SSブログ

中沢新一『大阪アースダイバー』 から──山片蟠桃補遺(2) [山片蟠桃補遺]

img225.jpg
 山片蟠桃の勤める升屋は梶木町、いまの北浜4丁目にありましたが、ここはいうまでもなく、船場に位置していました。
 そこで、たまたまぼくの手元にあった中沢新一の『大阪アースダイバー』をぱらぱらとめくりながら、船場とはどういうところかを考えてみようというわけです。ぼく自身は実家に帰るとき、大阪を通り過ぎるだけで、一度も大阪暮らしをしたことがないので、残念ながら船場といっても、なかなか実感がわかないのが実情です。
 この本のオビには「南方と半島からの『海民』が先住民と出会い、砂州の上に融通無碍な商いの都が誕生・発展する」と書かれています。
 こんなふうに五千年の歴史をわずか2行に圧縮して説明されても、想像力の乏しいぼくなどは何のこっちゃと思ってしまうのですが、とりあえずはるか昔、海からやってきた海民が砂州に築いた商都、それが大阪だと理解しておきましょう。人類学は時間軸がめちゃくちゃ長くて、しかもそれがときどき入り乱れるので、読むほうは混乱してしまいます。
 それはともかく、本書のあとがきでも、中沢は「大阪という存在を全体性において考えるには、やはり中核は船場であるように思います」と書いています。船場があってこそ、キタやミナミが成立するわけですね(もっともそのへそは上町台地の四天王寺というわけですが)。
 第2部「ナニワの生成」を読んでみました。
 そもそも商人とは何かというところから中沢からはじめています。古代人は物にはタマ(魂)が宿っていると考えていました。商人はその物を「無縁」の場に持ちだすことによって、物からタマを切り離します。それによって、物の属人的な関係を破壊し、物をカネで買える商品に変えてしまうのです。
 古代は物にタマが宿っていたといわれると、なるほどそうだったのかなと思ってしまいます。だから、物をもらうということ、物をあげるということ、物を返すということはたいへん重いことだったのですね。
 物からタマが切り離されると、物は人間的な関係を失って軽くなり、一定のルールのもとに(つまりおカネのやりとりで)、自由に交換されるようになります。その仲立ちをしたのが商人ですね。中沢は「商人は、人と物とを『無縁』にする原理にしたがって生きようとした、最初の近代人である」という言い方をしています。
 しかし、商人があらわれたからといって「商品世界」が誕生するわけではありませんね。ぼくにいわせれば、人びとが何もかもおカネに頼って暮らすようになるのが「商品世界」です。人びとはおカネを稼ぐためにはたらかねばなりません。そして、その世界は近代においては、ひとつの世界システムに組みこまれていくのです。
 古代、中世、近代と区別すれば、中世はいわば、古代社会から近代商品世界にいたる過渡期にあたります。江戸時代は近世と呼ばれますが、中世から近代への橋渡し、いわば近代の入り口にあたるわけです。
おっと、本からはずれてしまいましたが、ナニワは水底から生まれてきた、と中沢は書いています。淀川の運んだ土砂が砂州をつくり、そこに海民=商人と芸人(クグツ)がやってきます。
 ナニワが海だったなんて信じられないという向きにたいして、中沢はいかに大阪に島のつく地名が多いかを挙げています。中之島、堂島、福島、網島、都島、田島、北島、出来島、姫島……。みんな島だったんです。
 古代、この地は「ナニワ八十島」と呼ばれていました。ナニワとはナルニワ。すなわち、水底からごぼごぼと生まれてくる島々のことを指していたというのが、中沢説です。
 ナニワは砂州から生まれた都市です。そこは無縁の地でした。無縁とは共同体と共同体の隙間を指しています。
 そこで商人の誕生です。商人は海民から発生した、と中沢はいいます。商品はそもそも流れていくものです。
 それと同時に商品にはもともと神への供え物という意味があって、ナニワ八十島の海民は、朝廷に海産物の贄(にえ)を献上していたというのです。中世にいたり、こうした海民(供御人)が余った海産物を売るようになったのが、市場のはじまりです。そうした市場は無縁の空間である砂州や河原につくられました。このあたりは網野史学が横溢していますね。
「商人は『無縁』の原理から発生した、新種の人間として歴史に登場した」と、中沢は書いています。しかし、贈与や愛情のような人間どうしのつながりではなく、信用と交換という計算づくで動いている商人には、どこか無気味で、合理性の怪物のようなイメージがつきまとっていました。
 商人が集まって見世を出すと、町場が生まれます。そうした商人の同業組合が「座」となります。油座や魚座、藍座、薬座、酒麹座などの座。これは村の共同体とは異なる自由な商人連合の組合組織です。それは地縁や血縁から切り離された、いわば信頼関係にもとづく新たな組織でした。そのような座がはじめてつくられたのが船場という場所だった、と中沢はいいます。
 その船場という場所に、われわれは立っています。そして、ここは神爪村と無縁になった少年、山片蟠桃がほうり込まれた最先端の道場だったともいえます。
 そこがどんな場所だったのか、『大阪アースダイバー』をもう少し読んでみることにしましょう。

nice!(11)  コメント(0)