の思想は、単に法を定めるだけでなく、この法をおこなう官吏を任用し、その実績を問うというものだ。儒家のように徳の高さや家柄で人を選ぶのではなかった。
 新島は「一九六六年のプロレタリア文化大革命の勃発から毛主席の死に至る十年間は、十億の規模で、儒家的な政治のあり方から、法家的な政治のありかたへの転換、過渡期であった」と論ずる。すなわち客観的な法(とりわけ毛沢東思想)にもとづいて、党内や軍だけではなく、人民公社や工場でも幹部が再点検され、社員、労働者が自己点検をおこなう制度が確立された。理論(言葉)と実践の一致が求められた。
 矛盾(矛と盾)という概念の出典は法家の『韓非子』。ヘーゲルのいう弁証法での矛盾とはことなる。韓非子は絶対的な君主と絶対的な賢者との関係を矛盾ととらえ、暴力だけでも、知恵だけでも国は治まらないとした。国を治めるには、客観的な法にもとづき、権勢を手放さねないことが重要だった。ここから憲法にもとづいて、プロレタリア独裁を維持するという考え方がでてくる。毛沢東思想と韓非子は近い、と新島はみている。

 新島は毛沢東には神秘好み、超越的で常識はずれのところがあったとも書いている。それが、かれを詩人にしたゆえんだ。毛沢東の詩には神仙や神女、神話や伝説の人物がよく登場する。
 しかも、毛沢東は型破りの道化でもあった。傲岸不遜、無組織、無規律をもいとわない「いたずら者(トリックスター)」だった。
 新島は「私は毛沢東が一身にして「トリックスター」=フールの役割と王権の役割を兼ねた『文化英雄』だと考える」と書いている。そして、その毛沢東が生みだした分身(集団的フール)が紅衛兵なのだった。
 だが、新島はけっして紅衛兵運動を否定したわけではない。「私は、文化大革命が、単なる権力闘争に終わらなかったのは、いわば一見無規律に見えるこのような[ばかな]行動があったからこそ、中国の現体制は万人の幸福な生の実現という共産主義の根本理念からの、ラジカルな批判の光に照らされることができたのだと思っている」と書いている。
 新島のなかで、毛沢東は中国四千年の呪術文化を背負った「神」としてすでに遠望されるようになっていた。毛沢東は戦争を勝ち抜き、戦国の世を統一した、秦の始皇帝のような文化英雄だった。だが、新島がかつて毛沢東に感じていたコミューンの夢は、すでに中国から失われようとしていた。

   *

 1978年春、新島は妻子を残したままヤマギシ会を出た。中国もヤマギシ会も変質してしまったと感じるようになっていた。そのとき書いたのが、本のタイトルにもなっている「私の毛沢東」である。
「たしかに、勝利した権力者の毛沢東がいる。しかし私の毛沢東はコミューンの夢を追いつづけて格闘した一人のマトリストなのである」と新島は書く。マトリストとは何かはさておき、先に進む。
 毛沢東は人類史上空前の権力を握った。だが、毛沢東は中国史上ではじめて子に権力を譲らなかった権力者である。
 毛沢東は息子の毛岸青を厳しく教育し、モスクワから戻ってきたあとも、農民と一緒に生活させて、農業を学ばせ、それから義勇軍として朝鮮戦争に送りこんで死なせた。親としての愛情がなかったわけではないだろう。
 新島は大学教授の職を捨て、妻子とともにヤマギシ会にはいり、農業に従事した。その後、息子は百姓をやるというようになった。
 ここでマトリストの説明がはいる。マトリストという概念はラトゥレット・テーラーの『歴史におけるエロス』から借りたもので、それほど知られたものではない。
新島によると、毛沢東は極端なマトリストで、強力なハード・エゴの持ち主だったという。
 マトリストは、母親志向で、叛逆と欲望の解放を志向する人のことである。ハード・エゴとは自分を決して曲げない権力者的な性格を指す。その方向は暴力と性の噴出である。
 ちなみに、マトリストの反対はパトリスト(父親志向)で、要するに権威主義者である。ハード・エゴにたいしては、けっして腹を立てぬ、おとなしいソフト・エゴの持ち主がいる。テーラーによれば、人間の性質はこの4つの要素の組み合わせからなるというわけだ。
 こういう心理学的分類にどれほど意味があるかはわからない。ともかく、新島は毛沢東がマトリストでハード・エゴの持ち主だったという。
 毛沢東は中国の家父長制社会の掟に叛逆し、中国史上はじめて子に権力を伝えない王朝を築いた。だが、権力者である毛沢東はコミューンというものを権力者的にしか理解できなかった、というのが、ここでのポイントである。
 毛沢東にとって革命とは政治形態としてのコミューンをつくることだった。それが人民公社である。だが、その試みは挫折し、そこから巻き返すために毛沢東は文化大革命を発動した、と新島はみる。
 毛沢東はコミューンの夢を追いつづけた。コミューンには給料はなく、あくまで供給制によって運営される。日常必要な物資はすべてコミューンによって供給される。生活はだいたいが平均的、食事は公共食堂で食べ放題、子どもはみんなで面倒を見る、教育費や老後の心配はいらない。毛沢東の唱えたこうしたコミューンを、日本ではヤマギシ会が実現しようとしてきた、と新島は思っていた。
 だが、新島がヤマギシ会を離れたのは、そこに政治(そしておそらく宗教)があったからだという。ヤマギシ会は収入を得るために、都市住民の需要に応える農業法人としての性格を強めるようになった。そのため多くのメンバーが1日に15時間も働かされていた。その奴隷労働を管理するための監視や、本人の意向を無視した人事配置もおこなわれた。養鶏の機械化も進んでいる。ヤマギシ会が消費者の圧力によって変質していくのに、新島はたえられなくなった。
 それは毛沢東批判にもつながった。毛沢東はコミューンの夢を求めつづけたにもかかわらず、コミューンを政治形態、つまり国家の下部組織ととらえていた。毛沢東の死によって、人民公社の夢はついえた。文革に「終結宣言」が出されると、鄧小平のもとで中国の国家主義化が進められていく。「四つの現代化」は、まさに反コミューン的な政策だ、と新島は断言する。
コミューンはほんらい政治とは無関係なものだ、と新島はいう。

〈生活とは、食べ、着、住み、ねむり、排泄し、性交し、子を育て……ということだが、その核心はいうまでもなく食べものをつくるということである。そのためには、人はひとりで自然の循環のなかにはいるのではなく、群れをつくって食べものを採集し、育てるのである。そこでは政治は必要ない。政治の生まれるはるか以前から、政治がなくなるはるかな未来をつうじて、ヒトの生活はじつはコミューンにおいていとなまれるのである。政治は、この、食べものをつくることをしないで、この共同体の外にはじきだされた者が、つまり都市の人間が、食べものをつくらせようとしてやることなのだ。〉

 ヤマギシ会を離れてからも、そんなことを考えていた。

   *

 毛沢東死去から2年後の1978年、日中平和友好条約が結ばれ、鄧小平が来日した。そのころ、ヤマギシ会を離れていた新島は、雑誌『諸君』の求めに応じて、「文革とは何であったか」という一文を草した。
文革の最盛期、1967年から69年にかけ新島は4度にわたり訪中し、紅衛兵たちが活動する現場に立ち会った。闘争大会や武闘も目撃している。なにやら敗戦直後の熱い時代と似ていると思った。「私は紅衛兵たちの眼の輝きに私の青春を見た」と書いている。これは、日常性の割れ目から噴出した巨大な「祭」なのではないか。そして、これこそ運動としてのコミューンなのだと感じた。
 文革で躍り出た紅衛兵は7000万にのぼる。かれらを学校から解き放ち、教師や党・政府の指導者、元資本家、元地主へのあからさまな攻撃を許したのは、毛沢東だった。ただし、毛沢東自身も紅衛兵があれほど暴れるとは思っていなかった。
 紅衛兵を突き動かしたのはコミューンのイメージだった、と新島は書いている。無産階級である「公」が資産階級である「私」を打倒するのだという意識が強かった。
 1967年1月には上海で労働者、学生が蜂起し、上海人民公社(上海コミューン)が誕生する。その3月に訪中した新島は、新しいコミューン国家が成立しようとしていると感じ、文革を支持する文章をたくさん書いた。
 だが、あとから考えてみると、コミューンと国家は相容れず、「中国で実際におこったことは、むきだしの権力闘争でしかなかった」ことに気づいた。
 それから、新島は中国研究をやめ、大学研究をやめて、ヤマギシ会にはいった。学校へ行かない子供のための塾をつくろうと思っていた。
 鄧小平がふたたび登場して以来、中国は国家主義の道をたどるようになった。コミューンを支持する新島はそのことを批判している。コミューンには、公安や監獄、労働改造所、検察官や裁判官はいらないはずである。ところが、中国ではいま、だれもに記録がつけられ、進学、就職、入団、入党にあたっても、その記載をもとに判定がくだされるようになっている。
 新島は第三世界の盟主として外交を展開していくという鄧小平の主張を批判する。「四つの現代化」にも反対する。そこには文革のころとは真逆の国家主義しかみられない。国家主義のもと、人民は単なるレッテルとなった。「中国は革命からもっとも遠い国になった」と新島はいう。
 新島が求めるのは、国家主体ではなく、人民主体のコミュニズムである。
「コミュニズムのもうひとつの意味は、コミューンのイズム、すなわち、直接民主主義が実行できる小さな共同体(コミューン)を、自力でつくっていこうという思想・運動ということである」
コミューン主義の立場に立てば、国家は虚妄となる。
 鄧小平の推進する「四つの現代化」は、農業、工業、国防、科学技術を資本主義的に発展させようというもので、そこにみられるのは国家をいかに強大にするかという視点でしかない、と新島は批判する。
 文革は終わった。だが、新島のなかで文革は残っていた。
 毛沢東がまちがっていたのは、コミューンと国家を結びつけようとしたためだ。「われわれが中国の失敗から学ぶ教訓は、国家と絶縁しなければコミューンはなが続きしないということである」と新島はいう。
 だが、毛沢東時代の実態は、その後、次第にあきらかになっていく。

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