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加藤典洋『戦後入門』を読んでみる(1) [われらの時代]

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 戦後とは何か。いまも戦後はつづいているのか。ある意味では、そうだともいえるし、別の意味では、戦後はすでに終わっているともいえる。
 それは日本でもヨーロッパでも同じである。戦後というからには戦前があるはずで、日本の場合、戦前というのは、第一次世界大戦後から第二次世界大戦までのあいだ、すなわち戦間期を指すとみるのが妥当だろう。あるいは、もっと枠を広げて、敗戦までの時期を戦前と呼んでも許されるのかもしれない。その期間は30年に満たない。
 すると戦後はいつまでということになるのだろう。2020年時点で、戦争が終わってから、すでに75年以上が経過している。いやな言い方をすれば、戦後は戦間期とも戦前とも理解できるのだから、次の戦争がはじまるまで、戦後はつづくことになる。すると、戦後は未確定の歴史区分ということになる。はたして、戦後はいつまでつづくのだろう。いつまでもつづいてほしいという願いはある。いっぽう、歴史は残酷で、いつまでその願いがつづくかわからないとの悪い予感もうごめく。
 2020年が戦後75年にあたるとすれば、敗戦から75年前は1870年である。まさに明治維新のころ。この尺度をくらべると、いまの戦後がいかに長いかがわかるだろう。大きくいえば、このふたつの時代は、戦争と平和の時代、明治憲法体制と新憲法体制の時代と区分けすることもできる。
 しかし、ぼく自身の感覚からすれば、日本の小さな戦後は1970年代はじめに終わったという気がする。日本が独立を回復し、日米安保条約が結ばれ、経済が復興し、東京オリンピックがあって、日韓条約が締結され、万博が開かれ、沖縄が返還され、日中国交回復が実現する。もちろん万全ではないけれど、これによって、アジア・太平洋戦争の処理がいちおうすんだ。その時点で、小さな戦後は終わり、不安に満ちた新しい時代がはじまったといってもよいのではないか。
 だが、小さな戦後はともかく、大きな戦後は終わっていないというべきだろう。それは日本国憲法(新憲法)と日米安保体制によって枠づけられる戦後である。この枠組みは、それぞれの内容ばかりか、構造からしてもねじれている。そのねじれた関係が強く意識されたのは、昭和が終わったときだといってよいだろう。いまもその大きな戦後をどう終わらるか、どう超えるか、あるいはどう維持するかをめぐって、日本国内の論議はばらばらに割れている。加藤典洋(1948〜2019)の『戦後入門』は、入門という気楽な体裁をとってはいるものの、そこに一石を投じた問題作だった。
 少しずつ読んでみたい。

 対米従属を終わらせて、戦前に戻るのではなく、憲法9条を基軸とした「新しい戦後」をつくろうというのが、加藤典洋の基本的な考え方といってよいだろう。
 だが、そう言い切れば終わりというものでもない。だいじなのは、そう考えるにいたった経緯を知ることであり、それによって、問題の奥行きや複雑さがみえてくるのである。
 1985年に刊行された『アメリカの影』(1985)で、加藤は戦後日本の対米従属問題を取りあげた。対米従属の背景には、1951年のサンフランシスコ講和条約が日米安保条約とセットになっていたことがある。それによって、1952年に日本がふたたび独立をはたすとともに、米軍の駐留が永遠に認められることになった。
 しかし、対米従属の現実は高度成長とともに、いわば後景にしりぞき、「内面化」されていった、と加藤は書いている。内面化とはアメリカとの親和が進んだという意味である。アメリカは抑圧者ではなく、あこがれの対象と化した。それにいらだったのが三島由紀夫であり江藤淳だった。
 江藤にいわせれば、戦後とは対米従属を見て見ぬふりをする虚妄の時代にほかならなかった。だが、江藤は左翼のようにヤンキー・ゴーホームとはいわない。アメリカとの友好関係なしに、日本はやっていけないことを知っていた。知ったうえで、日本の自尊心を取り戻せと主張した。
 その象徴となるのが、憲法9条2項を削除し、日本の交戦権を回復することだと思われた。それは、かならずしも日本が戦争への道を歩むことを意味しない。むしろ憲法改正によって日本は主権を回復し、アメリカと対等な同盟関係を結ぶことができるというのが江藤の考え方だった。
 そのとき、安保条約と地位協定は廃棄されなければならない。駐留米軍にも出ていってもらわなければならない。だが、アメリカはこの要求に簡単に応じるだろうか。もし応じなければ、日本は核武装による自主防衛に踏み切らざるをえない。そうなると、これはとうぜん親米路線から反米路線への転換となり、日本は国際的に孤立するほかない。戦前への逆戻りである。そのジレンマをかかえたまま、1999年に江藤は自死することになる。
 1997年に出版した『敗戦後論』で、加藤は日米関係のねじれについて論じた。対米従属のフラストレーションを解消しようとすると日米関係が緊張し、それを無理やり解決しようとすると日本が安全保障上、経済面で深刻な事態におちいるのはなぜか。
 そこには敗戦国ならではのねじれがある、と加藤はみた。日本であれ、ドイツであれ、第二次世界大戦の敗戦国は、戦後、国のかたちや価値観において、戦前との大きな断絶を経験した。戦前の価値観はもはや国際的には受けいれられなかった。
 そのため戦死者とどう向き合えばいいのかが、よくわからなくなった。少なくともかれらを英雄とみることはもはやできなかった。日本が中国を不当に侵略したこと、フィリピンなどで住民を無視して戦闘行為をくり広げたことはまちがいない。すると、日本の戦死者は「誤った侵略戦争の先兵」だったということになってしまう。
 多くの犠牲をもたらした近隣諸国の人民に謝罪すべきことはいうまでもない。だが、日本人の戦死者を「侵略戦争の先兵」として、切り捨てることは、あまりにも非人間的ではないか。もちろん、あの戦争は間違っていなかったとして、戦死者を称揚するのも、侵略先の人びとへの想像力や配慮を欠いている。
 加藤は『敗戦後論』で、「自国の戦争の死者たちにしっかり向き合い、弔うあり方を作り出したうえで、それを土台に、他国の死者、侵略国の人々に謝罪する、というみちすじがありうるはずだ」と考えた。日本人は事実をみずからあきらかにしたうえで、何べんも何べんも、相手国から受けいれてもらうまで謝罪をくり返さなければいけない。それは自虐的などということとはまったくちがう、と書いている。
 憲法も占領軍から与えられたものだった。だが、加藤にいわせれば「押しつけられた」憲法が「よい憲法」だったのだ。問題はそれをどう「わがもの」にするかがわからなかったことである。ここから、護憲論と改正論がでてくる。とりわけ憲法9条の扱いが問題になった。
 護憲論の立場は、社会が再軍備化していく歯止めとして憲法九条を使おうというもの。いっぽう、保守派、国家主義者は、憲法9条は日本の武装解除を永久化しようとするもので、国家の基本的権利の侵害にあたるから、これを改正すべしというものだった。このふたつの考え方にたいし、加藤は国民による「選び直し」によって、憲法9条を強化することを提言する。その内容については、あらためて触れる。

   *

 戦後を語るには、世界大戦が何であったかを知らねばならない、と加藤はいう。
 敗戦は日本人の考え方を変えさせ、これまでの皇国思想や八紘一宇に代わって、民主主義と平和思想を日本人に植えつけることになった、と加藤は書いている。
 その結果、まず「勝者への模倣」が生じた。鬼畜米英からアメリカ礼賛へ、そのあと陶酔感からの覚醒がおこる。いっぽう戦争末期の突然の参戦と、その後のシベリア抑留により、ソ連は怨嗟の的となる。原爆投下にたいしては、不思議にアメリカへの抗議はわいてこない。
 加藤は敗戦国のパターンとして、「勝者への模倣」のほか、文化的・精神的優位性の強調、再生への希望、勝者を越えようとする欲求、復讐と報復などを挙げている。だから、戦後、日本人はがらりと変わったといっても、その内実はなかなか複雑だったと指摘している。
 それでも日本の戦後が特異なのは、戦前と戦後に価値観の断絶があることだ、と加藤はいう。もはや復讐と報復は現実的ではなくなってしまった。
 20世紀のふたつの世界大戦が大きな意味をもつのは、それが旧来の二国間紛争とちがい、同盟戦争、すなわち国際秩序や国際社会のあり方をめぐる戦いとなったことである。しかも、それはナショナリズムに媒介される総力戦の形態をとった。理念とイデオロギーをめぐる戦争でもあった。
 第二次世界大戦はイデオロギー的には自由民主主義と国家社会主義の二項対立ではなく、それに共産主義を加えた三派鼎立(ていりつ)に近いものとなった。だが、それはたぶんに後付けによる説明である。実際の戦争は国益からはじまっている。それが最終的には、自由主義陣営の米英などと社会主義ソ連の「連合国」と、ファシズム陣営の日独伊三国、すなわち同盟国の戦いとなった。
 米英二国は1941年8月に大西洋憲章を発表し、戦争目的を発表した。この憲章はウィルソンの平和14カ条を踏襲し、自由主義と領土不拡大をうたったものだったが、そこにはナチ暴政の最終的破壊がかかげられていた。これにたいし、日本、ドイツ、イタリアの同盟国は、それぞれの思惑でばらばらに戦っていた。共通の理念、大義というものはなかった。
 三つ巴の戦いが「米英ソ」対「日独伊」になるか、「米英」対「日独伊ソ」になるかは紙一重のところだった、と加藤は書いている。だが、ヒトラーによるソ連攻撃とルーズヴェルト米大統領によるソ連引き込みが、ソ連を連合国側に引き寄せることになる。実際、ユーラシア大陸にまたがるソ連というカードがなければ、連合国がドイツと日本を打ち破るのは容易でないと思われていた。
 イデオロギー的にいえば、自由主義と共産主義を定義するのは簡単だった。しかし、ファシズムとは何かを定義するのはむずかしかった、と加藤はいう。
 日本とドイツ、イタリアでは国柄がまるでちがっており、戦争目的も異なっていた。ドイツではアーリア人種の優越性とユダヤ人排斥が語られた。イタリアは英米中心の国際秩序に異を唱え、ローマの名誉にもとづく団結が叫ばれた。日本が掲げたのは、大東亜共栄圏という新秩序の構築だった。それが民主主義とファシズムの戦いと総括されるようになったのは、むしろ戦後になってからだという。
 日露戦争の勝利によって、日本はアジアの有色人種国の代表として、国際社会に加わった。第一次世界大戦後には、国際連盟常任理事国にも選ばれる。だが、ヴェルサイユ会議で日本が提案した人種差別撤廃条項は否決された。それでも、この提案は世界史的にみて大きな意義があった、と加藤は述べている。
 太平洋戦争(日本での名称は大東亜戦争)がはじまると、日本は「東亜新秩序」建設構想をかかげた。1943年11月には大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が出された。内実をともなわなかった(むしろウソだった)とはいえ、この宣言でアジアの解放と人種差別の撤退という理念が打ち出されたことは、けっしてちいさくない、と加藤はいう。米英の大西洋憲章には、植民地解放の理念が語られていなかったからである。
 加藤によれば、「[第二次世界大戦は]『もてる国』の既成の秩序に『もたざる国』が新秩序建設をめざして挑戦した帝国主義的な従来型戦争」にほかならなかった。だが、それが「自由民主主義とファシズムのあいだの戦い」とみられ、「正しいイデオロギーが誤ったイデオロギーを成敗したという物語に、成形し直し、仕立て直」されたのだ。それを確認するドラマが、ニュルンベルク裁判であり、東京裁判であったという。
 戦後の国際秩序の土台をつくったのはアメリカである。枢軸国にたいして連合国が勝利したといっても、米英ソのうち、実質的な勝者はアメリカにほかならなかった(ソ連が東欧まで支配権を拡大したという面はあるが)、と加藤はいう。原爆の開発と投下、独占が、アメリカに強大さをもたらしていた。
 そのあと、すぐに冷戦がはじまる。
 戦争末期、連合国の戦争理念はすでに劣化していた。アメリカは日本に問答無用の無条件降伏をつきつけ、それを日本が黙殺すると、広島、長崎に国際条約違反の原爆を投下し、日本の敗戦後、ただちに東京裁判を開いて、「人道に対する罪」と「平和に対する罪」で、戦争犯罪人を裁いた。
 加藤はこう書いている。

〈連合国対枢軸国という対決構図は、このうち、枢軸国側の劣化を激しく強調し、「悪」と断罪することで、米英の劣化とソ連の劣化を見えにくくする効果をもっていました。国際軍事裁判は、たとえばニュルンベルクでは、ドイツ軍の悪を強調することでカチンの森のソ連軍の犯罪を隠すのに役立ち、東京では、日本軍の残虐非道さを強調することで原爆投下の「大量殺戮」を見えにくくするのに力を発揮しました。〉

 ニュルンベルクと東京での裁判は、「文明」の名のもとに敗者の「悪」を裁く「裁判劇」にほかならなかった、と加藤はいう。しかも、東京では最初から昭和天皇が免訴され、世界征服をもくろんだとして軍部のみが裁かれることになった。
 アメリカ主導でつくられたこうした作為的理念が、のちにほころびをみせてくるのが、戦後という時代だった、と加藤はとらえているようにみえる。
 結論を出すのはまだ早い。もう少し、先を読むことにしよう。

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