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キッシンジャー回想録『中国』を読む(2) [われらの時代]

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 ニクソン訪中後、米中間にはともかくもパートナーシップが形成された。それは疑似同盟と呼んでもいいものだった、とキッシンジャーは書いている。ソ連に対抗することが目的だった。
 1973年2月と11月にキッシンジャーは2度毛沢東と会談した。周恩来も同席していた。1回目はパリでベトナム和平協定が結ばれた直後、2回目は第4次中東戦争のさなかである。
 台湾問題について、毛沢東は「私は平和的な移行を信じていない」としながらも、早急な解決は望まないと話した。ソ連については、世界中でソ連を封じ込める政策はきっと勝利するだろうと述べた。米軍が中東に関与するよう勧め、ソ連にたいする防波堤としては、トルコ、イラン、パキスタンが重要だと指摘した。力をつけた日本を孤立させて、ソ連のほうに追いやらぬよううまく扱えとも警告した。
 毛沢東はソ連に対抗するため、アメリカ、日本、パキスタン、イラン、トルコ、ヨーロッパへと横のラインを引く案を口にした。ただし、中国はあくまでも自力依存でソ連と対抗すると強調した。毛沢東は中国には核戦争を生き残る能力があると、くり返し語った。
「われわれは核の傘の保護を必要としていない」というのが毛沢東の信念だった。核問題について、アメリカと話しあうつもりはなかった。
 中国が懸念していたのは、アメリカが柔軟にソ連に対処することだった。中国がガードを下げれば、アメリカとソ連は共謀して中国を破壊するのではないかと恐れてもいた。キッシンジャーが「ソ連による中国への攻撃にアメリカが協力することはけっしてない」と話すと、毛沢東は「あなた方の目標は、ソ連を打倒することにある」と答えた。
 中国とアメリカとでは、安全保障上あきらかに発想のちがいがあった。アメリカはソ連を打倒するなどとは考えていなかったからである。それでも、ソ連に対抗するという戦略的思考においては、アメリカと中国の考え方は一致していた。
 しかし、それからまもなくの1974年8月に、アメリカではウォーターゲート事件によりニクソンが辞任するという思いがけぬできごとがあり、フォードが後任の大統領に就任した。アメリカ政界の混乱は収まらなかった。中国はアメリカの緊張緩和政策に懸念をいだいた。キッシンジャーによると、「次第に中国は、米国を裏切りよりも悪い、無力だと非難するようになった」。
 いっぽう、中国では毛沢東時代が終わろうとしていた。それにともない、後継者問題が浮上する。
 林彪失脚後、中国の政治は毛沢東の妻、江青を中心とする「四人組」と、実務派の周恩来、鄧小平とのバランス、言い換えれば継続革命と現実主義との対立のうえに成り立っていた。急進派が勢いづくと、米中関係は冷却した。
 急進派のあおりを食って周恩来が失脚する。1974年になると、周恩来は表舞台にでなくなり、がんにかかっていると伝えられた。キッシンジャーは74年12月に周恩来と面会する。だが、ほんのわずかの時間だった。その面会で、周恩来は、アメリカとの関係を永続的なものとみなし、中国は孤立をやめて国際秩序の一員にならなければ繁栄できないと考えているようにみえた、とキッシンジャーは語っている。
 周恩来が最後に公の場に姿をあらわしたのは、1975年1月に開かれた全人代の会議のときである。周恩来は農業、工業、国防、科学技術の「四つの近代化」を今世紀末までに達成するよう呼びかけた。これが、かれの最後のメッセージとなった。周恩来が姿を見せなくなったあとは、鄧小平がアメリカとの交渉相手となる。
 このころ毛沢東は横ライン戦略を放棄し、「三つの世界」論を展開するようになっていた。それによると、アメリカとソ連は第一世界、日本やヨーロッパは第二世界、発展途上国は第三世界をかたちづくっており、中国は第三世界の立場を代表して、二つの超大国と戦うというのである。
 そうはいっても、毛沢東はアメリカというセイフティネットを手放すつもりはなかった。それどころか、アメリカとの関係を強化することを望んでいた。
 1974年12月にフォード大統領がウラジオストクでロシアのブレジネフ書記長と会見したとき中国は不快感を示し、強く反発した。それでもアメリカが対中政策を変えることはなかった。もしソ連が中国を攻撃したら、アメリカが中国を支持するだろう。しかし、キッシンジャーにとって重要なのは、アメリカが二つの共産主義大国と対話できる能力を保持することだと思われた。
 キッシンジャーが毛沢東と最後に会ったのは1975年の10月と12月。フォード大統領の訪中準備と実際の訪中のときだ。10月に会ったとき、毛沢東は、現時点では台湾を要求しない、あそこにはあまりにも多数の反革命分子がいるから、と話した。ヨーロッパはあまりにもバラバラで締まりがない、戦いなくしてソ連を弱体化させることはできない、とも語った。老いが迫っていた。だが、毛沢東が挑戦的な姿勢を崩すことはなかった。
 12月にフォード大統領が毛沢東と会見したときには、中国で深刻な権力闘争がおきていることが感じられた。一部のグループは、アメリカとの友好関係に懸念をいだいていた。これにたいし、鄧小平は米中関係の重要性を確認する声明を発表して、難局を乗り切ろうとしていた。
 会談から数カ月後、中国の亀裂は目に見えるものとなり、またもや鄧小平が攻撃にさらされるようになった。
 1976年1月8日に周恩来が亡くなると、4月の清明節には数十万の中国人が天安門広場の人民英雄記念碑を訪れ、花輪や詩歌を備えて、周恩来を追悼した。北京市当局が追悼の品々を撤去したため、警察と追悼者のあいだで激しい衝突がおきた。江青ら四人組はその責任を鄧小平にかぶせ、毛沢東は鄧をすべてのポストから解任した。首相代行には、それまでほとんど知られていなかった湖南省党委員会書記の華国鋒が任命された。
 この事件を機に、アメリカと中国の関係は遠くなった。四人組のひとり、張春橋副首相は台湾に関してきわめて好戦的な立場を表明した。
 1976年9月9日、毛沢東が亡くなる。中国統一を成し遂げ、空想的ともいうべき巨大な国家事業に国民を駆り立てた、秦の始皇帝にも似た人物がこの世を去った、とキッシンジャーは感じたという。
 毛沢東と周恩来の死後、中国は混乱する。だが、その混乱を収め、中国を世界の潮流に結びつけたのは鄧小平だった。人民公社による集団農業、停滞した経済、『毛沢東語録』を打ち振る人民服姿の大衆に代わって、中国に爆発的な経済発展をもたらした人物こそ鄧小平だ、とキッシンジャーは書いている。
 鄧小平が権力を掌握するまでの道は紆余曲折に満ちていた。文革がはじまった1966年に鄧小平は走資派として逮捕されたが、毛沢東の介入により1973年に復権した。キッシンジャーによれば、「鄧小平は周恩来の後任として、ある意味では周恩来を追放するために復活してきた」のだった。
 毛沢東と四人組が圧倒的な権力をふるう時代に現実主義を標榜することは、それ自体勇気のいることだった。鄧小平は科学技術の重要性を唱え、イデオロギーよりも職業的能力を重視し、連携・安定・団結を強調し、事態の正常化を優先し、改革プログラムを全面展開しようとしていた。その矢先に四人組から糾弾され、1976年にふたたび実権を剥奪され追放されたのだった。
 毛沢東の死去後、中国の政治は不安定となる。毛沢東はみずからの後継者に華国鋒を指名していた。キッシンジャーにいわせれば、ぱっとしない人物で、政治的な基盤も欠いていたという。しかし、最高権力を譲られた直後、かれはとてつもない成果をもたらした。穏健派と手を組んで四人組を逮捕したのである。
 混乱のさなか、1977年に鄧小平は幽閉生活を解かれ、中央に戻ってきた。華国鋒のもとで、鄧小平は中国近代化へのビジョンを打ち出していく。
 1979年にキッシンジャーは訪中し、華国鋒、鄧小平と会ったが、華国鋒がおなじみのソ連型五カ年計画を語るのにたいし、鄧小平が重工業より消費物資の生産、農民の創意工夫、権力の分散を強調するのが印象的だったという。鄧小平は、中国は近代的な技術を導入すると同時に、数万の留学生を海外に送る必要があり、文化大革命の行き過ぎを未来永劫にわたって終わらさねばならないと話した。
 まもなく華国鋒は指導部から姿を消し、その後10年にわたり鄧小平が実権をふるう時代がつづく。毛沢東は持ち上げられてはいたものの、革命家よりもプラグマティストとしての側面が強調されるようになった。
 鄧小平は、中国は日本の明治維新の成果を凌駕しなければならないと語っていた。いまの中国は科学、技術、教育の面で先進国に20年は遅れているとの認識をもっていた。
 キッシンジャーはこう書いている。

〈経済的な超大国としての今日の中国は、鄧小平の遺産だ。そうなったのは、彼がこの結果を達成するための特別な計画を作り上げたからではなく、自らが属する社会を、その時の姿から、かつてなかった水準にまで引き上げるという、指導者としての究極の仕事を、彼が成し遂げたからなのだ。〉

 鄧小平は重要な役職をもたず、名誉ある称号を拒絶し、ほとんど物陰から政治を動かした。「貧困は社会主義ではない」というのが口癖だった。求められるのはイデオロギーではなく、個人の実力だ。
 鄧小平はいう。「革命を進め、社会主義を建設するため、われわれは、大胆に思考し、新たな道を探り、新たなアイデアを生み出す開拓者を、大量に必要としている」
 1978年12月の中国共産党11期三中総会において、「改革開放」というスローガンが採択され、「四つの近代化」にもとづく現実主義的な「社会主義近代化」路線が打ち出された。
 とはいえ、鄧小平のなかで経済的自由化が政治的自由化に結びつくことはなかった。西側のような複数政党制の民主主義は考えられなかった。一党支配以外の道は無政府状態につながると信じており、大衆を扇動する悪質な分子は厳しく取り締まらねばならない、と主張していた。
 鄧小平の大規模な改革は中国を世界の水準へと導いていった。だが、それは同時に中国国内に社会的、政治的緊張を生み、1989年の天安門事件をもたらすことになる。

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