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ロバート・ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』 (まとめ、その1) [商品世界論ノート]


   1 はじめに

『アメリカ経済──成長の終焉』という日本語タイトルは誤解を生みやすい。時務的な本とみられるかもしれないが、原題はこうだ。
 The Rise and Fall of American Growth: The U.S. standard of living since the Civil War by Robert J. Gordon
 ロバート・ゴードン著『アメリカの発展の盛衰──南北戦争以降の合衆国の生活水準』というのがより正確である。単なる産業やGDPではなく、生活水準によって、アメリカの発展の実態をとらえようとしているところが気にいった。
 ロバート・ゴードンはアメリカの経済学者で1940年生まれ。ハーバード、オックスフォード大学を卒業、マサチューセッツ工科大学で博士号をとり、いまもノースウェスト大学の教授をしているという。経済史と成長理論の専門家である。
 本書は3部に分かれている。

第1部 1870−1940年
大発明が家庭の内外に革命を起こす
第2部 1940−2015年
黄金時代と成長鈍化の気配
第3部 成長の加速要因と減速要因

 1部と2部が歴史編で、3部が理論編とみてよいだろう。
 これは単にアメリカの経済発展の歴史ではない。20世紀はいわばアメリカの時代で、日本やその他の国々もアメリカを追いかけてきたのだ。日本人にとって、アメリカのライフスタイルは、最近まであこがれの的だったといってよい。本を読む側としては、そのアメリカをモデルとして取り入れることで、日本がどう発展してきたかという問題意識も、とうぜん湧いてくる。
 1870年から2015年といえば、日本では明治のはじめから、大正、昭和、平成の終わりごろまでをカバーする。ぼくには日米経済史を詳細に比較する力量はないが、多少なりとも日本の経済発展を意識しながら、本書を読んでみたい。

 まずは序文である。
 いきなり気づくのは、本書が単に生活史なのではなく、生活水準と成長理論の関連の追求によって成り立っていることである。
 20世紀は「経済成長が加速し、現代社会が生まれた時代」だが、「1970年以降、今日に至るまで成長が鈍化している」のはなぜか。それを、いわば生活水準の変遷から追ってみようとしているところが、本書のユニークさといえるだろう。
 最初にその概要をとらえておく。
 南北戦争(1861〜65)から100年で、アメリカ人の生活は一変した、と著者は書いている。これは日本人でも同じことだ。明治維新以降100年で、日本人の生活が多岐にわたって、どれほど変化したかをふり返ってみればよい。
 曲がり角になったのは1970年代である。ITの発展は、娯楽、コミュニケーション、情報収集・処理に画期的な成果をもたらした。とはいえ、衣食住など生活基盤の進歩は鈍化している。経済格差の拡大という逆風さえ吹きはじめた。
 1870年から1970年までの1世紀は特別だ、と著者はいう。1820年ごろの暮らしは、中世とほとんど変わらなかった。ところが、鉄道、蒸気船、電信の3大発明によって、生活が変わりはじめる。1870年以降は社会全体に電気、ガス、水道が普及する。都市が発展し、馬に代わって鉄道や自動車が主な交通手段となる。一般の人が飛行機に乗れるようになったのは、1950年代後半からだ。
 19世紀後半には、家計の半分が食費にあてられていた。そのころ加工食品が登場する。冷凍技術が開発されたのは20世紀初め、しかし、一般家庭が冷蔵庫を利用するようになったのは1950年代からだ。
 1870年でも男性用の服や靴は店で購入されていたが、女性用の衣服は母や娘が家でつくるものとされていた。その作業を助けたのがミシンである。ところが、1920年になると、女性用の衣服も、小売店やデパート、あるいはカタログ販売で買われることが多くなる。
 病院の改善や医薬品の開発、公衆衛生の発達が、乳幼児死亡率の低下と平均余命の延びをもたらした。
とりわけ特筆すべきは、日常生活の改善が驚くべきスピードで進んだことだ、と著者はいう。
 家事労働は短時間ですむようになり、家事から解放された女性は、労働市場に進出する。男性の労働時間も改善され、週休2日も可能となった。
 農業社会から都市社会への移行が進んだ。1970年にアメリカでは73.7%の人が都市に住むようになっていた。
 1970年代に「特別な世紀」は終わる。技術進歩にかげりが見え、経済格差が広がるようになった。70年代以降の技術進歩は、娯楽、通信、情報技術の分野にかぎられる、と著者はいう。
 パソコンやインターネット、携帯電話などは猛烈な勢いで普及したが、それらがGDPに占める割合は7%にすぎない。
 食品や衣料品、電化製品、自動車などは多様化する。だが、衣料品は輸入の増加によって、国内のアパレル産業がほぼ壊滅する。70年代以降の新しい電化製品は電子レンジくらいで、ほかはかわりばえしない。だが、その電化製品も輸入されることが多くなってきた。医療技術についても、70年代以降、進歩のペースはにぶっている。
 ここで、著者は若干の注意をうながす。生活水準の指標として便利なのは、1人あたりGDPだが、この指標には生活の質が反映されていない(たとえば労働環境が改善されるなど)。さらに、市場の動きが過小評価されがちである(たとえばエアコンやテレビの値段が安くなるなど)。
 物価指数は新製品のもたらす改善や、価格下落による効果を把捉できない。「物価指数は価格に対する性能向上を反映しない」。安売りがもたらす消費者のメリットも無視されてしまう。
 イノベーションによる生活の向上は、かならずしも所得の上昇と結びつくわけではない。所得が上昇していなくても、イノベーションによる生活の向上はおこりうる。なかでもGDPに反映されていないメリットのひとつが、余命の延びだ、と著者は論じる。
 生活水準の向上は、労働生産性の伸びと連関している。1870年以降でみると、とりわけ1870年から1970年までの「特別の世紀」の後半、すなわち1920年から1970年までの労働生産性の伸びが高い。
その時代に「電機革命」が起きた、と著者はいう。電気技術が誕生するのは1880年代だが、それが普及段階に達するまでに40年の時間を要した。
 だが、電機革命だけで、労働生産性の上昇は説明できない。アメリカの場合は、ニューディール政策と第2次世界大戦が重要である。ニューディール政策は労働組合の力を強め、労働時間を減少させ、1日8時間労働を実現させた。それによって、余暇が増え、消費が増えた。さらに、労働時間の減少がイノベーションをもたらしただけでなく、労働者の疲労を軽減し、それによってむしろ労働生産性を高めたというのである。
 1970年以降の労働生産性上昇は、主にコンピューター革命によるものだが、その期間は8年ほどしかつづかず、数十年つづいた「電機革命」時代にはとておよばない、というのが著者の見立てである。しかも、1920−70年には1人あたり労働時間が大幅に減少しているのにたいし、1970年以降は1人あたり労働時間はむしろ増えているという。
 アメリカでは1870年から1970年にかけてが「特別の世紀」で、とりわけその後半は経済成長率がピークを迎えた黄金時代となった。タイムラグはあるにせよ、それは日本もほぼ同じだろう。
 本書が取り扱っているのは、1870年から2015年にかけてのアメリカの生活水準である。アメリカ人の暮らし向きがテーマだといってよい。しかし、日本人とは無縁ともいえないだろう。
 考察の中心となるのは1870年から1970年にかけての「特別な世紀」である。この時期、衣食住をはじめ、交通、情報、娯楽、公衆衛生、労働環境にいたるまで、GDPだけではとらえられない生活水準の上昇が生じた。
 生活水準の上昇は1940年から70年までがとりわけ顕著で、その後は鈍化している。経済格差や教育問題、高齢化と人口減少、政府債務などが大きな足かせになっている。もはや「現在の若年層の生活水準が親世代の倍になるとは思えない」。
 人工知能(AI)が人類に飛躍的な向上をもたらすという見方に反して、著者は「持続的な成長を阻む壁は、1世紀か2世紀前の先祖が直面したものよりも堅固になっている」との見解を示している。
 著者は、AIがこれからの経済成長を担い、人びとの生活水準向上に寄与するとは考えていない。

  2 1870年の生活水準

 第2章「出発点」を読んでみる。1870年が出発点である。
 1870年のアメリカの1人あたり所得は、イギリスの74%に達していた(2010年ベースで約3700ドル)。アメリカはすでに中世風の農業社会ではなく、産業革命の成果がとりいれられている。人口もイギリスを上回っていた(約4000万人)。
 ちなみに、日本はこのころ人口はアメリカとほぼ同じだが、1人あたり所得はアメリカの4分の1ほどで、ずっと貧しい。もちろんGDPだけで、社会の水準がはかれるわけではない。とはいえ、日本がアメリカとくらべて、労働生産性が低く、商品の生産・消費もより少なかったことはまちがいない。
 当時の観察では、イギリスやフランスにくらべ、アメリカの労働者階級の生活はましだったという記録がある。しかし、それは東部の大都市での話だった。人口の75%を占める農民の生活ぶりがどうだったかはわからない。むしろ、1870年以降は、労働者の生活水準は低下している。それは移民の増大や、農村から都市への人口の流入と関係がある。
 1870年にはすでに大陸横断鉄道がつくられようとしていた。電信が導入され、海底通信ケーブルも開通し、全米の一体化が進む。
 とはいえ、動力の中心は、まだ蒸気、水車、馬である。電気や石油はない。明かりはロウソクや鯨油に頼っていた。
 ヨーロッパにくらべ、アメリカの人口増加率は高かった。その背景には農地の安さがある。人口は87%が白人、13%弱が黒人だった。人口の60%が25歳以下で、65歳以上は3%にすぎない。大人も子どもも農作業や家事労働などに従事し、よくはたらいていた。年金や保険などがないから、人は死ぬまではたらくしかなかった。
 当時の消費はほとんどが食料、衣服、住居に費やされた。ある研究によると、平均5人世帯家族の年間消費額は1000ドル弱で、その45%が食料、7%がタバコ、薬、燃料、新聞など、16%が衣服や靴、布、玩具などの半耐久財、9%が家具や調理器具、時計、その他の耐久財、残り24%が家賃などのサービス財にあてられていたという。
 消費の金額と内訳は、その後、150年で大きな変貌をとげることになる。とりわけめだつのは、食料支出割合の低下と、サービス支出割合の増大である。半耐久財や耐久財にしても、その内容はがらりと変わった。
 食料に関していえば、農村部では自家栽培が中心で、トウモロコシと豚肉が主食だった。野菜の種類は地域によってことなる。北部はジャガイモ、南部はサツマイモが中心。果物はりんご。ほかに飲み物はチョコレート飲料や紅茶、コーヒーが一般的だった。
 当時は人口の75%が農村に住んでいた。アメリカの典型的な開拓農民は、肉食用の家畜を飼い、ジャガイモなどの野菜をつくり、適地であれば小麦を栽培し、自家消費していた。着る服も自宅でつくっていた。しかし、砂糖やコーヒー、香辛料、たばこ、医薬品、農機具、調理器具、布地などは最寄りの雑貨店で購入しなければならず、それには現金が必要だった。ほとんどの商品はツケで販売されていたという。作物ができると、その一部を売って、ツケを払うやり方だった。
 男性用の服は雑貨屋で購入されていたが、女性用の服は上流家庭をのぞき手づくりで、布を裁断し、針と糸でつくるものとされていた。
 住環境は都市と農村ではまったくちがうが、農村にかぎらず都市でも一軒家が多く、集合住宅は少なかった。電気もガスもないから、家は寒く暗かった。薪や石炭を燃やして暖を取り、夜はランプの裸火を明かりにしていた。水道や浴室、トイレもない。とりわけ都市の労働者の住環境は劣悪だった。
 そのいっぽう、経営者や地主などの上流階級は、都市や村に大邸宅を構えていた。しかし、多くの使用人をかかえるその大邸宅でも、まだ快適な設備は整っていない。
 鉄道はできたが、交通手段は都市でも農村でも馬車が主流であり、農村の生活は孤立していた。だが、1870年ごろから、列車による郵便配達システムが普及し、急ぎの場合は電報が便利な通信手段として用いられるようになる。
 娯楽は、酒場や公園、マーケットに行くぐらいのものだが、ニューヨークではすでに遊園地などができている。
 当時の平均寿命は45歳。とりわけ乳児死亡率が高かった。さまざまな感染症が蔓延し、結核が不治の病であり、工場での事故も多発していた。病院も少なく、医療も発達していない。地域でも家庭でも、公衆衛生上の措置はほとんどとられていなかった。
 労働力人口でみれば、農民と農業労働者が46%、職人や工員、人夫などのブルーカラーが33%、事務員、販売員、使用人などのサービス業が13%、経営者、専門職、管理職・役人が8%という統計がでている。この割合は次第に様変わりしていくが、当時は都市の労働者より、農家のほうが圧倒的に暮らし向きがよかった。
 男女の役割は明確に分けられていた。都市では、外で給料を稼ぐのは男であり、女は家で家事を切り盛りするものとされていた。ホワイトカラーとブルーカラーは区別され、階級間の移動はほとんどなかった。地主や農民が同じ場所にとどまるのにたいし、労働者は都市のあいだを移住しがちだった。都市の職業は多様だった。
 1870年では、25歳以下の若年人口が総人口の60%を占めている。学校教育は12歳までの小学校にほぼかぎられていた。男は15歳、早ければ12歳から働きはじめる。女は母親の手伝いをし、若くして結婚し、家庭にはいった。
 南部では黒人への教育はほとんどなされなかった。「奴隷制度のもとでは黒人の学校はなく、プランテーションの経営者は、教育を受けさせず、文盲のままにしておくことで奴隷支配を維持しようとした」のだという。奴隷解放宣言以降も、こうした差別はつづく。
 65歳以上の高齢者の割合は、わずか3%だ。しかし、社会保障制度がなかったため、高齢者の生活はかなり悲惨なものだったという。
 1870年の生活は現在とはまったくちがう。商品世界が全面的に浸透していないためGDPという指標もあまりあてにできない。とはいえ、ごく一部の上流階級を除いて、全般的に人びとの生活は厳しく貧しかったといえるだろう。
 消費財はかぎられていた。それなのにその財を得るための労働はきつかった。消費の場である家庭においても、主婦は家事労働に追われていた。
 売られている食品の種類も少ない。保存技術が限られているため生の肉は危険だった。住環境も厳しかった。どの家もハエや虫に悩まされていた。鉄道や汽船、一部の工場は蒸気で動いたが、交通面で基本的な動力源となっていたのは馬である。
 だが、そこに第2次産業革命がおこるのだ。
 著者はいう

〈1870年という年は、現代アメリカの夜明けと位置づけられる。その後の60年間、生活のあらゆる面で革命が起きた。1929年には、アメリカの都市部は電化され、都市のほぼすべての住宅がネットワーク化され、電気、天然ガス、電話、水道水、下水道で外の世界とつながっていた。1929年には、馬は都市の通りからほぼ姿を消し、自動車の世帯保有率は90パーセントに達していた。また1870年には想像もできなかった娯楽を楽しめるようにもなっていた。レコード、ラジオ、豪華な映画館での映画上映。さらに乳児の死亡はほぼ克服され、病院や薬の処方は、現行の認可制度や専門性が確立された。労働時間は短くなり、肉体労働に従事する労働者の割合は低下し、家電が日々の家事労働を明るいものにし始めた。〉

 第2次産業革命によって、1870年から1930年のあいだに一大生活革命がおきるのだ。日本では明治のはじめから昭和のはじめにかけての時期である。ちなみに、その間、日本の1人あたりGDPは1885年の1097ドルから1929年の2305ドルに上昇している(1990年国際ドルベース)。そして、この間、アメリカとの格差は、1人あたりベースで、ほぼ半分近くまで接近している。
 とはいえ、日本はまだまだ貧しい。生活スタイルも日本式である。
 ここで、ひと言だけ余分な感想を加えると、明治維新前後に日本を訪れた外国人観察者は、日本は貧しいけれど、民衆はとても幸せそうで、自然が美しいという感想を一様にもらしている。このことは、日本がまだ近代世界システムに組みこまれていなかったことを示している。近代世界システムは国ごとの商品世界単位によって形成されており、GDPはその商品世界の水準を示す指標にほかならない。そして、忘れてはならないのは、商品世界が自然や伝統、人間を破壊もしくは使役することよって成り立つ幸福追求システムだということである。
 しかし、それでも日本は、アジア諸国に先立って近代世界に仲間入りする道を選んだのである。

3 衣食住の発展

 GDPは年間に生産された商品のフローを集計した数字だが、それ自体が生活水準を示しているわけではないという著者の発想はきわめてまっとうなものである。GDPはあくまでも経済指標にすぎず、社会の成長をみるには、生活水準の移り変わりそのものに焦点をあてなければならない。

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