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キッシンジャー回想録『中国』を読む(3) [われらの時代]

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 1979年はじめ、ベトナム軍はポル・ポト政権を倒すためカンボジアに攻めこんだ。これに懲罰を与えるため、中国は2月半ばから6週間にわたって、ベトナムに侵攻した。ベトナムとソ連のあいだには友好協力条約が結ばれていたが、ソ連は動かなかった。
 ベトナム戦争で中国は北ベトナムを支援した。しかし、戦争に勝利して統一ベトナムが誕生すると、ベトナムは中国にとって大きな戦略的脅威になった。ベトナムがソ連と手を組んでインドシナ全体を支配することを中国は恐れた。そのため、カンボジアのポル・ポト派を支援したのだった。
 中国は北方でも南方でも西方でもソ連の包囲網が強まっているように感じていた。あらゆる前線で脅威に直面した鄧小平は、外交的・戦略的な攻勢に出ることを決意した。それがベトナムとの戦いだった、とキッシンジャーはいう。
 1977年に復権した鄧小平には、中国が世界革命に向けてチャンスをつかもうなどという考え方は毛頭なかった。現実のソ連の脅威にたいし、アメリカと実務的に協力する強めていった。
 だが、この時点で米中間の国交は結ばれていない。アメリカはまだ台湾に拠点を置く中華民国を合法政府と認めていた。米中の関係正常化は当時のカーター政権にとって、大きな課題となっていた。それは鄧小平にとっても同じだった。
 ネックになっているのは台湾問題だった。カーターは対中関係を最優先課題と考え、1978年5月に大統領補佐官のブレジンスキーを北京に送りこんだ。そのとき黄華外相は「ソ連こそが戦争の最も危険な源だ」と述べ、アメリカとの戦略的協力関係を求めた。鄧小平も、当時まだ首相の座にあった華国鋒もソ連との対決姿勢を鮮明にしていた。
 アメリカとの関係正常化を推進するにあたって、台湾にたいする中国の立場は一貫していた。台湾からの米軍撤退、台湾との相互防衛条約の破棄、外交関係の断絶を求めるというものだ。カーターはこの原則を再確認したうえで、アメリカはあくまでも台湾に関し平和的な解決を望むとし、アメリカによる台湾への一定の武器売却を中国側が黙認することを求めた。鄧小平はこれを了承した。そして、このあいまいさのうえに1979年1月に米中関係正常化が実現することになった。
 正常化を目前に、鄧小平は各国を歴訪し、中国の後進性と海外から学ぶ必要性を強調した。
鄧小平の最初の訪問先は日本だった。1978年8月には、日中平和友好条約が調印されていたが、10月の批准書承認セレモニーに出席するため、日本を訪れたのだ。そのとき、各地の企業を見学し、「われわれは偉大で、勤勉で、勇敢で、知的な日本の人々を尊敬し、その人々から学んでいる」と記帳したりしている。
 11月には、マレーシア、シンガポール、タイの三カ国を歴訪し、ベトナム、ソ連に対決する姿勢を示した。しかし、東南アジア諸国はむしろ慎重な態度を保った。
 1979年1月、米中関係正常化を祝って、鄧小平はアメリカを訪問した。ベトナムへの戦争を仕掛ける直前である。「鄧小平の米国訪問は、ソ連をけん制することを目的の一つとした、一種の影絵芝居だった」とキッシンジャーは書いている。
 訪米中、鄧小平は、中国は外国の技術を導入し、経済を発展させなければならない、と強調した。日本と並んでアメリカは中国の産業発展のモデルと考えられていた。
 カーターとの会見では、中国はアメリカとの正式な同盟を望まないものの、ソ連がいままさに戦争を仕掛けようとしているなか、両国は共通の立脚点に立ち、行動を調整し、必要な手段を取るべきだと話している。
 中国はソ連のたくらみを防ぐため、東南アジアとアフリカで積極攻勢に出るつもりだった。すでにカンボジアとラオスに侵攻し、インドシナ連邦構想を実現しようとしているベトナムにたいし、中国は行動する義務があると宣言した。
 カーターは中国による対ベトナム専制攻撃を承認せず、そんなことをすれば中国が好戦的とみられるのではないかと懸念を示した。カーターは自制をうながす。だが、鄧小平はベトナムとの戦争に踏み切る。2月4日、アメリカをあとにした鄧小平は再度東京に立ち寄り、大平正芳首相と会って、目前に迫る軍事行動への日本政府の支援を求めている。
 2月17日、中国はかつての同盟国ベトナムへの侵攻を開始した。20万から40万の人民解放軍が動員されたとされる。鄧小平はソ連は中国を攻撃しないだろうと踏んでいた。じっさい、ソ連は戦争拡大の危険を冒さなかった。
 中国は限定的な「懲罰」攻撃をおこなったあと、ただちに撤退した。戦争は29日間で終わった。それからひと月後、キッシンジャーと会った鄧小平は、ベトナムにもっと深く攻め込んでいたら、さらにいい結果が得られたかもしれない、と強気の見解を示した。
 しかし、中国のベトナム侵攻はあきらかに失敗だった。人民解放軍は多大な犠牲を払って撤兵したのだ。ただ、中国側はベトナムのインドシナ連邦構想に釘を差したという意味で、この戦争の意義を認めていた。
 中国政府はベトナムに対抗するため、カンボジアのポル・ポト派を支援していた。しかし、アメリカは非人道的で残虐なポル・ポト派を積極的に支援するわけにはいかなかった。その後、ベトナム軍はカンボジアに10年間駐留する。そのかんポル・ポト派の勢力は衰えていった。
 キッシンジャーは中越戦争を次のように評価する。短期的には中国は敗れた。しかし、ベトナムが中国による再侵攻の可能性に備えて、100万の常備軍を維持しなければならなかったことは、ベトナム自身にとっても、それを支援するソ連にとっても大きな負担となり、そのことがソ連の弱体化につながった。「戦争の究極の敗者は、世界に対する野心を持っていると世界から警戒される羽目になったソ連だった」と書いている。
 中越戦争から1年後、ソ連はアフガニスタンに介入した。世界の非難はソ連に向かった。そして、最終的に中国は東南アジアからソ連の影響力を排除することに成功する。
 1981年、アメリカではレーガン政権が発足した。レーガンは共産主義嫌いだったが、中国政府との関係は維持したいと思っていた。そのいっぽう、台湾に思い入れをもつレーガンはなんとかして台湾との「公式な関係」を維持できないものかと考えていた。
 中国との関係が正常化されたあと、アメリカ議会では台湾関係法が可決された。この法律はアメリカと台湾の経済、文化、安全保障面の結びつきを維持するとともに、台湾への武器供与を認めるものだった。この法律に中国はあえて異議を唱えなかった。
 1982年8月、米中共同コミュニケ(第3のコミュニケ)が発表された。中国が台湾問題が中国の内政問題であることを両国は確認する。いっぽう、アメリカは台湾問題が平和的に解決されることを期待し、「平和的解決に努力する中国の姿勢を評価する」。これがぎりぎりの妥協だった。
 アメリカによる台湾への武器売却を中国は黙認した。しかし、その期間や内容、量に関しては明確な規定がなされなかった。レーガンはテレビのインタビューでも「われわれは台湾に武器を供与し続ける」と語っている。そして実際、台湾にたいする武器援助計画を拡大した。
「レーガン政権一期目の中国・台湾政策は、ほとんど不可解な矛盾の典型となった」。かれの型破りの動きは、基本原則から逸脱していたが、それはきわめてうまく機能した、とキッシンジャーは評している。

〈中国は、米国による第三のコミュニケの柔軟解釈に不満だったが、全体としては、この一〇年間[1980年代を通じて]、米国の支援を得て、経済面と軍事面で力を付け、世界政治において、独自の役割を果たす能力も身に付けてきた。米国は、台湾海峡の両岸と友好関係を維持し、中国とは、情報の共有やアフガニスタンの反政府ゲリラ支援など、反ソのための共通の緊急事態で協力することができた。台湾は、中国と交渉を行うに当たっての有利な立場を獲得した。〉

 1980年代、中国、アメリカ、台湾は、それぞれ利益を確保していた。中国が第三のコミュニケのあいまいな台湾条項を見逃してきたのは、対ソ戦略上、アメリカとの協力が中国の国益にかなうとみたためである、とキッシンジャーはいう。
 1980年代半ばになると、ソ連はほぼあらゆる国境線で、防御と抵抗に直面するようになった。アフリカ、アジア、中南米では、革命による解放への懐疑的な見方が広がっていた。アフガニスタンでは苦戦がつづいていた。加えて、レーガンが推し進めた戦略防衛構想が、ソ連に重い軍事的負担を強いていた。
 アメリカは財政面、地勢面でソ連に圧力をかけ、冷戦に勝利しようとしていた。そして、ソ連が退却するなか、中国は世界に徐々に進出していく。
 1982年、中国共産党総書記の胡耀邦は、中国共産党第12回党大会で「中国はいかなる大国とも、いかなる国家集団とも決して結び付かず、いかなる大国の圧力にも決して屈しない」と述べた。中国が内政問題と考えている台湾問題への介入をアメリカがやめないかぎり、米中関係は健全に発展しないだろうともつけ加えている。「他の第三世界諸国とともに、帝国主義、覇権主義、植民地主義と断固として戦う」というのが中国の立場だった。
 そのいっぽうで中国は、対決しているソ連との関係を復活させようとしていた。アメリカとソ連を両天秤にかけながら、ソ連崩壊後の超大国となるために着々と準備をはじめていたのだ。
 レーガン時代の米中関係は、はじめのころの熱狂が冷め、とりあえず友好を保つ相手国になっていた、とキッシンジャーはいう。

〈米国と中国はともに、その存在に関わる共通の脅威に直面する戦略的パートナーとしてのかつての同盟関係から、徐々に離れつつあった。ソ連の脅威が弱まった今では、中国と米国は実質的には、その国益が一致する個別の問題についての便宜的なパートナーにすぎなかった。〉

 そうしたなか、鄧小平は「改革開放」路線を推し進めていた。中央計画経済に代わって、社会主義体制を保ちながら市場経済、外部世界への経済開放を実現するにはどうすればよいのか。その基礎となるのは、中国人の生来の経済的活力だと思われた。
 鄧小平のブレインとなったのが、胡耀邦と趙紫陽だった。1987年に中国を訪れたキッシンジャーに、共産党総書記になったばかりの趙紫陽は、中国は社会主義のもとに市場を取り込んでおり、「企業は市場の力を十全に使い、国家はマクロ経済政策を通じて経済を指導する」と語っている。
 中国は沿海部に経済特区を設け、海外からの投資を奨励していた。この特区では企業家に大幅な自由が認められ、投資家に特別の優遇措置が与えられていた。
 農業では人民公社に代わって生産責任制が導入された。個人向けの経済優遇措置がとられたため、工業生産高の5割近くを民間セクターが占めるようになった。1980年代を通し、中国のGDPは年率平均9%の成長を示した。
 そのころ鄧小平は党の若返りをはかるとともに、党のあり方自体を変えようとしていた。これまでの党は中国人民の日常生活を細部にわたって統制する役割を果たしていた。しかし、これから共産党は国家の経済と政治構造を全般的に監督する役割に徹するとキッシンジャーに話した。
 だが、鄧小平の改革はさまざまな問題を生む。多くの中央機関を廃止し、党官僚制度の合理化をはかることは難題だった。公共セクターと市場経済という二つのセクターの存在が、二重価格制度を生みだし、それが腐敗と縁故主義をもたらしていた。官僚と企業家は、ふたつのセクターのあいだで、製品を行ったり来たりさせながら、個人的な利益を得た。中国のような家族主義の社会では、経済の拡大はしばしば縁故主義と結びついた。
 市場経済においては勝ち組より負け組が多いのがふつうだ。負け組はとうぜん不満をいだく。キッシンジャーは「経済改革は大衆レベルで、生活水準と個人的自由の向上への期待を抱かせると同時に、社会の緊張と不公平を生んだ」と記している。それを是正するには、より開かれた参加型の政治システムをつくるほかない。中国の指導部のなかにも、ゴルバチョフの示したグラスノスチとペレストロイカのようなものが必要ではないかと考える者もでてきた。
 1989年、東欧ではソ連の一元的支配にひび割れが生じ、ベルリンの壁が崩壊する。しかし、中国は安定しているようにみえた。
 4月15日、前党総書記の胡耀邦が死去する。胡耀邦は1986年に学生デモへの対処が手ぬるいとして解任され、ひらの政治局委員に降格されていた。胡耀邦の支持者たちは天安門広場の人民英雄記念碑に花輪と弔詞を捧げ、かれの精神を引き継ぎ、さらなる政治的自由化をめざそうと呼びかけた。
 5月はじめ、折しもゴルバチョフが北京を訪れるころ、追悼は抗議へと発展する。汚職、インフレ、報道規制、学生の生活条件、長老の党支配などへの不満が高まり、さまざまな抗議活動が全国の都市に広がり、天安門広場は占拠された。西部ではチベット人やウイグル人が政府への抗議活動をはじめた。
 中国当局は7週間にわたってためらい、6月4日に武力行使に踏み切った。武力行使に反対した趙紫陽は党総書記を解任され、軟禁された。鄧小平は人民解放軍に天安門広場の制圧を命じ、多くの死傷者がでた。その様子は世界中から集まっていたメディアによって伝えられた。その後、全国で徹底的な弾圧がくり広げられた。
 世界の反応は厳しかった。アメリカでは中国への制裁論が高まった。その年、大統領に就任したジョージ・W・ブッシュは、鄧小平とも面識があり、かれの改革開放路線を称賛していたため、制裁には気乗り薄だった。
 アメリカは中国との協力関係を修復させるのか、あるいは自由化を要求して中国を制裁するのかの決断を迫られていた。中国を孤立化させれば、長い対決の時代がやってくることが予想された。そのいっぽう、アメリカの安全保障上、ブッシュは中国との友好関係を維持する必要があるとも感じていた。
 議会が中国への制裁措置を決定すると、ブッシュはその一部を緩和した。しかし、中国への批判をあきらかにするため、高官級の政府間交流の禁止、軍事協力の停止、警察用・軍用機器売却の禁止、世銀などの新規借款に反対するなどの措置を発表した。そのかたわら、鄧小平に長文の親書を送り、抗議活動に参加した学生たちへの寛大な措置を求め、使節を北京に送りたいと提案した。親書の最後は、これまで17年間にわたって築き上げられてきた関係を台無しにしないようしなければならないと結ばれていた。
 天安門事件から3週間後の7月、大統領補佐官のスコウクロフトと国務副長官のイーグルバーガーが極秘に北京を訪れ、鄧小平、李鵬首相らと会見した。鄧小平はわれわれは制裁など気にしていない、アメリカはもっと歴史を学ぶべきだ、などといいながら、関係改善の責任はアメリカにあると主張した。いっぽうで、反乱の扇動者の処罰はためらわないとも述べた。
 スコウクロフトらは事件の扱いは中国の内政問題だと認めたものの、その対応がアメリカ国民のもつ普遍的と思われる価値観を逆なでしたことは事実だと述べた。たがいの溝が埋まることはなかった。
 1989年秋には、米中関係は最悪の状態におちいっていた。断絶は回避できそうにもなかった。そのさなかの11月、中国指導部の招きに応じて、キッシンジャーは訪中する。
 鄧小平はキッシンジャーに「中国政府が天安門で断固たる措置を執らなければ中国に内戦が起きていただろう」と語り、アメリカからあれこれ指図を受けたくない、内政不干渉は中国外交政策の原則だ根本と主張した。そのいっぽうで、安定した中国がめざすものは、新たな国際秩序への貢献であり、その中心となるのはアメリカとの関係だとも話した。
 キッシンジャーが訪中したとき、米中間の断絶のシンボルとなっていたのが、反体制物理学者の方励之の存在だった。2月に北京を訪れたブッシュ大統領は、方励之を晩餐会に招いた。しかし、中国治安当局はかれを晩餐会会場に近づけさせなかった。6月4日の天安門事件のあと、方励之はアメリカ大使館に避難した。中国当局はアメリカにかれを引き渡すよう求めたが、アメリカ側は拒否していた。
 訪中したキッシンジャーに鄧小平はこの問題を持ちだした。キッシンジャーは中国が方励之を国外に追放し、どこにでも好きなところに行かせたらどうかと提案した。アメリカはかれを政治的に利用することはないだろうとも話した。
 しかし、そのころアメリカで緊急の課題となっていたのは、むしろベルリンの壁の崩壊が与えた衝撃にどう対応すればよいかということだった。ソ連が崩壊する事態も考えられた。
 その対応に追われたため、アメリカが中国に特使を送るのは12月中旬になった。中国は方励之の亡命を認める見返りとして、中国にたいする制裁解除や大型経済協力プロジェクトの協定締結などを求めた。米中の交渉は長引き、方励之は1990年6月にようやく解放され、家族ともどもイギリスに出国することになる。
 東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニアで共産主義政権が崩壊すると、1990年春に鄧小平は中国共産党に「現下の国際情勢においては、敵があらゆる関心を中国に集中していることを、全員が肝に銘じなければならない」と警告を発し、これから3年ないし5年が重要な時期だと述べた。
 1990年代にはいると、鄧小平は徐々に重要な役職から身を引き、1997年に死去する。その前に共産党の幹部たちに短い遺訓を残した。
 キッシンジャーはこう評している。
「鄧小平は、騒乱と孤立の低迷期に、中国が危機の中で燃え尽きてしまうことを懸念し、また同時に、中国の将来は、自信過剰に陥ることの危険性を認識できるだけの視野を、次世代の指導者が獲得できるかどうかにかかっている、と考えていたのかもしれない」
 ここでもキッシンジャーは中国にたいする好意的な見方を崩していない。

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