SSブログ

戸水寛人の怪気炎──美濃部達吉遠望(21) [美濃部達吉遠望]

Treaty_of_Portsmouth.jpg
 立花隆は東京帝国大学教授、戸水寛人が戦争をあおった裏には、近衛篤麿(このえ・あつまろ、1863〜1904)と国民同盟会の存在があったことを指摘している。
 七博士の建白書は、政府の軟弱外交に業を煮やす近衛篤麿の勧めによって、政府に提出されたものだった。
 近衛篤麿は貴族院議長、学習院院長などを歴任し、アジア主義的色彩の強い東亜同文会を結成した。さらに1900年(明治33年)に、犬養毅、頭山満、陸羯南、中江兆民らの同志とともに国民同盟会を設立し、対ロシア主戦論を唱えた。感染症のため日露開戦の直前に亡くなっている。近衛文麿の父である。
 近衛篤麿らの対ロ主戦論に押されるかたちで、戸水ら七博士はロシアと戦うべしという建白書を政府に提出した。1904年(明治37年)2月に日露戦争がはじまると、戸水の意気はさらに上がっていった。
 立花隆の『天皇と東大』から、その言動を紹介する。
 日露開戦直後、戸水は電報新聞に「征露意見」という談話を発表しているが、それはおよそ次のようなものだ(以下、口語に直す)。

〈征露の壮挙は、わが歴史上の大事業である。わが国民はだれもが非常の決心をもって事に当たらなければならない。この機会を利用して、大いに奮発し、わが民族膨張の基礎を確立しなけれればならない。〉

 日本軍の最終進出地点をハルビンとする意見に反対し、戸水はロシアを降伏させるには、さらに先まで進まねばならないと述べている。
「私はいかなる事情があっても、バイカル湖の南岸まで、躊躇なく進撃するべきだと確信している」
バイカル以東の地を占領してしまえば、ロシアの大軍がきても守ることができ、「その時こそ、ロシアも真剣に和を請うようになるだろう」。
 バイカル湖を制するというこの発言によって、戸水は「バイカル博士」の異名をとることになる。
 ロシアが和を請うてきたときの講和条件は何か。
 戸水はいう。

〈民族膨張の基礎を確立する上において、大陸に新天地を得ようとする者は、断じて樺太の獲得をもって満足するわけにはいかない。私は天然の境界線であるエニセイ川以東を得たいと思う。もしこれを得られないときは、少なくともレナ川以東を我が領土としたい。〉

 シベリアの半分を日本の領土にというのだから、ここまでくると完全に誇大妄想である。
 戸水があまりにも突っ走るのにあきれはて、七博士のうち穏健派の小野塚喜平次や高橋作衛(さくえ)は共同戦線から離脱する。しかし、それに代わって、岡田朝太郎、立作太郎(たち・さくたろう)など東大教授の新しいメンバーが戸水のグループに加わった。美濃部達吉はそこから一線を画している。
 日露戦争は緒戦、日本軍が連戦連勝で推移したが、中盤になって旅順の攻略で苦戦した。
 その旅順総攻撃がまもなくはじまろうかという1904年(明治37年)9月末、戸水は東京帝国大学内で開かれた時局学術演説会で、およそ次のように話している(口語に直した)。

〈この日露戦争は20世紀の活劇の序幕である。……日本のために計ると、大陸に割拠して支那と国土を接するようにすることが上策である。これを露骨にいうと、名義上、満洲を支那に返還しても、事実上満洲を日本の領土としなければならない。これは日露戦争を終局させるにあたって、なすべき重要な懸案である。このためにこそ日露戦争を起こした甲斐があろうというものだ。
 もし満洲を事実上日本の領土とするならば、他日支那内地に騒乱があった場合も、日本は満洲の駐屯軍によって、ただちに支那を蹂躙することもできる。……日本人はやむを得ない場合には、支那を蹂躙する準備をいまからしておくべきである。〉

 さらに戸水は怪気炎をあげる。

〈貴重なる日本人の血を流し、あまつさえ巨額の財を費やして占領した満洲は、何年たってもずっとこれを占領すべきである。アジア東部に覇を立てようとするなら、事実上満洲を占領しないわけにはいかない。ここに割拠する者は支那を取ることもできるだろう。
 今回の日露戦争においては、日本はただバイカル以東の土地を併呑するだけでよい。しかし、その次の戦争では、旗をウラルに立て、馬をヴォルガに進めるべきだ。そのためには、まず遠征の根拠地を満洲に置かなければならない。これに加え、日本が朝鮮を領土とする場合も、満洲を併せて占領するのが得策である。……
 古来、戦争を好まぬ人民は亡びるものだ。日本は亡国を手本としてはならない。5年や10年に一度くらいは、かならず戦争に従事すべきである。〉

 しばらくして、戸水は東京帝国大学総長の山川健次郎(1854〜1931)に呼ばれて、一連の言動を慎むよう注意を受けた。だが、戸水は聞く耳をもたない。その後も新聞や雑誌、講演会で持論をくり広げた。
 1905年(明治38年)3月に奉天会戦で日本軍が勝利を収めたあと、戸水は静岡県教育会に招かれて、初等教育の教師たちを前にして、バイカル以東まで進出すべきだという得意の論を披露したあと、さらに次のように演説している(カタカナを平かなとし、読みやすくした)。

〈この際、大いに侵略主義をやったらよかろうと思うのであります。かつまた、ただいま申しましたとおり、満洲の地勢は非常に便利である。満洲を取れば朝鮮を治めるにもいたってやすいのであります。……
 満洲は支那の直隷省[清時代の首都直轄省、現在のほぼ河北省]の隣であるから、支那人がぐずぐず言えば直隷省も取る。直隷省を取れば支那は瓦解して、しまいに都合よくば直隷に入れた兵をもって支那全体併呑する形勢になってくる。……
 要するに日本人はなるだけ侵略主義を取ったらよかろう。すなわち領土を拡大したらよかろうと思うのであります。だから教育の方針を論ずるについても、この点に着目しなければならぬ。国民の膨張を図らなければならぬということは、小学校の時代から子供の脳髄に注ぎこんでおかなければならぬ。それを忘れてもらっては困る。〉

 東大教授が小学校の先生たちに、こういう演説をしているのだ。軍国少年の育成は早くも日露戦争のころからはじまっている。
 奉天会戦のあと、日本の陸戦力はもはや限界に達していた。ハルビンを攻略することさえ難しくなっていた。
 和平が望まれたが、ロシアは応じそうもなかった。日本がアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトに仲介を依頼し、ようやくロシアが和平に応じるのは5月末の日本海海戦で日本海軍がバルチック艦隊を壊滅させたあとである。
 8月10日からアメリカのポーツマスで講和会議が開かれることになった。そして9月5日にポーツマス条約が締結される。
 日本海海戦のあと、アメリカの仲介でロシアが講和に応じることを知った戸水らは仲間と語らって、みずから講和条件を作成し、新聞に発表しようとした。
 それは償金として30億円(現在の感覚では15兆円)、土地として樺太、カムチャツカ、沿海州全部の割譲、遼東半島におけるロシアの権利の譲与、満洲の一部(日清両国の決定による)、さらに物として東清鉄道およびその敷地、シンガポール以東にあるロシアの軍艦その他軍用船、満洲にあるロシアの鉱山その他の建設物といった内容だった。
 山川総長は新聞発表をやめさせようとしたが、戸水らは聞かず、いわば東大教授考案の講和条件案が6月13日付の新聞に掲載された。
 新聞を見た政府は驚き、文部大臣の名で、山川総長に不謹慎な言動をする大学教授を訓戒するよう通達した。だが、山川に訓戒された戸水はそれでも引き下がらなかった。
 7月に発行された『外交時報』に、戸水は「講和ノ時期果シテ到リタルヤ」という論文を発表する。口語に直してみると、その主張はおよそ次のようなものだった。

〈いうまでもなく日本は戦勝国であり、ロシアは戦敗国である。それなのに戦勝国がかしこまって、ひたすら米国の勧誘に応ずる態度を示し、戦敗国は驕傲(きょうごう)な様子で振る舞っている。これはまさに千歳の奇観というべきである。……戦敗国であるロシアの政府がこうした無礼な態度をつづけるあいだは、講和談判が成立することはとうてい望めない。それなら、ロシアにこうした驕傲な態度をやめさせるために、強鋭なる日本の陸軍がさらに何倍もの大打撃をロシアの陸軍に加えるほかない。要するに今日もっとも必要なことは戦争の継続である。全権委員の口舌のごときは、ほとんど何らの用をなさない。〉

 この論文が出たあと、今度は文部省が山川総長を介さず、8月25日に直接、東京帝国大学法科大学教授、戸水寛人を休職処分とする命令をだした。その1週間後、山川健次郎総長は文部省に辞表を提出した。
 文部省が直接大学教授を罷免するのは前例のないことだった。大学は大騒動になった。
 美濃部達吉が登場するのはこのときだ。

nice!(10)  コメント(0) 

nice! 10

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント