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竹田青嗣『欲望論』を読む(6) [思想・哲学]

 根気がなくて、なにごとも途中で投げだしてしまうのが、ぼくの欠点である。本書も難解なあまり、ついつい途中で断念ということで終わってしまいそうだ。しかし、せっかく買ったのだから、時間はかかっても(たとえ断続的にでも)、なんとか読み切って、多少なりとも理解したいのが人情だろう。
 いま読んでいるのは、とりあえず2巻のうち第1巻の半分を越したあたり。まだまだ先は長い。前途多難というべきか。
 まず、「神も輪廻も存在しないということになれば、思考は何に向かうべきか」と著者は問うている。神なき時代に、何か確信をもちたいという気持ちはよくわかる。
 ここでは、世界において意味と価値が発生するのは、欲望−身体の関係性によってであるということが論じられている。言い換えれば、世界に意味と価値を与えるのは、神でも世間でもなく、何かをしたいと思っている私自身であるということ。
 神なきあとの哲学が、神に代わる絶対者の探求、もしくは人間存在の理念化に向かったことはよく知られている。これに真っ向から反対したのがニーチェだというのは、意外の感もある。著者によれば、ニーチェは「超越化」に反対し、「人間の価値の本質を、われわれの現実存在、肉体や身体の現実性に定位して問い直すこと」を求めたという。
 19世紀半ばに発生した新カント派は、価値の普遍性を打ちだし、事実ではなく本質の探求に向かった。価値はより低いものからより高いものへと分類された。なまの生活世界、世俗世界、自然世界は価値が低いとされ、「超越的な本質世界」が目指されることになる。これもまた聖なる価値へと上向する本体論にほかならない、と著者はいう。
 重要なのは、ニーチェとフッサールの哲学的ラディカリズムに立ち返ること。先構成された(すなわち前もって与えられた)価値や歴史から意味を説くのではなく、欲望―身体の関係性から生成される意味と価値から、「先構成的諸観念の捏造」を暴露する(本体論を批判する)ことだ、と著者はいう。
 さらに重要なのは、現代の懐疑論を克服することだ。
 分析哲学とポストモダン思想は、論理的相対主義を武器にして、普遍的認識の可能性を否定する。この構図は基本的にゴルギアスの懐疑論と変わらない、と著者は論じる。
 前期ウィトゲンシュタインの場合は、論理学において、意味を数学化し、記号=意味の同一性を実現しようとした。しかし、この試みは錯誤でしかなかった。なぜなら、「言語記号の本質はまさしくそれが意味の多義性を含むという点にあるからだ」。
 意味の数学化は、ある意味で、特異な作業をともなう。著者によれば、「あらゆる概念は本来多義性をもつが、数学化はこれに厳密規定を与えて一つの客観的な記号の体系、誰もが絶対的に同一の仕方でしか操作し得ない記号の体系へと置き換えるのである」。
 しかし、後期ウィトゲンシュタインは懐疑論の立場を強める。言語が多義的であることに立ち戻り、言語によって、現実を再現するのは不可能であると考えるようになる。
 つぎにデリダについて。
 著者はデリダを「現代のゴルギアス」と名づけている。デリダは「今」はそれ自体として存在しないという。「今」と呼ばれるものは「過去」「今」「未来」といった差異の運動のなかでしか存在しない。厳密な同一性なるものは存在せず、いっさいは差異である。その差異の運動をデリダは「差延作用」と呼ぶ。
 しかし、これは相対主義的懐疑論であって、相対主義では本体論、すなわち形而上学を解体できない、と著者は主張する。いくら今はないといっても、人にとって、今という時間があることは否定できない。同一性にたいして差異を主張するだけでは、時間が何であるかを示すことはできない。差異の哲学は、たえざる変革への志向をもつが、そのことによって、力がすべてを決定するという現実論理に対抗するすべを失ってしまうのではないか、と著者はいう。
「現代思想は原理の思考を、つまり思想の正当性や普遍性を問う思考それ自体を放棄し、まさしく否定神学的な、あるいは寓喩−説話的な預言者哲学をつぎつぎに生み出した」
 そうした預言者的哲学を展開したひとりがドゥルーズだ、と著者は考えている。
 ドゥルーズは、あらゆる事象の根源に「反復としての差異」が存在するという。すなわち反復しつづける差異。世界が硬化し死に向かわないのは、つねにそこにみずからを刷新する運動性があるからだ、とドゥルーズは考える。
 ヘーゲルの絶対精神にたいして、ドゥルーズは絶対差異を唱える。その底には、世界にたいして永遠に異議を唱えつづける懐疑論的相対主義がある、と著者はいう。「ここにあるのは、秩序=反動性に対する反秩序=能動性というイメージ上の対抗にすぎ」ない。「ここでの思考は先行者を包括して新しい原理へと超え出ようとするのではなく、理念的対立をこととする預言者的哲学へと退行している」。すなわち永遠の抵抗。
 ドゥルーズにはベルクソンに似た時間論もある。ベルクソンは精神の本質を「記憶」の概念で示したが、ドゥルーズはこれを「反復」と「差異」の概念に置き換える。現在は「習慣のうちを生きること」であり、未来は「たえざる革命へと向かう精神」の繰り返しと位置づけられる。「ドゥルーズでは、『未来』とは、一切を革新し、刷新し続ける革命への『希望』と『要請』を表現する理念となる」。
 ドゥルーズによれば、この差異化の動きは秩序や制度によって、否定され歪曲される運命にある。そのため、差異の哲学はある局面で「革命」の哲学へと移行する。しかし、その哲学は社会制度の構想を禁じているため、終末論的絶望とシニシズムに彩られた、出口の見えない反抗に終始する、と著者は批判する。
 著者は、分析哲学やポストモダン思想に否定的だということができるだろう。

 ここからは、意味に関する考察に移る。
 まず意味の同一性は成立するかという問題。
 意味の同一性は、言語による正しい表象が実現するか、言語による正しい伝達がなされるか、さらにはそもそも普遍的認識なるものがあるのかにかかわっている。
 現代哲学はいずれも同一性はないという論理に帰着する。しかし、同一性についての問いは、そもそも本体が存在するかいなかという議論であって、本体がないということになれば、問いそのものが消滅するのだ、と著者はいう。
 問題は同一性という概念の本質をいかに考えるかということなのである。

〈「意味」を言語あるいは記号に担われるものと考えるかぎり、言語あるいは記号の「意味」は、対象あるいは認識との「一致」すなわち「一義性」を確定されえない。……「意味」の本質の問題を解明するには、意味の問いを論理学的地平から引き離し、意味の本体論を解体して、これを現象学的−欲望相関的意味論の地平へと差し戻さねばならない。〉

 同一性が存在するかいなかと考えるから、おかしくなるのだ。同一性は欲望−身体に相関して現われるとみるべきだ、と著者はいう。
 もう一度考えてみよう。数学的概念においては、同一性は成立する。
 いっぽう、言語は本質的に多義的な意味の集約にほかならないから、言語によって、対象を一つの意味に還元することは不可能である。これは論理学的には正しい。
 とはいえ、言語の実際の場を考えれば、問題はそこに同一性が成立するかいなかということではなく、どのような間主観的な共通了解が成立するのかということだ、と著者は論じる。
 感覚の同一性があるかどうかも、なかなか困難な問題である。とはいえ、感覚においても同一性が成立しないわけではない。たとえば人は同じ音楽、同じ顔を一瞥のうちに同定する。そうした情動性の質は比喩によってしか表現し得ない。言い換えれば「感覚的事象の同一性の規定は、『情動の同一性』以外の根拠をもたない」。したがって、「人間間の関係感情の本質を把握するには、主体と対象との間のエロス関係の本質を捉えねばならない」ということになる。つまり、感覚的事象についても、実存的な欲望−身体の関係性からそのあらわれ方を把捉しなければならない。
 著者によれば、言語は言語のやりとり、すなわち無数の「言語ゲーム」のなかで成立し、そこには人間どうしの「関係的企投行為」が横たわっている。言葉はそれを媒介的に「代行―表象」しているにすぎない。
 後期ウィトゲンシュタインの功績は、「言葉を用いて語り合いつつ生きるということ、そのことが人間にとってもつ意味の核心は何であるのか」を問うたことである。そこから、次のことが明らかになる、と著者はいう。

〈「言語ゲーム」は人間の実践的要求−応答ゲームにおける関係的意味生成に基礎をおき、言語の意味はこの実践関係としての「言語ゲーム」に基礎をおく。〉

 人と人の関係を抜きにして、言語は成立しないということだ。
 ところで、人を含む動物は対象の存在とその意味−価値を一瞥のうちに把捉するものだ。これを可能にするのが直知的知覚である。直知的知覚が主体のそのつどの欲望−関心に相関していることはいうまでもない。
 人にとって、身の回りのものはすでに一般対象意味をもったものとして現出している。と同時に、それは私にとって利用可能性、用途性をもったものでもある。その点でいえば、言語は、「われわれの生の実践的関係のうちで生成する意味の一般痕跡にすぎない」。
 身体行動は単なる機械的メカニズムの連鎖によって動いているわけではない。そこには「何らかのエロス的力動の発現、情動、衝迫、目的性の生成、企投的努力、といった諸契機が存在する」。
 高度な生き物は視角や聴覚、嗅覚といった「遠隔知覚」をもっており、これによって対象との距離や方向性を保ったまま、対象を認知することができる。

〈生き物が遠隔知覚によって「世界」を空間性・時間性の構造として分節すること。このことこそは、「生世界」が意味と価値のたえざる生成の世界であることの根源である。〉

 言語が生動するのは、こうした生世界において意味(ノエマ)と価値が生成されているからである。
 生き物が生きるためには外界からエネルギーを取り入れなければならない。そのためには対象を瞬時に認知し、対象に企投するプロセス(衝迫、目標、判断、行為、努力)が必要になってくる。対象の直知的把握が意味をもたらす。意味は実存的範疇である。
 意味(ノエマ)の本質は、対象を身体−欲望相関的に把握することである。意味は対象にたいする実存主体の当為において発生する。価値は「対象が指し示すエロス的可能性の強度の了解」であり、「対象が用在性としてもつ『価値』」である。
 世界が意味と価値の秩序として生成するのは、生の意識のうちに欲望―衝動が到来することによってである。そして生成する世界から、存在としての世界が間主観的に構成される。

〈「価値」は質的強度の秩序であり、「意味」は目的にいたる優先性や順序性の秩序である。主体における「われ欲す」が発動してはじめて、世界は当の対象をめぐる意味と価値の秩序となる。……この意味と価値の生成の地平においては、「世界」は、「本体としての世界」が決してもちえない絶対的起点と終末、その根源と限界をもつ。〉

 人間は「実存世界」と「客観世界」という二重性の世界性のなかで生きている。実存世界が、いわば自身にとっての世界であるのにたいし、客観世界とは「間主観化された一般性の世界」にほかならない。
 この世界のどちらが真実かを問うのはばかげている。両方は支え合って世界を構成している。しかし、普遍性はいうまでもなく「客観世界」に求められるべきだろう、と著者は記している。

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