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リーマン・ショック再考──『バブルの経済理論』つまみ読み(5) [経済学]

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 アメリカでは2008年9月に大手投資銀行のリーマン・ブラザーズが破綻し、世界じゅうが金融危機におちいった。リーマン・ショックといわれる。そこでは住宅バブルと証券化商品のバブルという二重のバブルが重なっていた、と著者(櫻川昌哉)は指摘する。
 バブルには、それが発生した場所固有の物語がある。
 オランダのチューリップ・バブル、イギリスの南海泡沫事件、フランスのミシシッピ計画、ヨーロッパの数々の恐慌、昭和の金融恐慌、1929年の大恐慌、1980年代のチリの経済危機、日本の土地バブル、1990年代のアジア通貨危機、そのほかいくらでも挙げられるが、どのバブルもそれぞれ固有の特徴を背負っている。
 著者はバブルの一般理論を組み立てようとしているが、それぞれのバブルがもつ固有の特徴を抜きにして、バブルの歴史を語ることはできないという。そのようなひとつとして取りあげられるのが、2008年にアメリカでおこった、いわゆるリーマン・ショックである。
 それはどのようにして発生したのだろうか。
 2000年から2006年にかけ、アメリカの住宅価格は実質で57%上昇し、2006年から2010年にかけ34%下落したという。典型的なバブルとその崩壊が生じていた。住宅価格の上昇がとりわけ際立っていたのは、マイアミやロサンゼルス、ニューヨークだ。

〈この時期はちょうど、住宅ローン債権を担保とした証券化商品への需要が高まった時期であった。2000年には5720億ドルであった純粋に民間発行の資産担保証券(MBS)は、その後急速に増加して2006年には2兆6000億ドルへとほぼ5倍に膨れ上がる。……とりわけ劇的に増加したのが、低所得者向け住宅ローンであるサブプライムローンであった。〉

 サブプライムローンが膨れ上がり、それが住宅価格を押し上げ、最終的にバブルが崩壊する。しかし、この構図を理解するためには、証券化というアメリカ経済独特の仕組みを知らなければならない、と著者はいう。それは1913年まで中央銀行が存在しなかったアメリカの歴史的事情によるものだ。
 詳しい歴史は省略するが、アメリカで全国的な金融制度確立の契機となったのが、1863年に制定された国法銀行法だった。それにより小切手の決済を含め、金融制度は徐々に整備されていくが、それでも金融危機は頻発していた。
 アメリカでは表だった民間の国法銀行や州法銀行とは別に、謎に包まれたプライベートバンクがあった。その代表がJPモルガン商会だ。
 ジョン・ピアポント・モルガンはJPモルガン商会の頭取として、商業銀行と投資銀行を兼ね備えた組織をつくりあげた。富裕層から預金を集めただけではなく、株式や債券の発行・引受業務を通じて企業の資金調達を助けていた。それに加えて、モルガン商会はいくつもの企業合併を仕掛けることで、巨大な持ち株会社をつくりあげている。
「最後の貸し手」がいなかったアメリカでは、JPモルガンこそが事実上の中央銀行だったという。
だが、巨大銀行JPモルガンへの国民的反発も強く、1913年に連邦準備理事会(FRB)が発足すると、12の連邦準備銀行をテコとして、金融制度全般が統括されるようになる。
 第1次世界大戦のあと、国際金融センターはロンドンからニューヨークに移った。アメリカの黄金時代がはじまる。株式市場は活況を呈し、商業銀行は証券子会社を設立して、株式市場に参入した。これにより、株式市場の市場規模が爆発的に拡大し、ウォール街はバブルに躍った。
 そして、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」に、株価の暴落がはじまる。1933年までにアメリカの実質GDPは29%落ち込み、物価も28%下落、失業率は25%に達した。
 大恐慌がおこると、市場を陰であやつっていた巨大銀行に批判が集まった。1933年にはダグラス・スティーガル法が成立、同一銀行の商業銀行業務と投資銀行業務の兼務が禁止される。これにより、JPモルガンは商業銀行となり、投資銀行部門はモルガン・スタンレーとして生き残ることになった。
 ニューディール政策は持ち家取得を促進した。そこからアメリカの住宅金融の歴史がはじまる。住宅ローン専門の貯蓄貸付組合(S&L)が誕生した。さらに政府は預金保険制度を導入して、S&Lの信用強化をはかった。こうした裏づけもあって、S&Lは長期低利の固定金利ローンを提供できるようになった。だが、当初、住宅ローンを組めたのは白人の中産階級以上にかぎられていた。
 1970年代、2度の石油ショックをへて、S&Lは存続の危機に見舞われる。1980年にレーガンが大統領になると、規制緩和がおこなわれ、S&Lも資産運用対象の拡大、預金金利の自由化を認められるようになる。そのいっぽうで、預金保護は維持されていた。そこでS&Lはハイリスク・ハイリターンの融資案件や金融商品に手を出すようになる。ギャンブル的な不動産開発がはじまった。
 いっぽう、S&Lは手持ちの住宅ローンの売却をはじめた。これにより市場に住宅ローン証券が出回るようになる。投資銀行のソロモン・ブラザーズはS&Lから大量の住宅ローン債権を買い取り、住宅ローン担保証券(MBS)として売りだすようになった。
 住宅ローンの証券化とは、住宅ローンを担保にして、新しい証券をつくり、それを売りだすという手法である。債権のリスクはあるが、それを大量にまとめれば金融工学の手法でリスクを軽減し、利益が確保できると考えられていた。
 まさに先取りしておカネをぐるぐる回して儲けをかすめるといった感じだが、多くの銀行が国債より利回りの高い安全資産として、住宅ローン担保証券を大量に買い入れるようになった。
 だが、著者はここに「証券化モデルの致命的な欠陥」があったという。「証券化スキームは、責任を持って借り手から債権を回収する主体が存在しなくなるという致命的な問題点を抱えている」というのだ。
 証券化は貸し出しの質の低下という致命的な欠陥を内包していた。証券化では適格な担保は確保されない、と著者はいう。
 にもかかわらず、証券化商品は大量に発行されつづけた。2000年に5720億ドルだった住宅ローン担保証券は2006年に2兆6000億ドルへと5倍に膨れあがった。いっぽう、銀行は貸出条件を緩和して、住宅ローンを拡大し、サブプライムローンは劇的に増加した。
 しかし、住宅価格の上昇をあてにしたビジネスが長続きするわけがない。住宅価格が下落すると、返済不能の貸出債権が続出し、証券化商品の価値も暴落する。こうして、アメリカの住宅バブル(二重のバブル)が崩壊していく。
 アメリカで証券化ビジネスが拡大したのは、中央銀行体制の確立が遅れたアメリカの風土と関係している、と著者は考えているようだ。
 規制緩和とともに巨大銀行の時代が到来すると、商業銀行は貸し出しだけではなく、証券化商品の購入に走るとともに、資金調達手段を多様化するようになっていた。子会社を利用して、ABCPと呼ばれる短期性負債を発行し、資金を調達していたのだ。
 バブル期特有のシャドーバンキングも生まれる。

〈シャドーバンキングとはいわば、伝統的な銀行部門の外側にできた信用仲介ネットワークである。銀行規制の網をかいくぐろうとして生み出されるのが一般的であり、当局の規制は及ばないため、信用膨張を抑制することができず、金融危機の原因となる。〉

 2006年から2007年ごろにはじまった住宅バブル崩壊は、住宅価格を下落させ、同時に住宅ローン担保証券の価格を下落させた。そして、2008年9月にリーマン・ブラザーズが破綻し、いわゆるリーマン・ショックがはじまるのである。MMF(マネー・マーケット・ファンド)は額面割れし、信用不安の連鎖がドミノ状にほぼすべての金融機関を襲った。

〈なぜ、世界で最も効率的で革新的なはずの金融システムは崩壊したのかと問うとしたら、その革新性にこそ崩壊の原因があったのである。長い間、中央銀行を持たなかったアメリカでは、絶えず民間貨幣創造の挑戦が試みられた。安全資産の根拠を安易に政府保証に求めない歴史風土が証券化商品を創り出し、アメリカの金融は一敗地にまみれたのである。〉

 しかし、だからといって、2008年のリーマン危機が、すべてアメリカの特殊事情によるものと著者が言っているわけではない。バブルの発生と崩壊、金融危機はそれぞれ国ごとにさまざまな形態をとる。にもかかわらず、近代世界の誕生とともに、経済にバブルはつきものであって、その状況はいまも変わらない。バブルはいつのまにか忘れられるが、けっしてなくなったわけではない。
 バブルとは何なのか。ここで、われわれは最初の章に戻って、あらためて著者によるバブルの定義をみていくことにしよう。

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