公共分野を強化せよ──ガルブレイス『ゆたかな社会』を読む(8) [経済学]
〈生産的な社会が最終的に問われることは、社会が何を生産しているかである。こうした言い回しからは、一部のものがふんだんに供給されているのに、ほかのものはわずかしかつくられていないことが浮かびあがってくる。こうした不釣り合いによって、社会的不満と社会的不健康のもとが生みだされる。豊富な分野と貧弱な分野とのあいだには境界が引かれている。大雑把にいって、民間で生産され販売される商品やサービスは豊富なのに、公共的に提供されるサービスは貧弱なのだ。〉
現在は「ゆたかな社会」といわれるが、民間では商品(財とサービス)が豊富につくられているのに、公共サービスがきわめて不足しているのが実情だ、とガルブレイスは考えている。
現在の公共サービスはあまりにも貧弱だ。アメリカでは学校も公園も病院も街路も空気も、要するに公共的な分野がひどくないがしろにされているという。
民間では商品の生産が連動して拡大する。それにともなって消費も拡大し、あらたな必要も生じる。だが、民間経済が発展すればするほど、国家による調整や保護が求められる。
民間部門と公共部門のあいだには「社会的バランス」が保たれなければならない。このバランスが重要なのにもかかわらず、どちらかというと民間部門が優先されて、公共部門がないがしろにされる傾向がある。その結果が交通事故の多発であり、大気汚染や公害、都市の乱開発、社会的荒廃などだ、とガルブレイスはいう。
民間部門の成長にたいして、なぜ公共部門がおくれをとる傾向があるのか。
公共サービスは税によってまかなうほかないのだが、増税には根強い抵抗がある。それにアメリカの場合は、連邦収入のかなりの部分が軍事費に回されており、固定資産税に頼る地方自治体はじゅうぶんな公共サービスができないままでいるからだと指摘する。
伝統的な経済学では、公共サービスはできるだけ抑制すべきだという考えが支配的だった。そのため個人がテレビや自動車、住宅にカネを使うことは推奨されても、自治体が学校にカネを使うことはしぶしぶでしか認められてこなかった。こうした社会的アンバランスが「ゆたかな社会」に混乱と退廃を引き起こしている、というのがガルブレイスの見方だ。
ガルブレイスはくり返し教育の重要性を強調している。
経済が成長するには、量的にも質的にも生産設備を拡充することが必要になってくる。そして、それを支えるのが、教育と訓練を受けた労働者の存在だ。ところが、物的資本にたいする投資は積極的におこなわれても、人的資本にたいする投資はなかなかおこなわれない。ほんとうは人的資本こそが大きな利益を生みだすかもしれないのに、それは公共の仕事にゆだねられている、とガルブレイスはいう。
科学や技術が進歩するなかで、人間にたいする投資はますます必要になっている。それなのに公教育はむしろないがしろにされている。商品生産への投資や技術開発には余念がない。基礎研究や応用研究にも巨額の資本がつぎこまれている。軍事部門への投資も大きい。
しかし、ほんとうにだいじなのは人間の価値を高める教育への投資なのだ。「それなのに、それが商品の生産ほども正当化されないとするなら、人間の充足と実現をめざすべきだという理念もまるで台無しになってしまうのではないだろうか」
生産は欲望を刺激する。資本は欲望をかきたてる消費者をつくる。だが、そう都合よく、ことは進まない。
教育は人をつくるのだ。そして、教育は両刃の剣としても作用する。
〈現代の産業に求められる技術や科学からすれば、教育はなくてはならないものだ。しかし、それによって趣味が広がり、より自律的で批判的な態度がつくられるようになれば、現代経済に欠くことのできない欲望創出力は次第に威力を失っていく。自分たちに奉仕していると思われたメカニズムの利益に自分たちが操られていたのだとわかってくるのは教育のおかげである。すると消費者は簡単にだまされなくなる。〉
生産の神話は崩れた、とガルブレイスはいう。
だとすれば、われわれは何をめざすべきか。
生産至上主義(GDP信仰)を克服しなければならない。これまで重視されてきたのはは能率や生産性ばかりだった。生産に役立てば、それは善であり、そうでなければ無益であると思われてきた。だが、そうした考え方がはたして正しいかをふり返ってみる必要がある。
産業化はゆたかさではなく悲惨さをもたらしているかもしれないのだ。それはいっぽうで欲望を刺激しつつ、冷淡さと残酷さをばらまいているかもしれない。ゆたかな世界と貧困の世界との断絶をもたらしているかもしれないのだ。
生産至上主義から脱却するひとつの方向性は「保障を生産から分離すること」だ、とガルブレイスは論じている。
じつは現代の関心は、生産それ自体よりも所得と雇用になっている。失業手当制度はいちおうできあがっている。だが、それはやっと生きていける水準に抑えられている。その基準を見直すべきだ。
さらに仕事をするのが困難な人には、生産とは無関係に別の収入源を与えるべきだともいう。ベーシックインカムによる所得保障、あるいは負の所得税も考慮されるべきだ。
次に重要なのは社会的バランスの回復である。民間の財とサービス(商品)は拡大しているのに、公共サービスはきわめて貧弱な状態に置かれている。学校、病院、図書館、都市の整備、衛生、公園、警察、その他無数の公共サービスをもっと充実させるべきだ。
それらは税によってまかなわれるほかない。アメリカの場合、連邦政府は個人所得税と法人税、地方政府は固定資産税を主な財源としてきた。連邦政府の場合、最大の問題は軍事費の割合が大きすぎることだ、とガルブレイスはいう。軍事費を削って、公共サービスに回すべきだ。
公共サービスを充実させ、社会的バランスを取り戻すためには、税収を増やすほかない。高所得者からもっと税金をとるべきだという主張は強い反対にあい、むしろ高所得者の減税が実現してしまった。だが、それはやはりおかしいというのが、ガルブレイスの立場だろう。
これに代わって登場したのが売上税(日本では消費税、少し仕組みがちがう)である。ガルブレイスは「社会的バランスが不完全であるかぎり、売上税の税率を高めることをためらうべきではない」と書いている。もちろん、この売上税は軍事費のためではなく、あくまでも公共サービスの充実のために用いられる。
売上税の効果は、民間財の値段を多少上げることによって、公共財をもっと豊富にすることにある、とガルブレイスは書いている。その課税は州や市町村によっておこなわれ、税収は公共目的のために用いられる。それによって、よりよい学校、よりよい町、よりよい市内交通、さらには経済的安定がもたらされるのだ。
売上税は公共部門の支出を増やすことにつながるから、社会的バランスを改善するだけでなく、経済成長を促す要因ともなる。公共目的により多くの資源を用いることは、けっして民間の生産を阻害することにはならない、とガルブレイスは断言する。
「ゆたかな社会」になっても貧困はなくなるわけではない、とガルブレイスはみている。
貧困を絶対的なものととらえることはできない。「人の所得が、生きていくにはたりるものであっても、社会的な水準よりはるかに低い場合、その人は貧困なのである」というのが、ガルブレイスの規定だ。
窮乏の度合いは、所帯の大きさや場所によっても変わってくる。貧困は個人の性質が原因の場合もあるし、地域の性格によることもある。
都会でも、地域でも貧困地帯はひとつの島のようなかたまりとなっている。貧困から脱出するのは容易なことではない。
それでも極貧の人びとは社会の多数派から少数派へと変わった。政治家はいまや貧困層よりも中間層に訴えるようになった。貧困救済の努力をと呼びかける政治家はいまやごくわずかだ、とガルブレイスはいう。
貧困の問題がなくなったわけではない。かつては、働かざる者くうべからずというのが社会のルールだった。しかし、貧困が少数者の問題になったいまは、むしろ働けない人にも基本的な収入を保証しなければならない、とガルブレイスはいう。貧困家庭の子供が学校に通えるようにすること、学校でじゅうぶんな給食をだすこと、町が適切な保健業務をおこなって子どもたちの健康を見守ること、住宅を確保することなどは最低限必要なことだ。
「ゆたかな社会」でも貧困が残っていることに目をそむけてはならない。臭い物にふたをするように貧困の問題を無視してはならない。それをほうっておいてはならない、とガルブレイスは訴える。
いっぽう「ゆたかな社会」では、労働の形態が変わりつつあるという指摘もなされている。かつてにくらべ週の労働日と労働時間は少なくなっているし、労働の強度も減っており、労働する人の数も減りつつある。それにたいし、余暇が増加してきたのもたしかである。
児童と老人が労働力からはずされ、これに代わってより多くの女性が労働市場に加わるようになったのも近年の特徴である。
さらに、「ゆたかな社会」の特徴として、「新しい階級」が生まれつつあることをガルブレイスは指摘する。
それは社会的エリート層だといってよい。会社の役員、医者、大学教授、弁護士、ジャーナリスト、芸術家、建築家などといった人たち。かれらは何よりも威信をめざしている。他人から尊敬を集めることが、かれらにとっては、仕事で満足を生みだす源泉になっている、とガルブレイスはいう。そして、その階級はしばしば次の世代へと受け継がれる。
長時間の退屈で陰鬱な労働から、もっと楽しくはたらいて暮らす生活へと次第に転換することは、けっして悪いことではない。生産至上主義にもとづいて所得を極大化することよりも、子どもたちが面白くてやりがいのある仕事をみつけるほうが、両親にとっても幸せなのではないか。それには教育がやはりキーになる、とガルブレイスは考えている。
そして最終章。
われわれの社会では商品の生産が社会の進歩の基本的な尺度になっている。だが、何のための生産かといえば、それは人びとの幸福のためだといってよいだろう。
幸福を定義するのはむずかしい。商品と幸福を同一視するのもどうかと思う。しかし、それはどこかで結びついているはずだ、とガルブレイスはいう。
社会には安全保障が求められる。現代経済の基本的な安定装置は、巨額の税に支えられた大きな公共部門によってつくられる。そのなかに大規模な軍事支出が含まれており、それがいっこうに減る気配を見せないことは問題だが、公共部門が現代経済に大きな役割を果たしていることはまちがいない。
そして、世界にはまだ飢餓と窮乏に苦しむ地域が多く、そこからの救いを約束するために、アメリカは余分の資力をもたなければいけない。科学的に未開拓な分野にも進んでいかなければならない、とガルブレイスはいう。
さらに、こう書いている。
〈アメリカにとって、もっともだいじなのは、能力、知識、教育の資源である。試されているのは、物的な投資の有効性よりも人への投資の有効性だ。われわれは壮大な普遍化の時代に生きている。〉
教育は国防や外国援助に劣らず、重要な公共の分野である。教育をないがしろにして人びとの幸福は得られない。ガルブレイスが最後に強調するのは、教育の重要性である。
こうしたガルブレイスの考え方は1980年代以降、保守派の復権にともない、猛烈な反発を受けるようになった。それでも、ガルブレイスの主張はいまでも聞くべき内容をもっているというべきだろう。
2022-02-05 10:07
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