SSブログ

中野翠『あのころ、早稲田で』を読みながら(1) [われらの時代]

img20200223_05173852.jpg
 あのころ。
 そう、そう言われるだけで、あのころだとわかる。とうぜん1960年代後半の早稲田だ。
 著者の中野翠が早稲田の政経学部に入学したのは1965年。2つ下のぼくが入学したのは1967年だ。残念ながら、知り合いではない。
 著者はサークルでは、社研(社会科学研究会)にはいっているが、ぼく68年になってから雄弁会にはいった。
 雄弁会の部室は、大学構内から道路をひとつへだてた学生会館のなかにあった。
 学生会館にはいくつもサークルがはいっていて、狭苦しいひとつの部屋に二つのサークルが同居していた。社研の場合は文研(文学研究会)だったというが、雄弁会の場合は仏教青年会がいっしょだった。
 本書によると、社研の場所は学館の4階隅だったらしいが、雄弁会はたしか3階の中央にあったのではないか。もはや記憶があいまいになっている。
 政経学部のクラスには、ほとんど女子がいなかった。ぼくのクラスでは四十数人のうち、たしか二人だった。中野翠の場合もほぼ同じだったろう。
 早稲田時代は「よりにもよって、私の人生の中で最も思いだしたくない日々だった」と書いている。
 それはとてもよくわかる。ぼくも愚行の数々を重ねてきた。それを思えば、あのころをふり返るのは、ちょっと恥ずかしいと思う気持ちは、わからないでもない。
 しかし、すでに50年以上をへたいまとなっては、ひたすらあのころが懐かしい。それだけでなく、あのころはおもしろかったなあという思いがふつふつとわいてくる。
 著者は4年できちんと卒業している。ぼくの場合は、ろくに勉強もせず、授業も受けず、留年に留年を重ねて、6年も大学に行かせてもらった。両親には、ひたすら感謝と、ろくな息子でなくてごめんという思いがつのる。
 6年も大学にいたのは、何の才能もないなまけ者だったからだが、これから先、何をしたらいいかわからなかったからでもある。
 ほんらいなら、いなかに戻って、家業の衣料品店を継がなければいけなかった。でも、なんとなく戻りたくなかった。商売がまったく好きでなかったということもある。
 かといって、どこかの会社に就職する気もおきなかった。商店街で育ったので、そもそも会社というもののイメージがわかなかった。
 加えて、からだも弱く、気も弱くて、人前にでるのが苦手という性格がわざわいしていた。ひきこもり予備軍みたいなものである。
 そんな無気力なぼくが、試験を受けなくてもレポートを出せば卒業させてくれるという僥倖にめぐまれて、すべり込みで大学を卒業することができたのは、そのころ知り合ったつれあいのおかげである。
 そして、就職先も決まっていないぼくを、先輩が、自分の勤めている世代群評社というちいさな雑誌社にもぐり込ませてくれた。
 その社長はいわゆる「総会屋」で、貫禄があった。でも、どこかまじめで、やさしいところもあり、ときに政論家風に政治を批評することもあった。
 あのころは、ぼくも企業の「協賛金」なるものを集めるために、毎月順番に、十数社ずつ、名のある銀行や会社の総務部を回っていたものだ。
 雑誌もつくっていた。「道」という雑誌だ。素人編集ながら、雑誌づくりは楽しかった。
 加藤祐三、滝村隆一、上野昂志、戴国輝、伊藤虎丸、長璋吉、それに豊浦志朗などといった多彩な執筆者と仕事をすることができた日々は忘れられない。
 豊浦志朗の初の単行本『硬派と宿命』を出版できたのは、ささやかな自慢となる。豊浦志朗、本名、原田健司は、のちに小説家になり、船戸与一と名乗るようになる。
 だが、この雑誌社は2年足らずでやめ、いくつか試験を受けて、やっと別の会社(共同通信の子会社)に転職することになった。結婚し、子供が生まれることになり、生活の安定を求めたからである。
 それ以降は、会社を首にならないよう、小心なサラリーマン生活(それでも楽しかったが)を三十数年、つづけることになった。最初は営業の仕事だったが、その後、二十年近く単行本編集の仕事をつづけられたのは、やはりめぐまれていた。
 そんな自分のことはどうでもよろしい。
 それよりも、あのころの早稲田の話だ。
 いまでもそうかもしれないが(いや、そんなことはないのかもしれないが)、あのころの大学は学問を修める場所というより、つかの猶予を与えてくれる場所にほかならなかったような気がする。つまり、家から離れて、社会に出る(あるいは新しく家をつくる)までの猶予。
 それは自分がこれから世の中で何をするかを決めるまでの期間だった。ぼくらにとって、あのころの大学は、教育機関というより、知識や文化(本や雑誌、マンガ、音楽などなど)が流れてくる場所、人と人が出会う汽水域だったといえるかもしれない。
 そこに、たまたま大学闘争の嵐がやってきたのだ。
 中野翠がすごいのは、入学して迷わず「社研」にはいっていることである。
「高三の時、政経学部の経済学科を選んだ理由は、左翼気分からだった」と書いている。すでに高三の夏ごろから、『共産党宣言』や『フォイエルバッハ論』、『空想から科学へ』を読んで「ユリイカ(私は見つけた!)」という気分になっていたという。
 このあたりは、姫路の高校で、型どおりの受験勉強をしていたぼくとは、まるでちがう。思想などとくになかったが、あえていえば中道右派といったところか。
 ところが、彼女は「高三の後半頃から、大学に入ったら『社研』に入ろうと決めていた」というのだ。
 当時、「社研」(社会科学研究会)は、「歴研」(歴史学研究会)とともに、「左翼学生の巣窟」とみられていた。
「社研」の部員には新左翼や民青もいたが、多いのはむしろ左寄りのノンセクトだった。著者自身もノンセクトで、「各セクトの違いがよくわからなかった(実はいまだにわからない)」という。
 もちろん、まじめに授業も受けている。
 一般教養で、いちばん期待していたのが平野謙の「文学論」の授業だった。あこがれの授業が受けられるというので、彼女は教室の最前列入口近くに座っていた。
 やがて現れた平野は、開口一番こう言った。
「ここにいるみんなは、大半が戦後生まれなんだなあ。うーん……。政経学部は男ばっかりだったから、私は好きだったんだ。それが女も入ってくるようになって……不愉快だ」
 でも、著者はこの発言を不愉快と思わなかった。あっけにとられただけ、と書いている。平野謙がしどろもどろなのに、かえって彼女のほうが堂々としている。
 次回の授業で、平野は前回の失言を訂正し、「女性でも向学心があるのは結構なことです」と謝っている。著者も平野の講義を熱心に聞きつづけ、みごと優の成績をもらっている。
 しかし、著者が本筋の経済学の授業に興味をもったかというと、それはまるでなさそうだ。早稲田の経済学科はいわゆる「近経」(近代経済学)を教えていて、マルクスに興味をもつ著者にとっては、まったくおもしろくなかった。そんなわけで授業のほうは次第におろそかになる。
 このあたりは政治学科にもぐりこんだぼくも同じで、アメリカ流の「政治原論」はつまらないと思った。政治学ではなく、政治の話を聞きたかったのだ。
 それでぼくも授業にも出なくなり、サークルに行くか、図書館で本を読むか、友達とだべるか、映画を見るかという日々とあいなる。このあたりで、すでに学問とはまったく無縁になっていた。
 1965年ごろの大学キャンパスは、まだ穏やかだった、と中野は書いている。

〈大隈重信の銅像のある広場(というほど広くはないが)には立て看板(タテカン)や集会などはたいして目立たず、わずかな芝生やベンチに男子学生が座ったり寝ころんだりして話をしていたり、ホットドッグ売りの小さなワゴンが止まっていたり、近所の犬が迷い込んで来たりしていた。〉

 ぼくらが入学した2年後には、そんなふうに穏やかではなかった。マンモス大学らしく、いつもキャンパスに人があふれかえっていて、喧噪に満ちていて、殺伐とした雰囲気さえただよっていたのを覚えている。
 ご多分にもれず、著者もセクトの人間からオルグられている。
 政経学部校舎の入口で、「ちょっと話をしようよ」と声をかけられ、とうとうと世界情勢について説明されたという。そのセクトの人間が、当時4年の学部生で、革マル派トップの蓮見清一だった。
 セクトにはいりたくなかった著者は、その後、蓮見とはできるだけ顔を合わさないようにしたという。のちに蓮見は宝島社の社長になる。
 ほかに65年の早稲田入学組には、タモリや宮崎学、そして吉永小百合(ぼくも一度見かけた)がいた。
 そして、そうこうしているうちに、早大闘争がはじまるのである。

nice!(8)  コメント(0)