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高砂小学校──美濃部達吉遠望(6) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部研究会会長の宮先一勝さんには『評伝美濃部達吉』の著書がある。伝記としては、これにつけ加えるものは、あまりない。ぼくにできることは、達吉の生きた時代を遠くから眺めて、そのころの雰囲気を再現してみるくらいのものだ。
 達吉自身はみずからの詳しい遍歴を綴っていない。
 その思い出を記したものとしては、「大学に入るまで」、「大学を去るに臨みて」、「退官雑筆」の短いエッセイがある程度だ。
「大学に入るまで」には、子どものころの思い出が書かれている。
 その冒頭を読んでみよう(現代表記とし、漢字を仮名にするなどして読みやすくした)。

〈私の出身地は播磨で、相生の松で知られている高砂の町は、私の生まれた郷里だ。祖父の代から同町で医業を営んでいたが、そのころは医者というと、民間でも比較的には漢学などの素養のあった者が多かったらしく、私の祖父も、私の幼年のころは八十歳前後の老齢ではあったがまだ壮健で、私塾というほど大げさなものではないが、町の青年や少年を集めて四書五経などの素読を教えていたので、私もその中に交じって五つ六つのころから、三字経や千字文、大統歌などから始めて、四書、五経、日本外史、史記、左伝などの素読を祖父から教わった。
 意味もわからずにただ素読だけをするのであるが、それでも詩経などは成人になってからは一度も読んでみたこともないのに、語調のよいせいか今でもところどころ字句を覚えているのをみると、子供の時の素読の練習もあながち馬鹿にはならぬと思う。〉

 美濃部達吉は1873年(明治6年)5月7日に生まれた。達吉は次男で、3歳年上の兄(俊吉)と、姉、妹がいる。
 達吉が生まれたとき父の秀芳と母の悦は32歳、祖父の秀軒は71歳だった。1885年(明治18年)に84歳で秀軒が亡くなったとき、達吉は12歳になっていた。
 祖父から漢学の教えを受けたというのがほほえましい。そのころは四書五経をはじめとする儒学、日本外史や史記などの歴史が、江戸時代以来の一般教養としてまだ受け継がれていたのだ。
 明治になると国家による公教育がはじまる。達吉も小学校、中学校を経験している。

〈一体に早熟であったと見えて、今ならば規則違反でとうてい許されないことだが数え年の五つの歳、即ち満四年になるかならずに小学校に入れられ、十一の歳には、郷里から六里ばかり離れた今の県立中学の前身で、そのころは五郡かの連合で立てていた小野の中学校に入学することになった。学校には寄宿舎があって、そこに入れられたのだが、ほかの生徒たちはたいていは二三年から五六年も年上の人たちばかりなので、よく皆からいじめられたり泣かされたりしたことを覚えている。〉

 高砂町の東宮町に正式の小学校ができたのは1876年(明治9)のこと。それ以前にも寺子屋に毛のはえたような小学校もあったらしいが、それはすぐに廃止されたらしい。
 最初は偕老小学校と名づけられ、すぐに高砂小学校と改称された。達吉は町にこの小学校ができてからすぐに満4歳で入学している。このころの就学率は男子50%、女子20%と低かったらしい。町にまだ中学校はなかった。
 明治政府は1871年(明治4年)に文部省を創設し、翌年、学制を公布した。それまで武士以上にかぎられていた(高砂には申義堂という町人学校があったが)教育が全国民にほどこされることになった。
 その学制にいわく。

自今以後一般人民、華士族農工商及び婦女子、必ず邑(むら)に不学の戸(こ)なく、家に不学の人なからしめざるべからざるものなり。

 一般人民の義務教育、男女教育の機会均等、個性の自由尊重が高らかにうたわれたのである。
 この学制は、全国を8大学区とし、1大学区を33中学区に分け、さらに各中学区を210小学区に細別することを宣言していた。具体的には、8大学、256中学校、5万3760小学校が設けられる予定だった。
 だが、この計画は思いどおりにはいかない。文部省にはわずかの予算しかなかったのである。そのため学校の建設は地域にまかせるほかなかった。
 学制は強制的に実行されたものの、学校の建設は遅れ、地元民は大きな負担を強いられた。また義務教育とされながら、小学校で勉強するには月謝50銭(いまでいうなら5000円)を支払わねばならなかった。就学率が低かったのも理解できようというものだ。
 そのころ、達吉の父、秀芳は加古郡第4学区学務委員に任命されている
 小学校の学齢は満6歳から満14歳まででとされていた。しかし、達吉は満4歳で高砂小学校にはいり、11歳で中学校に進んだ。
 子どものころの達吉がどんなふうだったかをうかがう手立ては、息子の亮吉が高砂の古老に聞いた話として記述しているもの以外にない。
 美濃部亮吉の『苦悶するデモクラシー』には、こんな記述がある。

〈父[達吉]は、子供のときから変り者だといわれていた。どう変っていたのかはよくわからない。父とおなじ小学校にいたという二人の老人にいろいろ伺ってみたが、要するに同年輩の子供たちとなわ飛びや石けりなどをして遊ぶようなことは全くなく、ほかの子供たちなどはまるで相手にもしないという風だったということである。要するに子供のときから極端に人づき合いが悪かったようである。この習癖は死ぬまでなおらなかった。
 もう一つの特徴はいつも洟(はな)をたらしていたことだそうだ。鮭の頭だとか、ぼらだとかいうあだ名は、あの特徴のある頭の恰好と鼻の形からつけられたもののようである。そうして、その鼻は、鼻が悪いことから、ああいう特徴ある形になったように思われる。子供のとき、いつも洟をたらしていたのも、鼻自体が悪かったせいなのだろう。……
 変りものの洟ったらしの達吉さんも、学校では、文字通りの神童であった。小学校での美濃部の達吉さんは、ほかの子供たちとは、全然別格にとりあつかわれていた。そのころの小学校では、飛びぬけてよくできる子供は、一級ぬかしてその上の級に進学することが許されていたらしい。父はどんどん級をぬいて進級し、六年の小学校の過程を三年か、四年ですましてしまった。〉

 小学校令が出て、小学校が4年制の尋常小学校と4年制の高等小学校に分けられるのは、1886年(明治19年)のこと(その後、何度も修正が加えられた)。達吉が小学校に通ったのは、それ以前である。
 そのころ小学校は6年と定められていたわけではないから、亮吉の記述はあやまりである。実際には8年制だったようだ。日本の学校制度はころころと変わった。
 飛び級というのも伝説かもしれない。ただ、神童と呼ばれていたことはたしかだったようで、4歳から11歳まで高砂小学校で学んだあと、達吉は高砂から20キロほど離れた小野にある中学校に入学するのである。

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