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中曽根康弘の時代──大世紀末パレード(12) [大世紀末パレード]

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 引きつづき服部龍二の『中曽根康弘』に頼りながら、中曽根政権の時代をふり返ってみる。
 1983年12月の総選挙で大敗したあと、中曽根は新自由クラブとの連立をはかり、第2次内閣を発足させた。田中派の影響力を排除することを明言して、官房長官には後藤田正晴に代えて自派の藤波孝生を起用している。
 第2次内閣でも、中曽根は引きつづき華々しい外交を展開した。
 1984年3月には訪中し、胡耀邦総書記、趙紫陽首相、最高実力者の鄧小平中央顧問委員会主任と会談し、円借款の増額や中ソ関係の見通しなどについて話しあっている。円借款について、中曽根は「対中協力は戦争により大きなめいわくをかけた反省の表れであり、当然のことである」と踏みこんだ発言をしている。
 このころ日中関係はきわめて緊密で良好だった。訪中の成果をみずからの日記に「日中不再戦の確認。日中提携はアジア、世界の平和と安定力になる」と記している。
 ゴールデンウィークにはパキスタン、インドを訪問。5月末には民主カンボジアのシハヌーク大統領と会談している。
 韓国との関係も良好だった。9月には全斗煥が韓国大統領としては初の来日をはたしている。このとき中曽根は「日韓両国の千年の基礎をつくりたい」と述べて、長くつづく日韓友好への意欲を見せた。
 10月31日には、総裁選がおこなわれないまま、自民党両院議員総会で総裁再選が決まる。
 1985年にはいると、総裁候補を出せない田中派の亀裂が大きくなっていく。2月7日には田中派の蔵相、竹下登が新たな政治団体、創政会を発足させる。そして、2月27日に田中角栄本人が脳梗塞で倒れ、入院した。「闇将軍」と呼ばれた田中の政治支配が終わろうとしていた。
 その前の元旦早々、中曽根は訪米し、1月2日にレーガンと首脳会談をおこなっている。アメリカの対日貿易赤字問題、安全保障問題、日本の予算編成などが議題となった。中曽根は、電気通信、エレクトロニクス、木材、衣料品の4部門での市場開放、アメリカの戦略防衛構想(SDI)への賛意、防衛費のGNP比1%枠の撤廃をレーガンに約束している。
 その後、9月22日にニューヨークで、先進5カ国の蔵相によるが集まり、ドル高を是正するための会議が開かれた。日米貿易摩擦解消の流れを受けて、日本からは竹下蔵相が出席した。
そのときの合意(いわゆるプラザ合意)により、1ドル240円台だったドルは、1年後には150円台で取引されるようになる。円高不況に備えるため、日本では緊急の内需拡大策がとられた。それがバブルにつながっていく。
 ソ連では3月10日にチェルネンコ共産党書記長が死去したため、ゴルバチョフが後継者となっていた。中曽根は3月12日から15日にかけて訪ソし、チェルネンコの葬儀に参列、14日にゴルバチョフと会談している。中曽根が北方領土問題をもちだしたのにたいし、ゴルバチョフはあくまでも否定的な姿勢を示した。
 華やかな中曽根外交がつづいている。
 5月にはドイツでボン・サミットが開かれた。この会議に出席した中曽根は、アメリカのSDI構想にたいする西側の結束を求め、自由と民主主義という自由世界の大義を確認している。
 8月15日には靖国神社を公式参拝するが、中国では反日デモが巻き起こった。韓国でも非難の声が渦巻いた。それにより、以後、中曽根は靖国公式参拝を断念する。日本に好意的な胡耀邦や全斗煥との関係を重視したのだ、と服部は記している。
 靖国問題でつまずいた中曽根は10月に開かれた国連総会に出席し、リカバリーをこころみている。韓国の盧信永(ノシンヨン)首相、中国の趙紫陽首相と相次いで会談、中韓両国との関係改善をはかっている。
国連総会での演説では「戦争と原爆の悲惨さを身をもって体験した国民として、軍国主義の復活は永遠にあり得ないことであります」と述べている。日本がふたたび軍国主義の道をたどらないことを約束したのだ。
 年末、中曽根は内閣を改造し、後藤田正晴をふたたび官房長官に据える。来年の東京サミット、国鉄分割民営化、解散、総選挙を見すえての布石だったという。
 1986年の年明け早々には、ゴルバチョフ、レーガンと、それぞれ親書のやりとりがあった。
ゴルバチョフの親書は日ソ交流の多様化を歓迎するとしたうえで、アメリカとの核軍縮交渉の開始を伝えていた。これにたいし、中曽根は欧州での核兵器削減に比例して、アジアでも削減を実施してほしいと求めている。
 米ソ軍縮交渉についてのレーガンの親書には、ソ連がウラル以西のSS20をすべて撤去し、アジア配備のSS20を半減させるのに応じて、アメリカは西ドイツ配備の核を撤去すると記されていた。
これにたいし、中曽根はめずらしくレーガンにクレームをつける。半減は前進だとしても、アジアに核を残すことには賛成できないと主張し、外務省を通して、代替案を提言している。ちなみにレーガンとゴルバチョフが中距離核戦力(INF)を全廃するという画期的合意に達するのは翌年12月のことである。
 4月にはレーガンとのキャンプ・デービッド会議が開かれた。アメリカの核戦略や日米貿易摩擦問題が議題となった。貿易摩擦問題に関して、中曽根は日本は対米貿易黒字を減らし、構造調整に努力すると述べている。
 5月4日から6日にかけては、赤坂迎賓館で東京サミットが開かれた。「国際テロリズムに関する声明」のほか、チェルノブイリ原発事故に関する声明が出された。このときの中曽根の采配ぶりはみごとだった、と外務省関係者は評価しているという。
 残された難関が国鉄の分割民営化だった。日本電信電話公社と日本専売公社はすでに民営化が決定され、1985年4月1日にNTTとJTが発足していた。
 国鉄は巨額の借金をかかえており、民営化は既定路線になっていた。問題は、国鉄内でも自民党内でも、分割への抵抗が強かったことだ。中曽根は分割に消極的な国鉄総裁を更迭し、自民党内の運輸族を説得するなどの下準備をしたうえで、1986年3月に国鉄の6分割民営化法案を閣議決定した。
 6月2日の衆議院解散決定は突然で、「寝たふり、死んだふり」解散と呼ばれた。7月6日には衆参同日選挙が実施され、自民党は54議席増の304議席で圧勝、野党の社会党、民社党、新自由クラブは惨敗した。
 7月22日に発足した第3次中曽根内閣では、竹下登が幹事長、安倍晋太郎が総務会長、宮沢喜一が大蔵大臣に就任、運輸大臣には橋本龍太郎が選任された。河野洋平などの率いる新自由クラブは解党し、自民党に合流した。
 11月28日に国鉄分割民営化法案が可決され、翌1987年4月1日のJR発足が可能になったのは、衆参同日選挙での自民党圧勝のおかげだ、と服部は論じている。
 第3次内閣では、一部閣僚の不適切発言があったものの、中曽根はあくまでも韓国や中国との友好関係を保とうとした。そのいっぽうで、念願の防衛費GNP比1%枠の突破にも成功する。
 しかし、1987年にはいると、そろそろ中曽根政権の任期満了がみえてくる。
 ゴルバチョフの来日は、都合により中止される。その日程を利用して、中曽根は東ドイツ、ユーゴスラビア、ポーランドを歴訪し、日本外交の幅を広げようとした。
 日米間では、経済摩擦がますます高まっていた。レーガン政権は4月に日本製のパソコン、カラーテレビ、電動工具の対米輸出に100%の報復関税を課した。さらに新関西国際空港にアメリカの建設業界を参入させるよう圧力をかけた。
 秋には自民党総裁の任期切れが迫っていた。そうしたなか、中曽根は税制改革に執念を燃やした。所得税の最高税率と法人税の基本税率を引き下げるいっぽう、5%の売上税(現在の消費税)の導入をめざしたのだ。
だが、国民からの反発は強く、売上税法案は5月に廃案となり、9月の国会では所得税の減税だけが可決された。間接税の導入は、次の内閣にゆだねられた。
 9月の外遊をしめくくりとして、中曽根は10月に総裁の座を降りることとなった。
 中曽根外交の成果は目を見張るものがあった。
服部は次のように評している。

〈貿易摩擦や靖国参拝をめぐる不協和音のほか、数々の問題発言もあったものの、中曽根はアメリカだけでなく、中国や韓国の指導者とも良好な関係を築いた稀有な政治家である。軍事、経済の両面でアメリカの圧力に適応しながら日米同盟を強化し、中韓とも連携を深めることで、中曽根は新冷戦下での対ソ戦略を有利に進めた。〉

 ポスト中曽根の総裁候補は、安倍、竹下、宮沢に絞られていた。だが、総裁選はおこなわれない。中曽根の裁定により、竹下が自民党総裁の座につく。
 こうして中曽根は11月6日に首相を退任し、竹下が新首相に就任した。

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