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船場の丁稚どん──山片蟠桃補遺(4) [山片蟠桃補遺]

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 一説に、船場はもともと着船場(ちゃくせんば)、つまり船着き場のことだったとあります(牧村史陽『大阪ことば事典』)。この説にしたがうと、着船場の着がとれて船場になったわけです。たしかに「せんば」という特殊な読み方は、そんなところに由来するのかもしれません。
 さて、今回は香村菊雄の『船場ものがたり』 に沿って、話を進めていきましょう。
 まず、船場の範囲ですが、それは土佐堀川と東横堀川、そしていまは埋められてしまった西横堀川と長堀川に囲まれた東西に長い長方形の地域でした。昔の大阪は堀川がめぐらされた水の都だったことがわかります。これは物資が水路で運ばれたためですね。
 町は碁盤上に形成され、南北に筋、東西に通(とおり)が走っています。江戸時代の町名は、北から南に、北浜、内北浜、今橋、高麗橋、伏見町、道修町(どしょうまち)、平野町、淡路町、瓦町、備後町、安土町、本町、南本町、唐物(からもん)町、北久太郎町、南久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町、順慶町、安堂寺町、塩町となっていました。だいたい1丁目から5丁目までありました。
 町は「ちょう」ではなく「まち」と読みます。いまも残っている町名もあるし、残っていない町名もありますが、その名前をみていると、なんとなく町の由来や扱っている商品がわかってくるから不思議です。
 ほかにちいさな町もあります。北浜の東側、土佐堀川に面しているのが大川町(おおかわちょう)です。「ちょう」と読む例外。ここはいまも昔も住友の拠点です。そして、その一本通りを南にはいったところにあるのが、われらが蟠桃の勤めていた升屋のある梶木町(かじきまち)ですね。
 船場を横切って通りは城に向かっています。縦の筋として有名なのは、何といっても御堂筋ですね。御堂筋には北御堂(西本願寺)と南御堂(東本願寺)が立っています。だから、御堂筋というわけです。明治以降、御堂筋は大幅に拡張されました。堺筋も同じです。
 船場の町をつくったのは、豊臣秀吉です。大坂城築城にあわせて、堺や伏見、平野、伊勢などから商人を呼び寄せて、あきないをさせたといいます。
 しかし、秀吉の時代は短く、大坂夏の陣の落城で船場も焼け野原になりました。それを立てなおしたのが徳川幕府です。大坂城は再築され、新たな堀川がつくられ、商業優遇措置がとられ、船場は復興します。
 徳川幕府は商人に自由な活動、自由な生活を認めていたわけではありません。むしろ、些細な部分まで統制がおよんでいたというべきでしょう。商人には、生活態度、着る物、持ち物、食事、建物、乗り物にいたるまで、制限が課されていました。基本はぜいたく禁止令です。これに違反した淀屋辰五郎は身代を取り潰されました。ばかばかしいほどの法令ですが、徳川期に、この法令は意外ときいて、船場の商人はぜいたくを慎み、富の蓄積にはげむことになります。
 ぜいたく禁止は、けちとしまつの精神へと結実し、商家には上から下までその精神がしみついていきます。
 商家の構成は、旦さんを筆頭に、それを補佐する大番頭、その下に番頭、手代がいて、一番下が丁稚です。もちろん、家の中では御寮人(ごりょんさん、若奥さん)が大きな力をもっていて、女衆(おなごし、下女)をまとめるとともに、家内に何かと気を配っています。
丁稚は7、8年修行して、17か18で手代見習になります。それから二十歳をすぎて、番頭の娘や、時に主人に見込まれたときにはいとさん(お嬢さん)を嫁にもらったりして、30そこそこで番頭になるわけです。
 番頭になると、別家を認められ、いわば支店のようなものをまかせられることもあります。別家しないで残り、大番頭に進む者もでてきます。蟠桃が選んだのは、この道ですね。主人が幼かったため、蟠桃は実質的に升屋の経営者となり、倒産寸前だった升屋を立てなおすことになります。
 ところで、丁稚の話です。丁稚の1日はどんなふうだったのでしょう。
 丁稚は商家ではたらく、だいたい10歳から17歳くらいまでの男の子で、番頭や手代に呼び捨てにされ、休む間もなくこきつかわれます。縁故採用が基本です。蟠桃の場合も、おじさんが升屋の番頭を務めていました。
 お目見えの日は、店の者に丁稚の呼び名で紹介され、つづいて家族や女衆にも紹介され、ごりょんさんから木綿縞の着物、下着、前垂や草履などをもらいます。女中頭からは箱膳を渡され、食器や箸をもらい、そのしまい方を教わります。掃除の仕方や寝る場所、その他こまごまとしたことを教えてくれるのは先輩の丁稚です。
 やっかいなのは船場のことばです。播州のいなかからやってきた蟠桃は、最初、聞き慣れないことばに、ずいぶんとまどったと思いますが、徐々に慣れてきたことでしょう。たとえば、船場では出かけるときに「いて参じます」といわねばならず、それにたいして「はよ、お帰り」ということばが返ってきます。船場では、いまの漫才やコントのようなことばはけっして使わず、なめらかな浄瑠璃のようなことばで、丁寧語の「ござります」や「ござりまへん」がよく用いられていました。
 播州にくらべ、船場のことばはやわらかい。ずけずけした言い方はしません。それにどことなくユーモアや皮肉、しゃれも含まれています。蟠桃が番頭である自分に引っ掛けて、一度だけ蟠桃と名乗ったのは、こうしたしゃれ心をきかせたためでしょう。それが、いまでは山片蟠桃という堅苦しい名前になって通用しているのですから、泉下の升屋小右衛門(こえもん、略称、升小)も苦笑いしていることでしょう。
 ちなみに香村菊雄によると、谷崎潤一郎が『細雪』でくり広げていることばは、昭和10年代のもので、船場ことばとしては、ずいぶん崩れていて、チャンポン船場弁になっているといいます。
話がちょっと脇にそれてしまいましたが、『船場ものがたり』のえがく丁稚の一日はコマネズミのようにすぎていきます。
 いまの時間で朝5時ごろ起きると、自分のふとんをあげ、店の着物に着替え、顔を洗うと、すぐに表の掃除です。終わったら夏なら外に水をまきます。つづいて、店の間にはたきをかけ、隅から隅まで拭き掃除をします。硯の水を替え、たばこ盆を掃除し、灰吹きを洗い、火鉢の灰の処理、花瓶の水の取り替えと目まぐるしく仕事をしたあと、やっと朝食です。早飯早糞が原則。そのあと、仕事にとりかかります。職種によって、その作業はさまざま。升屋のような米仲買にはどんな仕事が待ち受けていたのでしょう。ことこまかな仕事が休む間もなく次々に押し寄せたにちがいありません。
 雑用もまたきりがありませんでした。買い物や洗濯物の片づけなど、女衆の手伝いもやらされたかもしれません。いとさんやこいさんの雑用、おえさん(年配のごりょんさん)の仕事、それにだんさんのお供もあったでしょう。「それはもう連続的に、あれやこれやの雑用私用が、よくもこれだけあるものと思うほどあるのであった」と香村菊雄も書いています。
 それでいて、給金はなし。番頭さんの言では、店は「金もうけの秘訣を教えてくれはるのに、一文の月謝も取りはらん。あべこべに、ここでは三度の御飯もただで食べさしてくれはる」という理屈になります。
 明治の終わりになっても、尋常小学校を出て10歳のころからすぐに丁稚として船場の店に勤める人は多かったようです。松下幸之助もそのひとりでした。「ぼくの場合は(丁稚時代の)生活体験がそのままぼくの人生観をかたちづくってくれたような感じがします」と語っています。
ですから、丁稚の仕事は、学校とはまるで無縁のようにみえて、じつはそれ自体が実地の商業学校だったのです。
 すると、蟠桃もまた学校とは無縁だったかというと、そうではありません。むしろ、かれは徳川時代の高等学府ともいえる懐徳堂で学んでいるのです。どうして、そんなことが可能だったのでしょう。そこには升屋主人、二代目平右衛門の考えが強く作用しています。
 升屋文書はいま大阪大学の懐徳堂研究センターに預けられ、解読が進められているところです。ですから、これからさまざまな資料がでてくる可能性がありますが、いまのところ升屋平右衛門の考えは推測の域をでません。おそらく平右衛門はこれから商家の経営を担う者には、学問が必要だと考えていたのでしょう。蟠桃はお気に入りの丁稚でした。そのため、平右衛門は蟠桃を懐徳堂で学ばせることにしたのです。丁稚としては破格の扱いです。
 当時、大坂を代表する豪商は鴻池ですが、香村菊雄によると、鴻池の3代目善右衛門宗利は、享保17年(1732)におよそ次のような家訓を遺しているそうです。長いので、現代語訳でそのポイントだけを列記しておきます。
「身持ちのよくない者は不適格とみなして、一族相談のうえ追放し、他に相続人を立てること」
「親類や縁者に対しても、金銭を融通することを堅く禁じる」
「本家に多くの子がいた場合でも、先祖から譲り渡された全財産は嫡子に相続させること」
「毎月相談日を決めて万事相談せよ。一存で片付けず、意見一致の上解決すること」
「代々出入りのお大名には、相変わらずご用をつとめなくてはならぬが、新規に出入りを求められて、気軽にお貸しすることはならぬ」
「本業以外の商売に手を出すな」
「当主一族は子や孫までもよく読書すべし。良い先生がいらっしゃれば、家の方へお呼びして講義していただき、手代どもも聴講を受けること。学問も業務以外の勤めと心がけよ」
「別家の手代と本家の手代が、商売向きのことで、内々に打ち合わせることを禁じる」
「気づいたことは、相談のうえ、本家当主に上申して実行せよ。お互いにたしなみ、常に家のためになることをよく考えて油断なく勤めること」
「殺生を楽しむことは堅く禁じる」
「当主はじめ、分家、その子孫の者たちも、成人して遊興で素行を乱すことのないよう」
 船場では、鴻池の教訓は、鴻池だけではなく商家全般の教訓として受け止められていたと思われます。特徴的なのは、本業以外の商売に手を出すなとしているところかもしれません。いかにも堅実な姿勢がみてとれます。それと、学問を重視していることですね。実際、鴻池は懐徳堂の運営を支えています。
 升屋平右衛門が鴻池の影響を受けたこともじゅうぶんに考えられます。鴻池に見習って、学問がだいじだと思うようになっていたのでしょう。平右衛門もまた懐徳堂の支援者でした。そこで、子飼いの蟠桃を懐徳堂に通わせることになります。
 平右衛門には嫡男がいませんでした。生まれた男子は早世し、長女はすでに嫁入りし、いま家には次女のなさしか残っていません。このころ、なさは10歳足らずだったのではないでしょうか。平右衛門の頭には、ひょっとしたら蟠桃をいずれ聟にという思いもかすめたかもしれません。その思いが蟠桃の懐徳堂通いにつながったとみるのは、ちょっとうがちすぎでしょうか。
 実際には、4年後、平右衛門は甥っ子を養子に迎えることにしました。このとき養子になった平治郎は15歳。12歳か13歳だったなさと、いずれ結婚することになっています。平治郎が升屋の養子になったとき、蟠桃は17歳です。小説なら、この三者の関係がどんなふうだったか、空想がふくらむところです。
 ところが、平治郎を養子に迎えた直後、平右衛門に嫡男、平蔵が生まれたことが、事態を複雑にします。母親は誰だったのでしょう。ぼくなどは、平蔵はおめかけさんから生まれた子どもではないかと疑ってしまいますが、げすの勘ぐりかもしれません。
 5年後、平右衛門は亡くなり、平治郎が升屋の家督を継ぎます。しかし、しばらくするうちに升屋は倒産の危機に見舞われます。そのとき、24歳の蟠桃は22歳の平治郎を追放し、8歳の平蔵を擁して、升屋を立てなおすことになるのです。背景に何があったのか。このあたりも興味がつきないところですね。いずれにせよ、手代の蟠桃が経営手腕を発揮するのはこのときからです。

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