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飛び級で復学──美濃部達吉遠望(13) [美濃部達吉遠望]

高砂花井邸.jpg
〈きのうまでの高中[高等中学校]生徒が、にわかに月給6円のサラリーマンになったわけだが、この6円を生活費にするわけでなく、小遣いにするか他日の学資のために貯蓄するかであったから、その点は気楽なサラリーマンだった。しかし田舎でこういう生活を送っていると、その中に多少は同僚の人々の感化を受けたらしく、はじめて酒を飲み習ったのもこのころであったと思う。
 が、同時に戸籍掛[係]としての仕事は十分真面目(まじめ)に勤めたもので、おかげで戸籍事務には相当精通することができた。今でも区役所の戸籍事務なら担当してみせる自信がある。〉

 達吉は高砂の町役場に勤めたころの思い出を、そんなふうにユーモアをまじえて記している。酒を覚えたのもこの時代だった。戸籍係の仕事は、それなりの実務経験をもたらしただろう。地味なようにみえて、国家統治の根幹にかかわる仕事である。
 余談ながら、戸籍法は1871年(明治4年)に制定され、翌年施行された。その後たびたび改正され、現在にいたっている。国民個々人の出生から死亡にいたるまでの親族関係を登録公証するこの制度は、日本独特のものであり、明治新政府にとっては、徳川時代の人別帳や過去帳に代わるものだったといえる。
 それはともかく、達吉は戸籍係としての事務を同僚とともに楽しくこなしたようである。
 そうこうしているうちに、いよいよ健康も回復し、ふたたび東京に出て、以前にもまして学業にはげみたいという気持ちが強くなってきた。1年以上にわたる療養生活は、達吉の肉体を回復させただけでなく、その精神をも鍛えたといってもよいだろう。
 こうして、達吉は数えの21歳を迎えた1893年(明治26年)正月に、両親の許しを得て、役場の書記をやめ、ふたたび東京に出ることになった。満年齢でいえばまだ19歳だった。
 この年、父の秀芳は2代目の高砂町長となった。山陽鉄道が開通したものの、住民の反対が強く、高砂はその駅にならなかった。そのため、新町長には、急速に衰退している町をどう立てなおしていくかという課題がのしかかっていた。
 ここで付記しておかなければならないのは、美濃部兄弟の東京生活を支えたのは、家族だけではなく、高砂の有志だったということである。美濃部家はさほど裕福ではなく、子どもたちに大学教育をほどこすほどの余裕はとてもなかった。そこで、町の金持ちが兄俊吉や弟達吉の学資を助けてくれた。
 達吉の息子、亮吉はこう書いている。

〈父は兄俊吉と共に、東京に遊学し、一高及び東大で教育を受けた。その学資は、高砂の金持である岸本、伊藤、松本、松浦の四氏が共同で出資したということである。兄か弟のうち一人が出世したら、元利揃えて返却するという契約であり、兄弟共に期待以上の出世をし、元利揃えて返却を完了したそうである。〉

 記述は多分に不正確で、ほんとうにこんな契約があったとすれば、ずいぶん世知辛い話である。だが、いずれにせよ、高砂の金持ちが提供した出世払いの奨学金のおかげで、「末は博士か大臣か」の期待を背負いながら、美濃部兄弟は東京での勉学に励むことができたのである。

 こうして達吉は東京に戻ってくる。
 だが、その先の方針が立たなかった。
 もう一度、第一高等中学の入学試験を受けて、はじめからやり直すのは、あまりにばかげている。かといって、ほかの学校にはいるのも気が進まなかった。めざすのは、あくまでも帝国大学(東京帝国大学と改称されるのは1897年[明治30年])なのである。
 達吉は四、五年独学をつづけて高等文官試験を受けてみようかとも考えた。高等文官試験というのは、高級官僚を採用するための試験で、中学校卒業程度の者に受験資格が認められていた。だが、それはあまり得策とは思えなかった。
 そこにすでに帝国大学で学んでいた兄の俊吉と、第一高等中学の同級生、井上孝哉があるアイデアをもちだす。それは、うまくすれば、高等中学の最上級である本科2年に復学できるのではないかという妙案だった。
 高等中学は予科3級と本科2年の5年制で成り立っている。達吉の同級生はまもなく最終学年の本科2年に進もうかというときである。だが、達吉は予科2級の途中で、腸チフスにかかり、退学を余儀なくされていた。実際には、最初の予科3級しか終えていないのだ。それなのに、いきなり3段階飛びで本科2年に復学するなど、とても無理ではないかと思われた。
 学友の井上孝哉は校長の木下廣次のもとに行って談判し、優秀な美濃部の復学を何とか認めてほしいと訴えた。木下は病気の話を聞いて大いに同情し、それでは特別に本科2年への編入試験を認めようということになった。
 ただし、無条件にというわけにはいかない。高等中学の1年目でしかない予科3級を終えたというだけでは何の資格もないからだ。そこで、7月にもう一度、他の受験生とともに高等中学の入学試験を受け、それに合格したら、9月に予科3級の試験、予科2級の試験、予科1級の試験、さらに本科1年の試験を受け、それを突破したら本科2年への編入を認めようという、とてつもない条件をもちだした。
 やるしかなかった。それにしても入学試験はともかく、復習を含めて高等中学4年分の勉強を1月から8月までの半年あまりではたして準備できるのか不安がつのる。一時は「茫然として自失するほかはなかった」と達吉は記している。
 幸い、井上が講義のノートを貸してくれ、本郷追分町の下宿で同居していた兄も叱咤激励してくれた。上野図書館に通えば、参考書を読むこともできる。
 英語や漢文、国文は何とかなりそうだった。しかし、勉強しなければならない科目がほかに山ほどあった。
 苦手な数学は算術、代数、幾何のほか三角術(三角法)を頭にいれなくてはならない。歴史は日本史のほか、東洋史、西洋史。理科は動物、植物、鉱物、生理、物理、化学の科目。さらに本科1年の心理学と論理学、さらにドイツ語も何とかしなければならない。
 兄の下宿の二部屋のうち、2畳の部屋をあてがわれて、達吉は必死に勉強した。苦手な数学がどうしてもわからず、ドイツ語でもつまずいた。見込みがないから、もうやめたいと訴えたこともあった。だが、兄は「そんな意気地のないことでどうする」と叱り、ドイツ語については毎日半時間くらい勉強をみてくれるようになった。三角法は独学するほかなく、いくら教科書をみてもわからなかったが、何度も同じことをくり返しているうちに、だんだん理解できるようになった。
 この年には徴兵検査があったが、丁種不合格となり、兵役義務を免除された。
 井上から借りたノートを精読し、上野図書館に日参して、参考書を読みあさるうちに、半年間はあっというまにすぎた。そのかんに、4学年間のすべての課程をひととおり習得できたというのは、さすがに秀才である。
 7月の再度の入学試験には難なく合格した。そして9月には、次の難関が待っていた。3学年分と何せ科目数が多いのに加え、1科目でも60点以下をとれば、そこで進級はおしまいになる。
 予科2級、予科1級の試験は、例によって立体幾何がうまく解けなかったが、物理や化学、三角法は案外すらすらと答案を書くことができた。本科1年の試験は得意なものが多かったので、予科の試験よりもむしろ簡単なほどだった。
 だが、試験結果がでるまで安心はできなかった。
 そのときの気持ちをふり返って、達吉はこう記している。

〈もしこの試験に落第すれば、将来の方針をどうしたものかと、独り心痛に堪えなかったが、幸いにも一科目も不合格点はなかったということで、全部合格ということを事務室で知らせてくれたときは、ただもう嬉しさに堪えなかった。おそらくは私の生涯の中で最も嬉しかった経験であろう。〉

 こうして、達吉は病気でいったん退学した年月を取り戻し、かつての同級生と同じ学年に復学することができたのである。
 そして、翌1894年(明治27)年7月には第一高等中学校を卒業し、帝国大学法科大学政治学科に進学することになる。

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