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安田講堂封鎖解除前後──『丸山真男と戦後民主主義』を読む(4) [われらの時代]

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 丸山真男は東大紛争(闘争)の当局者である。
 68年12月23日の法学部研究室(法研)占拠から69年1月18-19日の安田講堂封鎖解除、そしてその直後、丸山がなにを考え、行動していたかを整理してみよう。こんな作業ができるのも本書のおかげである(もっともむずかしい話はわからない)。
 その前に、全体的な流れを確認しておこう。
 11月1日に大河内一男総長が退任し、加藤一郎が総長代行に就任した。
 12月2日に加藤総長代行は「学生諸君への提案」を発表し、以前から勧めていた全学集会による紛争解決に乗り出した。
 共闘会議(全共闘の通称が一般化するのは翌年3月ごろから)が話し合いを拒否したため、加藤代行は26日に「基本的見解」を示し、民青と無党派学生からなる七学部代表団との交渉にはいった。
 加藤代行は29日に坂田道太文相と会談、入試をいちおう中止すると表明したものの、多少の含みを残した。
 翌年1月4日の声明では1月15日までの半月間、入試実施のため、全学を挙げて最後の努力をするとしている。
 1月9日には民青と共闘会議との乱闘を止めるため、一時的に機動隊を導入した。
 1月10日、秩父宮ラグビー場で、七学部集会が開かれ、確認書が作成され、翌日、各学部学生団が基本的にこれに署名した。
 文学部、医学部を除いて、ストは解除された。10日夜、民青が安田講堂を襲撃したが、共闘会議側が撃退している。
 加藤代行は15日に機動隊導入を決意、17日には坂田文相と会談。そして18日から19日にかけ、機動隊が導入され、安田講堂での攻防がくり広げられた。
 そのかん、丸山真男はどのように行動していたのだろうか。
 12月23日、丸山は赤門学士会館で、福田歓一、堀米庸三、福武直と会談し、「入試中止、即休校」という意見で一致している。
 1月13日、丸山は総長代行特別補佐の福武直に、事態収拾のための「丸山私案」を示した。それは、まず全学共闘と民青に武器撤去を求める最後通牒をだし、それに応じない場合は、武器を押収するため限定的に警察力を導入、さらに最後の手段として機動隊の常駐と一時休校を選ぶというものだった。この案は実際には採用されなかった。
 1月15日、東大で共闘会議による労学総決起集会が開かれた。丸山は加藤代行に明治新聞雑誌文庫の保全措置を要請した。この要請を受けて、加藤代行は最終的に機動隊導入を決意したのだという。
 こうして1月18日から19日にかけ、安田講堂と法学部研究室などが武装解除された。お茶の水近辺も含め、両日の逮捕者は767人、うち東大生は98人だった。
 1月22日に学生の立ち入り禁止が解除されたとき、丸山はある学生に「ひどいことになっちゃった」と話したという。
 1月17日、24日、25日に「大学問題シンポジウム」が開かれた。大学問題を考察し、これからの改革を進めるためである。丸山は21名の委員のひとりだった。
 1月24日に、丸山はこのシンポジウムで「法学部から見た現状」という報告をおこなっている。

〈今回の東大紛争の過程を通じて《概念の混乱》を痛感した。東大紛争だけでなく、現代が概念の解体の時代なのであろう。このことは学生と議論するたびに痛感した。〉

 速記録によると、丸山はそんなふうに話したという。
 ぼくなどには、この概念の混乱、崩壊、解体というのが、よくわからないが、要するに学生と話が通じなくなっているということだろう。
 権威や管理や処分は、頭から悪いものとされ、これにたいし学生は集団的なムードで反発し、ひたすら敵対するばかりだ、と感じていた。
 さらに翌25日に、丸山は東大の将来の組織機構を論じている。東大を教育組織、研究所、プロジェクト・センターの3部門に分け、現在の教授会中心ではなく、執行機関としての総長権限を強化するというものだった。管理強化の立場である。
 ざっくばらににいってしまえば、丸山はいわゆる左翼学生が嫌いだったようにみえる。
 組織の指示にしたがう民青が嫌いだったのはいうまでもない。それよりも、新左翼の学生や、それに付和雷同するノンポリを毛嫌いしていた。
 なぜ、かれらがそんなに嫌いだったのだろう。
 学生たちがすぐ教授に刃向かったり、教授会による処分に素直にしたがわないのが気に食わなかったのだろうか。
 左翼の学生たちは、丸山が理念とする民主主義にそぐわなかった。
 ぼくは丸山の民主主義を思いえがく。それは古代ギリシアのアテネにおいて、政治的人間である市民が、日がな国のあり方について議論する姿である。そんな光景は日本にはありえなかった。あるとすれば国会だが、国会はいまも昔も愚劣な議論で満ちあふれている。そこで、日本の民主主義は未成熟だという結論が導かれる。
 だが、はたしてそうだろうか。
 丸山は少なくとも、大学や教授の権威がもつ暴力性にきづいていない。丸山は「学生の自治活動も教育過程の一環である」と話しており、学生の自立的な権利をほとんど認めていなかった。その点では、ひじょうに保守的だったといえる。
 そのため、著者はこう書いている。
「学生たちが教えられた民主主義を自分たちのものにしつつあったのに、丸山は、集団的ムードに弱いとか、大衆ファシズムへの免疫がないとか、他者を他在において理解する知性が欠けているとか、もっぱら否定的に見ていた」
 のちに、全共闘運動は政治的ロマン主義に近いとも述べている。政治的ロマン主義は反政治主義と無責任に行きつく。
 ぼくなどが政治的ロマン主義でいだくイメージは、暴力と革命であり、フランス革命やロシア革命といわなくても、たとえてみれば水滸伝の世界である。
 丸山は新左翼や全共闘をごろつきのようにみていた。
 全共闘にたいしては、丸山のいう「他者をその他在において把握する」知性は発揮されなかった。
丸山は「東大紛争が頭に来ており、全共闘への怒りや軽蔑から自分を隔離できなくなっていた」と、著者はいう。
 だが、著者と同じく、新左翼はともかく、不当処分の白紙撤回を求めた全共闘の運動が、はたして政治的ロマン主義だったかどうかは疑問だ、とぼくなども思う。
 おそらく丸山は、大学当局は社会的権威であっても社会的権力ではないと考えていたのだろう。
 権力は判断を誤ることがありうる。これにたいし、権力の誤りをただすのが、民主主義の役割だといえる。もちろん、民主主義も誤る可能性がある。その点、権力と民主主義はチェック・アンド・バランスの関係にあるといってもよい。
 東大紛争(闘争)において、丸山は制度の側にあり、学生たちは運動の側にあった。もし民主主義の理念が、丸山のいうように制度と運動の弁証法のうえに成り立つものだとすれば、少なくとも東大紛争において、かれは民主主義を支持していない。丸山は丸山は怒れる知性の運動を黙殺し、大学の権威を維持するという保守の側に立っていた。
 そして、そのことによって、学生たちはもちろん、自身も傷ついたのである。

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