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金子直史『生きることばへ』を読みながら(5) [人]

 2018年9月に亡くなった共同通信元文化部長の金子直史さんは、最後の半年間をどのようにすごしていたのだろうか。
 日記をみると4月からベクティビックスの投与がはじまったことがわかる。ベクティビックスは大腸がんの増殖を抑える抗体医薬品だが、重大な皮膚障害をともなうことがある。
 金子さんの場合も、最初は快調で、腫瘍マーカーの数値も劇的に減ったが、2カ月ほど後には皮膚障害が出はじめる(「顔の赤黒い腫れ、火傷状の痛み、ひりひり感」)。皮膚障害で薬の投与をやめれば、痛みが強くなった。ベクティビックスをやめるわけにはいかなかった。
 幸い、2週間ほどで皮膚障害は収まり、薬で激痛は緩和されるが、痛みと全身のだるさ、しんどさ、猛烈な眠気がなくなったわけではなかった。
 奥さんが車の練習をはじめたのは、夫を駅まで送迎するためだ。金子さんはときどき休みをとりながらも、会社にはできるだけ出勤している。
 しかし、仕事をしていても、とつぜん周囲から取り残されているという孤独感と寂寥感に襲われることがある。
 6月29日の日記にはこうある。

〈昨日、急に自信と安定がくつがえった。社内人事を含め、周囲は音を立てて動いている。ならばおれは──。全ての人から忘れられ、むしろ、いつ死ぬか、と見られているのではないか……。典型的な病人特有の被害妄想が頭をかけめぐった。〉

 社内の動きは気になるものである。これはサラリーマンなら、だれも同じだろう。まして、自分が社内でどうみられているか。ぼくなどは開き直って、好きなことをし、その結果とばされてしまったが、たしかに病気というのはつらい立場だ。
 1月からはじまった連載「生きることばへ」の執筆がつづいている。週1回の出稿で、7月24日の30回が最後の出稿となった。
 そして、出勤も7月26日が最後となった。

 金子さんの執筆した「生きることばへ」のなかから。
 奥野修司『魂でもいいから、そばにいて』は、東日本大震災で死者に向き合う遺族の物語だ。金子さんはこう書く。

〈震災という巨大な破壊を経て、少しずつ生きる希望を取り戻す遺族が、見いだしていった死者との共生感覚。それは、私たちが生きる社会に死者の記憶を、かけがえのない物語として重層的に含ませるような豊かな可能性を、感じさせるのだ。〉

 ぼく自身も、最近は死者との共生感がつのっている。母や多くの友人を亡くしてきたのだ。単に悲しいというだけではない。それは楽しく愉快な思い出でもある。それをいだきながら、限られた日々をすごしている。だが、死者への想像力を広げることも、いまを生きるということなのだろう。

 若松英輔『魂にふれる』にふれて、金子さんはこう書いている。

〈街の復興とともに、震災の爪痕は徐々に姿を消す。だがその背後に今も広がる、かけがえのない人を失った被災者の悲痛の思いと、生と死の物語の存在に、常に思いを致したいと痛感する。〉

 金子さんの最初の赴任地は広島だった。石内都の写真集『ひろしま』は平和記念館が所有する被爆者の遺品を丁寧に撮影した作品だ。

〈大災害や戦争による膨大な死……。それは人間の想像を絶するからこそ、個々の犠牲者の生と死を超えた、黙示録のような巨大な惨禍として抽象化してしまいがちだ。だが、それがやはり人々が感じる無数の悲しみの集積であることに、どうして気づいていけるだろうか。〉

 フランクルの『夜と霧』については、「本書を読んで心打たれるのは、そのような[ナチスの強制収容所のような]悲惨の極限にありながらも、なお人間の尊厳を保ち続ける収容者の姿だ」と書く。

 金子さんにとって、3年間仕事をした沖縄も終生の課題でありつづけた。
 連載でも5回にわたって、沖縄にふれている。
 目取真俊の作品には、「戦後の長い時間の堆積から、戦争の記憶が表に噴出する瞬間」がとらえられている、という。そして、「沖縄では広大な米軍基地の存在が、かつての戦争を今も想起させる」。
 大城立裕が『カクテル・パーティー』でえがいたのは、「復帰後も、沖縄にとっての戦争のリアリティーは、変わらなかった」ということだ。
 元沖縄県知事の大田昌秀は晩年に『沖縄 鉄血勤皇隊』の刊行に心血を注いだ。大田は「私の生は多くの学友の血で購われた」と記している。かれにとっては、沖縄戦の経験こそが「生き方の原点」だった。
沖縄支局から本社文化部に異動になったころ、金子さんは沖縄での米軍兵士による少女暴行事件に直面した。
 2016年にも米軍属による女性暴行殺害事件が発生した。
 金子さんは書く。

〈抗議の県民大会で被害者と同世代の玉城愛さんは「幸せに生きるって何なのでしょうか」と問いかけた。「生きる尊厳と生きる時間が、軍隊によって否定される」。そんな社会を生み出しているのはいったい誰なのか。〉

 沖縄のかかえる現実を、われわれはのんしゃらんと忘れがちだ。
岡本太郎は1967年4月3日にベ平連が「ワシントン・ポスト」に出した意見広告の上半分に「殺すな」と大書した。

〈岡本さんにとって「殺すな」と叫ぶのはベトナムの民衆、ヒロシマの被爆者ばかりでなく、沖縄の自然と文化でもあり、さらに「太陽の塔」という名の異形の存在でもあったかもしれない。異形の存在は進歩の流れでかき消えようとする。だが、その生命力を私たちが生き直すことはできないかというのが、岡本さんの隠れた問いだったのではないか。〉

 生命力のある異形の者への変身欲望があふれている。
 そのいっぽうで、このころ、金子さんのなかでは、自死という問いが頭をかすめている。
  がんで入院した作家の吉村昭は、点滴のカテーテルを引き抜き、みずから死を選んだ。

〈だがやはり、しかし……と思いたいのだ。人間へ微笑に満ちたまなざしを送ってきた吉村さんだからこそ、歴史の中ではまさに小さな人間の生きる姿を、もっと私たちに見せてほしかったと思えてならないから。〉

 評論家の西部邁は生命至上主義へのいらだちを感じながら、自裁の道を選んだ。だが、金子さんは「人がただ『生きる』ということそれ自体の尊さを、感じたいと思うのだ」と書く。
 はたして美しい死というものがあるのか。
「重要なのは意味付けを超えた『生そのもの』だ」
 ここで金子さんが思い起こすのは小田実のことだ。小田実は特攻隊員の死が「散華」ではなく「難死」だと語っていた。

〈小田さんが大阪空襲で見たのは、市民が逃げ惑った末に殺される無意味な死で、それは美しい死の幻想で人を戦争に赴かせる「国家原理」への、対抗軸になるはずだった。だが平和主義で被害者体験が強調され、戦中の加害体験の自覚が曖昧になると、平和思想がその内実を失う危機感があったのではないか。小田さんがベトナム反戦運動など、さまざまな市民運動を自ら率先したのは、そのためだったろう。〉

 その小田実が死のひと月前の2007年6月、金子さんを病床に招いて、話を聞いたことを思いだす。小田は、せめて、あと2年生きたいと話した。
「私には明るい率直さで語られたその一言に、逃れられない死への不安と無念、刻々と過ぎ去る時間へのやるせなさなどが、感じ取れるように思えた」と金子さんは書いている。
 せめて、あと2年というのは、金子さんも同じ思いだったろう。
 連載「生きることばへ」は、小林秀雄への言及で、いったん幕を閉じる。「歴史とは生きた一人一人の喜びと悲しみの集積であるという考えが、批評家の思考の核に揺るぎない確信としてあるように、思われる」と金子さんは書く。そして、いったん連載は終えるが、いずれ稿を改めて再開したいと締めくくっていた。
 だが、それはかなわなかった。金子さんは8月9日に入院し、9月2日にいったん退院したものの、9月13日に帰らぬ人となった。
 入院中の日記に、金子さんはこう書いている。

〈命なり、生きることについては、ずい分といろいろ書いた気がする。学ぶこともできた。ほかにまだ何かあるだろうか──あるのかも知れない。少なくとも、死ぬまでに、まだ時間はあるだろう。……ただし、死は全ての人間に予告もなしにやってくる。〉

 金子さんは、最後の最後まで、仕事をしつづけていた。

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