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キッシンジャー回想録『中国』を読む(4) [われらの時代]

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 1989年6月の天安門事件で、中国共産党指導部内の対立が表面化すると、総書記の趙紫陽が辞任し、江沢民が共産党トップに昇格した。
 中国は孤立し、海外から経済制裁を受け、国内の政治状況も不安定となった。チベットも新疆も揺れていた。世界中で共産主義体制が崩壊していた。
 そうしたなか、1992年に鄧小平は南方への視察旅行に出かけ、深圳や珠海などのハイテク基地やモデル企業、学校などを見て回った。
 鄧小平は市場原理とリスクをとること、民間に任せること、生産力と企業家精神の重要性を訴えた。これと見定めたら、大胆に実験し、大胆に突き進むことを推奨した。外国からの投資を恐れるべきでもないと話した。科学と技術がカギだと強調し、よき統治は庶民に幸福と発展をもたらすものだと断言した。
 この南方視察が鄧小平の最後の公務となった。
 天安門事件後に中国の新指導者となった江沢民は、上海市党委員会書記から抜擢された。みずからの権力基盤は弱く、何ごとも政治局のコンセンサスにもとづいておこなわれた。キッシンジャーによれば、温かく、ざっくばらんな人物だったという。
 江沢民政権は、銭其琛外相(のち副首相)と朱鎔基副首相(のち首相)によって支えられていた。このふたりは頻繁に海外に出て、国際会議に出席し、西側世界とのつながりを回復することに努めた。
 1989年11月に江沢民はキッシンジャーと会い、米中間の懸案は台湾問題だけであり、国内問題について批判されるいわれはなく、いかなる状況でも中国の経済改革はつづくと話した。
 それから1年後、ふたたびキッシンジャーと会う。ようやく方励之問題が決着したときだった。米中間はまだ緊張状態にあり、対中制裁がつづいていた。
 江沢民は、中国とアメリカは新たな国際秩序構築に向けてともに仕事をすべきだと主張した。それぞれ国内の事象は外交政策の領域外であり、国と国の関係は国益の原則によってルールづけられるべきだ。アメリカと中国とでは価値観がことなる。それを認めたうえで、アメリカは対等な大国として中国を扱うべきだと述べた。
 このとき、江沢民はキッシンジャーを通じて、ブッシュ大統領に中国がアメリカとの友好を切望しているとの口答メッセージを伝えてほしいと頼んでいる。ただし、中国は自国の独立と主権と尊厳を重視する、ともつけ加えていた。
 1991年9月にキッシンジャーが訪中したときも、江沢民は両国間の関係を正常化させない理由などはないと話し、「互いを尊重し、内政干渉をやめ、平等と互恵の原則のもとで関係を構築できれば、両国は共通の利益を見いだすことができるはずだ」と自信をみせた。
 江沢民はアメリカに譲歩を求めていた。
 この年、ソ連は崩壊した。
「共通の敵が消えた今は、米中指導者間の価値観や世界観の相違が前面に出て来ることは避けられなかった」とキッシンジャーは書いている。
 アメリカにしてみれば、ソ連の崩壊は民主主義の勝利を意味した。多党制の議会制民主主義と市場経済の組み合わせこそが、歴史の結論のように思えた。
 しかし、中国にとってはそうではなく、共産党の支配によって政治の安定が保たれてこそ、経済の発展が可能なのだった。そのうえで、中国の発展にはアメリカの協力が欠かせないこともわかっていた。
最終的にブッシュは中国の内政に干渉することは得策ではないと判断した。米中関係は徐々に緩和しはじめる。
 だが、1993年にクリントン政権が発足すると、状況は一変する。クリントンは中国にたいするブッシュ政権の柔軟姿勢を批判し、民主主義の拡大を外交目標にかかげた。アメリカの外交政策にほかの西側諸国も同調したが、そうした圧力を、中国は内政干渉によって共産主義政権を弱体化させようとする試みととらえた。
 中国の指導者は冷戦の終結によって、アメリカの一極支配時代がはじまるとはとらえていなかった。世界の人口分布を考えても、そんな事態が生じるはずがない。キッシンジャーにたいし、李鵬首相は人権や民主的権利については、西側と完全な合意に達することはできないと述べ、そんなことをすれば中国社会の根本を揺るがすことになると弁明した。
 クリントン政権は、人権状況の改善がみられないかぎり、中国に最恵国待遇を与えないと主張した。キッシンジャーによれば、この最恵国待遇という恩着せがましい言い方は誤解を招くものだ。最恵国待遇とは、通常の貿易で与えられている権利をいうのであって、ほとんどの国がその待遇を受けており、特別な恩恵の意味などないという。
 1993年5月、クリントン政権の高官は北京を訪問し、人権問題と武器拡散防止問題などで、劇的な進展がみられないかぎり、アメリカは中国に最恵国待遇を与えないと通告した。これにたいし、江沢民は中国とアメリカはもっと長期的な観点で物事を考えるべきだと主張し、最恵国待遇問題の袋小路から抜けだそうとした。
 けっきょくクリントンは民主化問題にはふれず、人権問題の改善を条件として、1年間、最恵国待遇を延長することにした。それ以降延長するかどうかは、その間の中国の行動次第だとした。
関税と貿易に関する一般協定(GATT)、すなわちのちの世界貿易機関(WTO)への中国の加盟も行きづまっていた。
 1994年3月のクリストファー国務長官の訪中で、事態はさらに悪化した。李鵬首相は、中国の人権政策はアメリカとは関係のないことであり、アメリカこそ重大な人権問題を抱えていると述べ、けんか腰の態度をとった。最恵国待遇更新の期限が迫っていた。けっきょく、クリントン政権は中国ビジネスを手がけるアメリカ企業からの圧力を受け、さらに1年間、最恵国待遇を無条件で延長することになった。人権問題の改善については、ほかの手段をさぐるほかなかった。
 その後、クリントンは対立的姿勢を控え、建設的関与を強調するようになる。米中関係は急速に修復された。1997年には江沢民がワシントンを訪問し、1998年にはクリントンが訪中した。10年近くの対立ムードに終止符が打たれた、とキッシンジャーは書いている。『米中奔流』の著者、ジェームズ・マンにいわせれば、アメリカはまさに「回れ右」をしたことになる。
 その前に台湾海峡危機が発生していた。中国政府は1980年代から台湾を国内の完全な自治州として扱うことを前提に統一を提案していた。台湾側はあくまでも慎重だった。だが、経済面では中台間の相互依存が高まり、1993年末には、台湾の対中投資額は日本を抜いて世界で第2位となっていた。
 経済的な相互依存が高まるいっぽうで、台湾は中国とは政治的には大きく異なる方向を選んだ。劇的な自由化がはじまった。それをリードしたのは1988年に蒋経国から総統を継承した李登輝である。
 クリントンはあくまでも「一つの中国」を順守し、台湾とは距離をおこうとしていた。しかし、1994年には李登輝の個人的かつ非公式なアメリカ訪問を認めている。李登輝は母校のコーネル大学を訪れ、台湾人の思いを雄弁に語った。中国側はこれに反発し、駐米大使を召還し、台湾海峡にミサイルを打ちこんだ。
 1995年7月にキッシンジャーは訪中し、江沢民や銭其琛と会って、事態の収拾をはかった。だが、それ以降も台湾海峡での緊張は収まることがなく、1996年3月にも中国人民解放軍は福建省の沿岸での演習を実施し、台湾の沖合にミサイルを撃ちこんでいる。これにたいし、アメリカは空母ニミッツを含む空母戦闘群を台湾海峡に派遣した。
 1999年には、コソボ紛争で、アメリカのB2爆撃機がベオグラードの中国大使館を誤爆する事件も発生した。「両国政府は協力の必要性を認識していたが、両国が互いに衝突するすべての可能性を制御できているわけではなかった」とキッシンジャーは書いている。
 危機は周期的に発生した。しかし、1990年代に中国経済は驚異的に発展し、この10年に年7%以上、ときに二桁の経済成長を達成し、一人あたりGDPも持続的に伸び、1990年代末に都市部の収入レベルは1978年の約5倍となった。中国は緊縮財政でインフレも乗り切り、周辺諸国との貿易額も増やし、経済大国に成長した。中国とアメリカは経済的にますます結びつきを深めていった。いまやアメリカの多国籍企業にとって、中国は生産拠点、金融市場としても、ビジネス戦略上欠かせない拠点となった。いっぽう中国も増えつづける外貨残高でアメリカの国債を大量に購入し、アメリカ経済を支えていた。
 だが、「グローバル化された世界は両者を結び付けるとともに、危機が訪れると、より頻繁に、そしてあっという間に緊張が激化する」世界でもある、とキッシンジャーはいう。
 そのひとつの現れが、2001年4月に発生した米偵察機と中国軍用機との接触事故だった。中国軍用機は海南島近くに墜落して、中国人パイロットが死亡した。しかし、このときも江沢民は事故をおおごとにせず、米中協力の重要性を強調して、事態の収拾をはかった。たとえ、さまざまな問題があるにせよ、世界の将来が米中協力にかかっているというビジョンを江沢民は示したのだ、とキッシンジャーはいう。
 2002年11月に江沢民は党総書記を辞任し、胡錦濤にその地位を譲った。アメリカでは2001年にジョージ・W・ブッシュ政権が、2009年にバラク・オバマ政権が発足した。
 キッシンジャーの『中国』が出版されたのは2011年のことである。したがって、本書では、その後の習近平時代、トランプ時代については、触れられていない。それでも、キッシンジャーのスタンスはその後も基本的に変わらないとみてよいだろう。
 新世紀にはいってからの10年は、アメリカにとっては苦難の時代だった。2001年には9・11中枢同時テロが発生し、そのあとイラクとアフガニスタンでの戦争がはじまった。2008年にはリーマン・ショックがあり、世界中が深刻な金融危機に見舞われた。しかし、その間も米中関係は順調に推移した。
 胡錦濤政権は、経済発展を継続するとともに、「調和のとれた社会」、「調和のとれた世界」を目指していた。外交的には慎重な姿勢を崩さず、平和的な国際関係を維持するなかで、世界貿易機関(WTO)に加盟し、資源と原材料の確保をめざす経済外交を展開した。2008年には北京五輪が開かれた。台湾問題に関しては、米中はたがいに牽制しながらも、波風を立てぬよう行動した。
 アメリカが困難に見舞われるなか、米中の相互協力は拡大した。通貨や北朝鮮の核問題などをめぐって、さまざまなやりとりがあったものの、それは対立にまでは発展しなかった。
 中国は21世紀最初の20年間を戦略的なチャンスととらえていた。「平和的台頭」という考え方が出てくるのも、この時代である。胡錦濤は国連総会で演説し、「中国国民は平和を愛する」と強調し、「中国の発展は、誰も傷つけたり、脅かしたりはせず、世界の平和と安定と共通の繁栄に寄与するだけである」と述べた。
 平和的台頭という概念は、世界支配への野望を秘めていると誤解されないように、平和的発展という言い方に置きかえられるようになった。中国は革命を求めないし、戦争や復讐を望まないと国務委員の戴秉国は強調した。
 現在、米中間では国際問題や経済問題で、常に協議がなされている。いまやアメリカと中国は「対等なパートナー」となっている、とキッシンジャーはいう。これからは「中国と米国が真の戦略的な信頼を育む」ことによって、「協力に基づく真のパートナーシップと世界秩序の進化」を成し遂げることが重要だと考えている。
 おそらくキッシンジャーは、ソ連崩壊後の世界は、アメリカ一極支配、あるいは「歴史の終わり」をもたらすのではなく、米中を軸とした多極化世界になると思っていたはずである。
 キッシンジャーはアメリカと中国が対立しつづけるのはおろかだという。いま世界は、地球規模の核拡散問題、環境問題、エネルギーの安全保障問題、気候変動問題などさまざまな問題で、たがいに協力しなければならない。そんなときに冷戦をくり広げる場合ではない。
 中国を封じ込めたり、イデオロギー聖戦のために民主国家によるブロックを形成したりするこころみも成功しないだろう、とキッシンジャーは断言する。その理由は、中国が大半の周辺国にとって、欠くことのできない貿易相手国だからだ。
 キッシンジャーが提案するのは、アメリカと中国が可能な領域で協力しながら、対立を最小限に抑えるよう互いの関係を調整しつつ、「相互進化」をめざすことである。アメリカは中国を支配できないし、中国もまたアメリカを支配できない。戦争はまったく意味がない。
 危機があれば、それは話しあいによって解決されるべきだ。中国とアメリカが太平洋全域で勢力圏を競いあうという構図は、両国にとって破滅への道を意味する。
 キッシンジャーは「太平洋共同体」構想を提案する。

〈現在の世界情勢における戦略的緊張の一側面には、米国が中国を囲い込もうとしているという中国側の懸念があり、これと平行して、中国が米国をアジアから追い出そうとしているとの米側の懸念もある。太平洋共同体という構想は、米国、中国、その他の諸国すべてが、共同体の平和的発展に参加するというものであり、米中両国の懸念を緩和する可能性がある。〉

 太平洋構想は、中国とアメリカのブロックに地域を分割することを目指すのではない。太平洋を囲むすべての国がこの仕組みに参加し、共に進化する道を進むことが目的なのだ、とキッシンジャーは論じている。
 太平洋共同体はアジア共同体より筋がよさそうだ。しかし、はたしてそんなふうに話がうまく運ぶものか。その前にひと波乱もふた波乱もありそうである。

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